歳ノ差恋模様
「なぁ、ウィリス。お前、いつ結婚するつもりなんだ。」
机で書類に埋もれた男は、部屋に入ってきた人物を見もせず、目の前の書類に目を通し、ペンを走らせつつ、そう言った。
部屋に入ってきた男―――ウィリスは、毎回のように聞かれるこの質問に嘆息しながらも、丁寧にドアを閉めて、手に持っていた書類を机の脇に置くと、ゆっくりと息を吐いてから口を開いた。
「………イリア兄上、普通、挨拶から入りません?」
ウィリスは相変わらず、書類から顔を上げようともしない兄に溜息を吐いて、イリアの机に山と積まれた書類を崩さぬように、兄の座る机の縁に腰掛けた。
「今さらだろう。で?」
イリアはにべもなく答える。
「ありません。そんな―――」
「……『そんな相手いませんよ。大体、私に、そんな暇なんてありませんよ。』と、言ったとこだろうが。」
イリアは、ウィリスの言葉を引き継ぎ、さっさと答えを言ってしまった。もっとも、ここ暫く、この兄弟の会った時の挨拶かと思われる程に、同じ会話が繰り返されていたのだけれど。
「ぐっ……。」
今回は、というより、今回も、そう言われてしまうと、ウィリスは二の句をつげず、黙ってしまう。相変わらず顔を上げもしない兄を、少し恨めしげにウィリスは睨んだ。
ここはフェリエン王国。国主はイリア・ロマリア・フェリエン。書類に埋もれる仕事人間だ。
さて、そんな彼の昨今の悩みは、少し前に三十八を迎えた弟、ウィリスの結婚だった。王侯貴族で一度も結婚せず、この歳を迎える者はかなり珍しい。だが軍部にいる彼に女の影は無いに等しく、年も年だ。その上、自分で探しに行くにもないときたので、イリアは頭痛は増すばかりだった。しかし今日の彼は、やけに余裕の表情で、にやにやとウィリスの方に顔を向けた。
「なんです、その顔。」
「そりゃあ、お前の驚く顔を想像すると、なぁ…。笑いが止まらんだろ。」
「はぁ?」
イリアは不敵な笑みを依然として浮かべている。
「自分で女を見つけて来ることもしない不甲斐ないお前に、優しき兄からプレゼントだ。―――お前に妻を見繕ってきた。」
「はぁ。」
むしろこの歳まで放置していた事の方がおかしいので、ウィリスは大した感慨も無く、気の抜けた返事を返した。
「ふ、驚くのはここからだ。」
さもおかしげに、クスクスと笑いながらイリアは言葉を続けた。
「相手はラドキアの王女だ。」
「……え!? ラ、ラドキア? あの国の姫って……。確か二十と少しいった位じゃ……。」
ラドキアとは、フェリエン隣国である王国のことだ。ラドキアには、二人の姫がいたのだが、どちらも若い姫であった。
「二十と少し?ちがうな。」
「ちがうって……まさか!」
「そう。お前の妻となるのは、ラドキアの第二王女、ミラ・エリエス・ラドキア。御年十六。お前とは二十二歳差、だな。」
意地悪くも歳の差まで付け加えたイリアの声が、ウィリスには遠くに聞こえた。
「そろそろ覚悟を決めろ、ウィリス。」
あの衝撃の縁組を聞かされてから、数週間が過ぎていた。
ウィリスは、これは政略結婚だとか何とか、色々正当化する理由を考えてはいたものの、二十を超える歳の差は、やはりなかなか受け入れ難いものがあった。
政略結婚に多少の歳の差はよくある話だし、二十を超える歳の差で結婚する話は聞かないでもない。だが、色々とよからぬ噂をされるだろうし、何よりそんな只中に放り込むことになる、ミラという少女のことが、ウィリスには不憫に思えていた。
今日はその少女が、フェリエンに入る。初の顔合わせ、というわけだったのだ。
「そんなに緊張なさらなくても、よろしいんじゃない? ウィリス。とって食われるわけでもないのに。」
「シェリジェ姉上……。」
難しい顔をしていたウィリスを見かねたように、イリアの隣に立っていた、銀髪を美しく垂らした美女が声をかけた。
彼女はシェリジェ・アザリス・フェリエン。二十年の長きに渡って、イリアを側で支え続ける彼の妻であった。
「とって食われるなんて……そんなこと思っていませんよ。」
ウィリスが溜息を吐きながら首を振る。そんなウィリスの様子を見て、シェリジェは表情を少し曇らせた。
「……あの方のこと、まだ引きずってる?」
シェリジェは心配そうな表情を浮かべ、ウィリスの顔を覗き込んだ。
彼女の気遣いは分かっていたウィリスだったが、「あの方」の差す女性の事を今は聞きたくなかった。その記憶はもう二十年も前の話だが、未だに暗い記憶として彼の心を蝕みつづけていた。
「リジー。そのくらいにしないか。」
暗い思考の海に沈みそうになったウィリスを救ったのはイリアだった。
「逃げ出されてはかなわんからな。」
冗談めかして付け加えた言葉は優しさに満ちたものだった。いつもは自分のことをからかってばかりいる兄だったが、本当はとても心配してくれていることは、ウィリスもよく分かっていた。だが今更、礼を言うのもこっぱずかしいウィリスは、わざとしかめっ面をつくった。
「逃げませんよ。今更逃げようものなら、後で何て言われるか。」
「まぁな。でも、真面目な話、メリンダに何を言われるか、心配なんじゃないか?」
「………。」
ウィリスは頭痛の種を思い出して、思わず溜息がこぼれた。
メリンダとは彼らの実妹のことなのだが、彼女は大層、兄に、特にウィリスに執着するきらいがあった。
軍部に所属するウィリスが、ただ同僚の女性と仕事話をしていただけで、その女性を射殺しそうな眼光で睨むほどだった。
そんな彼女は、ここ暫く所用で城を離れていた。つまり、嫁入りする姫が、着いた瞬間からメリンダの視線に恐怖することだけは無い。そこだけがウィリスにとって、まだ救いのある部分ではあった。
「陛下。ミラ様がお着きに。お連れいたしました。」
控えめなドアを叩く音がしたあと、侍女のしめやかな声が響いた。
彼らは会話をピタリと止め、顔を上げて扉の方を見た。
ゆっくりと扉が開き、シンプルなドレスを身につけた少女が現れ、ゆっくりと部屋へと入ってきた。
美しいというにはまだ幼さの残る顔に、緊張を微かに滲ませ、ゆったりとした動作を崩すこと無く立ち止まってこちらを向いた。
「お初お目にかかります。ラドキアより参りました、ミラと申します。」
緊張した声で自己紹介をする少女、ミラは、輝く長い金髪を左右二つで束ねており、それが動きに合わせて動いた。
「よく来てくれましたね。顔をおあげください、ミラ姫。」
声を掛けたのは勿論イリアだ。ミラはイリアの声にならって、そろそろと顔を上げた。
「初めまして、フェリエン国王イリアです。こちらが私の妻シェリジェ。」
シェリジェは軽く頭を下げで、優しく微笑みながらミラを見た。若い妹ができる事を、シェリジェは本当に楽しみにしていたのだった。
「こんなに可愛らしい方が、これから妹になるだなんて……、ウィリスは幸せ者ね。これからよろしくね、ミラ。」
「は、はい。」
ミラがわたわたと、頭を下げる。
「そしてこれが、我が弟のウィリスです。」
イリアがウィリスに声をかける。ミラは緊張をさらに高めた様子で、ウィリスをそろそろと見上げた。ウィリスはそんな彼女の初々しい様子に、自然と安心させるような笑顔を浮かべ彼女を見た。
「初めまして、ミラ姫。こんなにもお綺麗な方とは、私にはもったいないほどですね。」
内心はまだ躊躇もあったウィリスだったが、それを彼女自身に見せる事は出来ないので、彼にできうる限りをウィリスは口にした。
「いえ……そんな。勿体無いお言葉です。」
ミラは少し頬を赤らめてはにかむ。
とりあえず初対面の顔合わせとしては上々だと感じたイリアは、三人で取り囲むよりは彼女の緊張も早く解けるだろうと、ウィリスとミラを二人きりにすることにした。
「では、定番の、後はお…若い? 方々で……ということで。行こうか、リジー?」
彼は眩しいほどの笑顔でそう言うと、笑顔で頷いたシェリジェを伴って、風のように出て行ってしまった。
部屋に残された二人は、暫く呆気に取られたように黙っていたが、ウィリスはふっと表情を緩めてミラを見た。
「長旅でお疲れでしょう? 立ち話もなんですし、座りましょうか。」
「は、はい。」
緊張した面持ちでウィリスにミラは答えた。ウィリスは内心苦笑しながら、ともかく信頼関係を作るところから始めることにした。
日々は飛ぶようにすぎ、結婚式の準備も着々と進む。まわりには祝賀ムードが流れはじめ、まだ結婚したわけではないにも関わらず、皆一様に、ようやく結婚の兆しを見せたウィリスに微笑ましい視線を送っていた。
当のウィリスはというと、足繁くミラの元へと出向き、会話に興じていた。その実、やはり歳が気になり彼女の下へ出向こうという気持ちが薄かったので、初めは義務感に駆られたように通いはじめたにせよ、ミラがフェリエンに来て数週間が過ぎた今となっては、なかなか楽しいものがあった。
ミラの方はというと、あまりにも年上の夫(予定)に恐縮しきりだったようだが、ここ最近やっと、慣れはじめてきたようであった。
「ウィリス様。その、今日あたりに、メリンダ様がお帰りになると、侍女達に聞いたのですが。あの、メリンダ様って、どんなお方ですか?」
今日は心地よい陽気に誘われ、庭へと出ていた二人。ミラは今朝に侍女に聞いた話を思い出したので、お茶を片手に、ウィリスに妹姫の事を尋ねた。
「……そうか。まだ、お会いしていませんでしたね。」
ウィリスは勿論、もうすぐ所用で城を開けていた妹が帰って来ることは覚えていたのだが、ミラと会ったことが無いことを思い出して、渋い顔をした。
「メリンダは、先王…父上の後妻の子で、年は二十歳……なのは知っていますよね?」
「はい。聞き及んでおります。」
ウィリスとイリアは父も母も同じ兄弟だったが、末妹であるメリンダは、先王であるウィリス達の父とその後妻との間に生まれた子であった。その為、四十前後の二人と反して、メリンダは二十歳の未婚者と、うら若い女性であった。
ウィリス兄弟と後妻の関係は良好で、ひいてはその後生まれた妹を大層可愛がった結果として、メリンダは大変な兄への依存を抱えることとなった。特に、彼女に物心がついた時、既に結婚していたイリアよりは、ウィリスにその傾向が強い。
メリンダがそんな兄の婚約者に対し、どんな反応をするかが、ウィリスにとって、ある意味では一番頭を抱える問題だった。
「……少々、性格に難は、ありますが。できれば…仲良くしてやってください。あの子はあまり同年代の女友達を持っていませんから。」
ウィリスは言葉を選び、とりあえず悪印象だけは受けぬように、当たり障りの無い事を言った。
「は、はい。もちろんです。」
ミラはウィリスが何故このような、苦々しい顔をしているのか分からず、要領をえない顔をしている。
ウィリスはどこまで説明したら良いものかと、なんとも言えぬ状態だったが、彼が口を開く前に、小走りの侍女が走り込んで来た。
「ご、御会談中失礼いたします。ウィリス様! メリンダ様がお着きになりまして、今こち……」
侍女が慌てた様子で、メリンダの帰城を伝えようとする。しかし、彼女が言い終わる前に、彼女を突き飛ばしかねない勢いで迫ってくる影があった。
「兄様! お会いしとうございました!」
「メリンダ……。おかえり、よく帰ったね。」
少しつり目気味で艶やかな髪が美しい女性―――メリンダは、ウィリスの隣にいるミラの事など目に入らないかのように、彼に突進して、全力で愛を示している。
さながら恋する乙女のように顔を赤らめた彼女に、ミラは圧倒され、空いた口は塞がりそうにもない。それでも、彼を観察していると、ウィリスは心からの笑みを浮かべ、彼女に応対している。それを見たミラは、益々先程の彼の苦い顔の謎が深まるばかりだった。
「―――そうだわ、兄様。そんなことよりも、兄様が誰かとご婚約された…とお聞きしたものですから、慌てて参ったのですけれど。本当なのですか?」
嬉々として近況報告をしていたメリンダは、はたと思い出したかのように、兄に結婚について尋ねた。
ウィリスは思わず、ミラの方を見た。それを見たメリンダは、ようやくそこに自分以外の女がいる事に気がついたようで、スッと目を細めて、ミラを睨む。
「………まさか、そこの方が?」
ミラはその視線に怯えつつも、なんとか勇気を振り絞って、頭を下げた。
「お初お目にかかります。ミラ・エリエス・ラドキアです。」
「ラドキア…? へぇ、そう、貴女が……。いい御身分だことね、自国の民が水不足で苦しんでいるときに…。貴女は何もせず、国外で悠々自適な生活なんて。」
「! そ、そんな……私。」
メリンダとしては、ミラに兄を取られたくないが故の攻撃だった。しかし、彼女の言っていることは、全く根拠のない嘘ではなかった。ミラは青い顔になって、何かを言おうとはしていたが、反論の言葉は見つからないようだった。
実際ラドキアでは、ここ数ヶ月雨が降らず、民の生活は困窮を呈しはじめている。雨乞いの儀で人柱をたてる話がまことしやかに囁かれるほどに。
そんな中で国を出てきたのだ。ミラは彼女自身の気持ちの面では民を見捨てたのではないにしろ、彼女が出来ることも、また無いのが現実だった。
依然として口籠っているミラに、メリンダは追い打ちをかけるように捲し立てたようとした。
「反論できるの? それに貴女―――」
「いい加減にしないか。メリンダ。」
しかしそれは、全て言い終わる前にウィリスによって遮られた。
声を荒げたわけではない。だが、メリンダはその声でピタリと口を噤んだ。
「申し訳ない、ミラ姫。妹が無礼な事を申し上げました。」
ウィリスは頭を下げた。
「に、兄様! どうして兄様が謝る……」
ウィリスの行動にギョッとしたメリンダは、思わず兄を止めようと声をあげた。しかし、ウィリスは頭を下げつつも、メリンダをチラと見やって、彼女を黙らせた。
「どうか、お許しいただけますか?」
「―――は…はい。もちろん、です。」
メリンダと同じく彼の行動に驚きを隠せなかったミラも慌てて頷く。
「ありがとうございます。―――メリンダ、兄上のところにでも行って来なさい。」
「は、はい……。」
意気消沈しながらも、兄の言に逆らう事の出来なかったメリンダは、こちらを気にしつつも去っていった。メリンダが行ってしまうと、ウィリスは溜息をついてから、ミラに向き直った。
「本当に申し訳ありません。あれには、きつく言っておきます。」
「い、いえ! ……メリンダ様が仰ってた事、本当のことです。私、反論出来ません。私はラドキアにいても、何も出来なかったんです。」
「ミラ姫……。たとえそうだとしても、です。言って良い事と悪い事があります。……ですが、彼女があれを本心から言っているとは思えません。もし、謝りに来たら、受け入れてあげてください。」
「あ、はい。もちろん。」
優しい笑顔を浮かべているウィリスを見、ミラは彼の妹に対する強く優しい愛情を感じた。もっとも、メリンダに言われたことはつらかったが、彼女は何故か、メリンダを恨む気持ちにはならなかった。
「うーん……緊張してきた。」
ミラは純白のドレスに身を包んで、部屋に控えているところだった。
今日はついに結婚式の日。まだ開始時間ではないものの、もうすぐすれば、はじまってしまう。用意をしに来た侍女達も、今しがた部屋を出て行ったところだった。
ミラは一人の空間で悶々としていた。新しく姉となるシェリジェも、侍女達が作業しているときまでは、何かと話し相手になってくれていたのだが、ミラの準備が済んでしまうと、一人の時間を与えたほうが良いと思ったようで、出ていってしまっていた。
やることもなく座っているのが辛くなってきた時、不意にドアを叩く音がした。まだ時間にしては早いので、首を傾げつつも、ミラは返事をした。
「……その、少し入れてちょうだい。話しておきたいことがあるから。」
「メリンダ様?」
「そうよ、入るわよ。」
ミラは声で誰か分かったとき、少しだけ迷う気持ちがあった。
初対面の時以来、ミラは彼女に会っておらず、また厳しいことを言われるのではと身構えてしまったのだった。
だが、部屋へと入ってきたメリンダはバツの悪そうな顔をして、そろそろと部屋へと入ってきた。少し意外に思いつつ、ミラは要件を訪ねることにした。
「何か、御用ですか?」
「に、兄様の妻となる人として相応しい格好か見に来たのよ! わ、悪い!?」
「い、いえ……。」
何かを恥ずかしがるように、突然早口でまくしたてるメリンダの勢いに、ミラは気圧され、戸惑いつつメリンダの顔を見た。
「その……悪くは、ないわ。………し、癪だけど、認めてあげなくもないわ。」
「はぁ……。」
メリンダは少し赤くなりながら、ボソボソと言った。しかし、ミラが要領を得ない反応をすると、一転して、ミラをギロリと睨んだ。
「結婚を認めてあげるって、言ってるのよ! もっと喜んだらどうなの!?」
「え? あ、はい! あ、ありがとうございます。」
ミラがビクッとして、慌ててお礼を言うと、メリンダはサッと立ち上がって、クルッと踵を返す。
「じゃあね、話はそれだけよ!」
そのまま勢いで、扉に突進していったメリンダだったが、ドアを開ける前に、ピタッと足を止めた。そして、振り返らないまま、ボソボソと小声で決まり悪そうに続けた。
「……………そ、それから、この前は悪かったわね。」
メリンダはミラが何か言う前に、荒々しくドアを開けてさっさと部屋を後にしてしまった。
後に残されたミラは、呆気にとられてメリンダが出て行った扉を見つめた。
「もしかして、
ミラは苦笑しつつも、どこか嬉しそうだった。
もうすぐ式がはじまる。ミラにとって、今後の一番の問題になるはずだったであろうメリンダとの関係は、どうにか問題なくなったようだ。
聖堂内には厳粛な空気と荘厳な音楽で満たされている。
ウィリスは神父の前で、自分の妻となる女性がくるのを待っていた。ゆったりと歩みを進める彼女は、緊張と無縁に見えたが、ブーケを持つ手が微かに震えていることを、ウィリスは見逃さなかった。
隣まで来た彼女にウィリスは優しく微笑みかけ、ミラの緊張を解そうとしたが、彼女は緊張で引きつった笑顔を浮かべた。
式は滞りなく進んでいく。誓いの言葉を述べ、神父から誓いの証として口付けを求められるまでは、ウィリスは勿論、ミラも平静を装う事は容易だった。
ミラも式の手順としては、覚えていただろうが、改めて再認識したのだろう、ウィリスと向かい合い、彼を見上げたミラの瞳には、紛れもない不安が浮かんでいた。
ウィリスは黙ったまま優しく微笑んで、ベールを引き上げ、顔を寄せた。
「安心して、目を閉じて。すぐに終わる。」
ウィリスは小声でミラに声をかける。ミラは不安でいっぱいであったが、その言葉に従って、そっと目を閉じた。
ウィリスは軽くミラの唇に触れる。しかし、ミラがビクッと震えたので、それ以上はせず、観客が満足するまで、そうとは分からぬように頬に触れていた。
唇が離れ、神父が結婚の成立を宣誓する。まわりは祝福ムードを前面に出して、観客は歓声をあげている。
これから、凱旋パレードやら、祝賀会やらが催される。しかし、主役たる新しくできた夫婦は、一足早くその場を辞す。それは、夫婦にとって大切な役目ではあったが、それを一番気が重く感じているウィリスだった。
ミラは一人部屋で今日、夫となった人物を待っていた。
今日はとても大事な日だから、と丁寧にいつもより時間をかけて支度をしていた侍女達も先程出て行ったところだ。
「ウィリス様がいらっしゃるまで、寝ないでお待ちくださいね。」と言い残して。
ミラは、これから自分が初夜なるものをするらしいことだけは聞いていた。しかし、具体的には何も聞かされておらず、先の不安に駆られながら、ウィリスが現れるであろう扉を、ジッと凝視していた。
「ミラ?」
「へぁ? は、はい!」
ミラはウィリスが突然扉を開けて現れたので、慌てふためく。
シャツとズボンだけのラフな姿のウィリスに驚きつつ、今の自分の格好、つまり、身体のラインが丸見えのネグリジェ一枚の姿を改めて思い出し、真っ赤になって隠れ場所を探そうとした。
そんな初々しいミラの様子に、思わず忍び笑いをもらし、ミラの隣に座って手を取った。
「そんなに、緊張しないで、ミラ姫。」
ウィリスは彼女を抱き寄せて、耳元で優しく囁く。
ミラは大人しくはなったが、顔は益々赤みが増して、どちらかと言うと硬直している。
「そ、そんなこと、言われましても……。私、こんな格好で……、恥ずかしい。」
「そんなことありません、お綺麗ですよ。」
「で、ですが……。」
ミラはウィリスを見上げた。ミラの頬は依然赤くなっていたが、ウィリスを慌てさせたのはその目に溜まる今にも零れ落ちそうな涙だった。
「き、今日は“初夜”だとお聞きしました。ですが、何をするのか、分からない……不安なのです。」
「―――え? な、何をするか、分からない?」
ウィリスが呆気にとられて、オウム返しに聞くと、ミラはコックリと頷いた。
「はい。大切な日、だとは、伺っています。でも、それだけで……。」
その返答に言葉も出ないだけであったウィリスだったが、ミラはそんな様子の彼を自分へ失望を感じていると勘違いをしたミラは、さらに目に涙を溜めた。
「ご、ごめん、なさい……。私が至らないせいで……!」
泣きじゃくるミラに、ようやく我に返ったウィリスは大慌てで彼女をなぐさめにかかった。
「ミラひ―――ミラ!」
ミラは、弾かれたように顔を上げた。ウィリスは安心させるように微笑んで優しく抱き寄せ、彼女の頭を撫でた。
「お前が悪いわけじゃないよ。」
ウィリスはあえて、いままでの敬語を止め、背中に手を置いた。はじめは固まっていたミラだったが、緊張が解けてくると、そろそろと彼の背中に手を回した。
「そんなに構えなくていい。ほら、泣き止んで、誰もお前を責めてないから。」
「ウィリス、様……。」
ウィリスは彼女がとりあえず泣き止んだ所で、頬に流れた涙を拭ってやり、軽く頬にキスをした。
「ウィ、ウィリス様!」
ミラは赤くなって飛び上がった。ウィリスは取り繕うように、ミラの頭を撫でて、優しく声をかけた。
「泣いて疲れたろう? もう、寝よう。安心して、何もしない。ただ眠るだけだよ。」
ウィリスはミラをベッドに横たえて、額の髪の毛を払ってやった。
「え、で、でも……。」
「いいから。大丈夫。寝て。」
「は、はい。」
結婚式の気疲れもあったのだろう、ミラは目を閉じるとすぐ眠ってしまった。
後に残ったウィリスは彼女にシーツをかけてやって、自分は部屋のソファへと移動する。
「……やれやれ。」
心境は夫と言うより父に近い。先が思いやられるウィリスだった。
「意気地なしめ。」
ウィリスが難関をひとまず乗り越えた、明くる日の昼下がりのこと。イリアは部屋へと訪れたウィリスに、開口一番こう言った。
「………これ、今日の残りの決裁書です。」
「こら、無視するな、ウィリス。」
ウィリスは盛大に溜息をついてから、イリアの顔を睨むような目つきで見た。
「何がですか。」
「分かってるだろうが、ミラの事だよ。」
「……。何か問題でも?」
剣呑とした目つきを一転させて、気味が悪い程の笑顔で兄に問いかける。それにイリアは呆れたような視線を送ってから、にっこり笑って言った。
「確かに。侍女達の噂によると、何も問題は無いようだがな。―――手を見せろ。」
「何故です?」
ウィリスも相変わらず笑顔を浮かべたまま間髪入れず言葉を返す。
しかし、イリアは何も言わないままウィリスを見続けている。暫く膠着状態が続く。
その後、先に折れたのはウィリスだった。もっとも、こういう直面において、先に折れるのはおうおうにしてウィリスではあったが。
ウィリスは息を吐いて、スッと左手を出した。その人差し指にはテープが巻かれている。
「やっぱりな。」
イリアはからかうような視線をウィリスにやった。
「侍女の言っていた“純潔の証”とやらの正体はこれだろう。」
「……仕方ないでしょう。何をするのかも分からないから不安だ、って泣かれたら、何も出来ない。」
「あー……。」
ウィリスのふてくされたような状況説明で、イリアもウィリスの心境をようやく理解し得たようで、なんとも言えぬ顔をした。
「でもな、ウィリス。真面目な話、結婚を名実ともに成立させてくれんと、こっちも困る。私とリジーの間に子がいないことは、お前も知ってるだろう。」
イリアはスッと真剣な顔をしてウィリスを見る。ウィリスも心得ていると言うように頷きを返した。
「分かってます。……もしかして、それもミラを娶らせた理由?」
「仕方ないだろう、リジーも、もう子を産むには高齢になってきてるしな。」
「誰が高齢、ですって? イリア。」
突然の声に驚いた二人が出入り口の方を見ると、シェリジェが立っていた。
「まったく、失礼なんだから。ね、ミラ?」
イリアを軽く睨みつつ、シェリジェは後ろに伴っていたミラに同意を求めて振り返った。
「え、えっと…?」
シェリジェは、突然話を振られた為にモゴモゴとしているミラを促して部屋へと入れてから扉を閉める。
「お邪魔だった? そろそろ休憩を入れる頃合いだと思ったのだけど。」
「あぁ、そうだな、大丈夫だよ。何かあったのか?」
「いいえ、ただ……。ほら、ミラ。」
その声に促されるように、彼女の後ろに隠れるように立っていたミラが前へと出る。手には小さなカゴを抱えていた。
「あ、あの。今日、お菓子を作ったんです。お茶受けに、と。その、お口に合うか、分かりませんけれど……。」
そう言いながら、持っていたカゴを、おずおずとイリアの方に差し出し、イリアを見た後、そろりと視線を上げてウィリスも見る。
「さっき私も頂いたのだけど、とても美味しかったわ。ラドキアのお菓子なんですって。」
「へぇ。」
イリアがカゴを開けると、中には干しぶどうを使ったパウンドケーキが入っていた。
イリアとウィリスは一切れとって食べた。
「美味しい。ラム酒の香りも良いね。」
言葉を発したのはイリアだったが、ウィリスも同意するように頷いている。
「本当ですか? 良かった…。」
ミラは安堵からか、顔も自然とほころぶ。シェリジェも隣で一切れ摘まんでいた。
その後、イリアの執務室で簡単な茶会が催されたのは言うまでもない。
フェリエン王家の夕食は家族全員でとる習わしになっている。今日からはその一員として、ミラも正式に加わることになる。もっとも、彼女がフェリエンを訪れた日から、イリア達の配慮により、その席に加わるときもあったので、初めてというわけではなかったが。
その席はウィリスが思っていたよりもかなり穏やかに終わった。彼の悩みの種であったメリンダも友好的とは言い難かったが、ミラを慮っているようだった。
夕飯を終え、それぞれ別れると当然ながらウィリスはミラと二人きりになる。とりあえずは当たり障りのない話題で間をもたせるが、何もするつもりはないとはいえ、どことなく気は重い。
「あの、ウィリス様?」
「何? ミラ。」
「これ、貰っていただけませんか……?」
そう言ってミラ差し出すのは可愛らしい柄の布に包まれたものだった。
「……お菓子? 昼間も貰ったのに、良いのか?」
「レモンクッキーなんです、昼間とは別のもの……。その、甘いものが苦手そうでしたので……。」
頬を少し染めて、ゴニョゴニョと照れたようにミラは説明した。
「……まさか、わざわざ?」
どこでわかったのだろうか。ウィリスはそう思いながら、意外の面持ちでその包みを受け取った。
「―――は、はい。ウィリス様に、喜んでいただきたくて。」
パッと顔を上げて、照れながらはにかむミラに、思わぬほどウィリスはドキッとさせられる。
しかしそこは年の功というかで、なんでも無いふりをしながらミラに笑顔を返した。
「そうだったのか、ありがとう。でも、昼間のものも美味しかったのは本当だよ。」
「は、はい。」
ニコニコと機嫌を良くしたミラは、キュッとウィリスの服をつかんで、ウィリスを見上げる。頬も赤らめて、恋する乙女さながらである。
なんだかは分からないが、ミラの信頼のようなものを勝ち得たらしいウィリスはホッとする一方で、思わぬ懐きぶりに気圧されていた。
一体、昨日と今日の間に何があったのか?ただただ不思議なウィリスであった。
「リジー、どう思う?あの二人。」
もう空はすっかり暗くて、空には星と月が輝く。窓から差し込む月明かりを見ながら、イリアは気だるげにシェリジェに問いかけた。
「……ウィリスとミラのこと?」
「そう。」
イリアはシェリジェの銀髪を掬って口づけ、顔を引き寄せて唇も味わう。彼がすぐに触って来るのは、わりといつものことだったので、シェリジェは驚くことなく、イリアの方に近寄った。
「んっ……。」
唇の端から息が漏れる。イリアはゆっくりと顔を離して、シェリジェを抱き寄せた。
「あの二人、上手くいくかな。」
いつも弟をからかって、飄々としているイリアは、シェリジェにだけは、弱音のようなものをこぼす。彼は人に弱みを見せるのをあまり好まない。しかし、シェリジェは何を言っても受け入れてくれる。そういう安心感があるから、イリアも思わず本音を零すのだろう。
「……貴方らしくないのね。心配なの? そういうのも全部、計算済みだと思ってたわ。」
「まさか。そこまでは、私にもどうしようもないだろう。」
イリアは苦笑いをしながら、シェリジェの頬に触れた。彼女もくすぐったそうに笑ってイリアを見た。
「…大丈夫、だと思うわ。ミラ、見てたでしょ? 昨日と少しウィリスへの対応が違った、と思わない? 昨日、とっても優しくしてくれたんですって。」
「なるほど……。」
「ふふ、大丈夫よ、きっとね。」
部屋の明かりが落とされたのは、すぐ後のことだ。
日々は穏やかに過ぎていく。
ここ数日、ウィリスはじめ、誰もが特に何の事件も無く過ごしている。
「あ、おはようございます。ウィリス様。」
ウィリスが目を覚ますと、ミラがニコニコと笑いながら、上から覗き込んできた。身支度がまだなのか、結ばれずに垂れてくる、美しい金髪がウィリスの顔に掛かる。それを撫で、引っ張ってしまわないようにしながら、そろりとよけて、身を起こす。
「おはよう、ミラ。今日は早いな。」
「さっき起きたところですよ。」
ウィリスがミラに笑いかけると、ミラはさらに顔を輝かせ、ウィリスに抱きついた。
相変わらず添い寝状態を続けている二人だが、朝にミラがウィリスに抱きつくのは、いつの間にか日課になっていた。
ウィリスもさすがに慣れもあり、手を彼女の背中に回して、ギュッと抱きしめてやってから、頭を撫でる。
それに応えるようにミラはくすくす笑って、安心しきるようにウィリスに身体をあずける。
だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。ウィリスはそれを伝えるように、ぽんっと彼女の背中を叩く。
「さ、ミラ。そろそろ起きないと。」
「う……。」
ミラはまだどことなく不満そうに、身体を離した。
いうもなら、不承不承といった様子ながらも、さっと身支度をしに立ち上がるミラだったが、今日はうつむいたまま、なかなか立ち上がろうとしない。
「どうした、ミラ?」
いつもとは違うミラの行動に、何か言いたい事でもあるのかと、ウィリスは問いかけた。
「……その。昨日、姉様から、手紙が届いたのです。」
彼女の言う“姉様”とは、シェリジェのことではなく、彼女の実姉のことで、名をルヴィアと言った。
「ルヴィア姫から?」
ミラはフェリエンに来たあとも、頻繁に実兄姉と手紙のやり取りをしており、手紙が届いたこと自体は特に驚くには値しない。しかし、彼女の意気消沈した様子を見るに、何か芳しくない内容の手紙が届いたのであろう。昨日はウィリスは所用でミラと午後以降会っていなかった。だから、その間に届いた手紙であろう。
「はい。……その、ラドキアで日照りが続いているのは、勿論ご存知、ですよね。それが、あまり、良くなっていないようで。」
「やはり、足りていないか……。」
「あ、ご、ごめんなさい! フェリエンには、ご救援頂いているのに……。その、足りていないわけでは、ないようなのです。ただ………。」
フェリエンはラドキアに水の供給を臨時的にしている。これは、昔から、地形的に水不足になりにくいフェリエンがラドキアを援助することはあったのだが、今回は史上例を見ぬほどの規模での支援が行われている。
ラドキアでも珍しいほどの日照り、というのもあるのだが、それ以上に大きな割合を占める理由は、ミラとウィリスの結婚である。
イリアが諸隣国に手を回し、花嫁候補を見繕ってきたのだが、中でもラドキアの姫は対外政策的にも大変欲しい姫であった。
そこで、ラドキアへの多量の水の援助のかわりに、ラドキアの姫を王弟の妃として娶ることとなった。両国の利害は一致し、結婚の話が固まることとなり、つまるところ、完全なる政略結婚である。
もっともイリアとて、ウィリスが若いうちは、自分も好き勝手やっているのもあり、ムリな政略結婚は強いりたくなかった。しかし、もうウィリスが誰かを連れてくる、というのを待つには歳を取り過ぎた。早くせねば、フェリエン王家の跡継ぎがいない、という状態になってしまう。というわけで、今回の結婚に至ったというわけだ。
そんなわけで、水は足りているというミラの言葉にホッとするウィリスだったが、ミラの言葉はまだ続くようであった。
「ただ?」
ウィリスが続きを促すとミラはポツリポツリと話し始めた。
「……ラドキアでは、王家直系の女は治水の巫女を務めるのです。治水は本来、水害対策の言葉ですが、この場合は、水に関するもの全般を指していて、つまり、降雨の儀式をするのも、治水の巫女の役目なのです。」
「それが、ルヴィア姫……。」
「はい。……降雨の儀式は、大方は雨の神に舞を踊り、神を讃え敬って、喜ばせた御礼として、雨を降らせてもらうのです。」
「………でも、雨は降らなかった?」
ミラは項垂れるように頷いた。今にも泣き崩れてしまいそうな様子の彼女をウィリスは抱き寄せて、背中を撫でる。
「もし、もし、舞で……雨が降らなかったら。もっと、効果のある降雨の儀式、するんです……。」
ミラはウィリスにギュゥッとしがみついて、声は半ば涙声になっていた。
「人柱……。治水の巫女を人柱……生贄にした、降雨の儀式を。もしかしたら、やらなきゃダメかも、って………。」
自分は姉が犠牲になるかもしれないのに、何もできない。そう言ってミラはウィリスの胸に顔を埋めて泣いた。
ウィリスはどう言ったら良いのか分からず、ただ、ミラを抱きしめることしかできなかった。
それから数日はそんなことがあった事を感じないほど、ミラは元気そうにしていた。少し元気すぎるほど。しかし、それに気付いていたのはおそらくはウィリスのみであった。
「ミラ。」
「ウィリス様!」
ミラは寝室に現れたウィリスに気が付いて、パッと立ち上がって駆け寄った。その顔に浮かんでいる笑顔は、傍からみれば何時ものそれとは変わらないように見えた。
「……ミラ。何かあったのか?」
しかし、ウィリスはミラの顔をじっと見た後、ポツリと呟いた。
「えっ……。」
ミラはキョトンとしたかと思うと、いきなり目から涙を溢れさせた。
「ミ、ミラ!?」
さすがにいきなり泣かれるとは思っていなかったウィリスは、ミラを宥めにかかった。
ミラはえぐえぐと、ウィリスのシャツにしがみついて一頻り泣いた後、ようやく少しずつ話せるほどに落ち着いてきた。
「ミラ? 何があったか…話せるか?」
ウィリスが穏やかに話しかけると、ミラの顔はまだ涙で濡れていたが、ゆっくりと頷いた。
「人柱の話……しました、よね。あれ、一月後、って……!」
「………!」
ミラはそれだけ言うと、再びウィリスにしがみついて泣きはじめる。ウィリスは返す言葉も無く、ミラを抱きしめる腕に力を込めた。
「ミラの具合はどうだ?」
次の日、ウィリスはイリアにあることを頼みに、彼の部屋へと訪れていた。
昨日一晩中泣いていたミラは、とても外に出られそうにもなかったので、ウィリスは彼女を体調不良ということで、部屋で休ませていた。
「えぇ。……大事を取らせただけですから。」
正直なところ、彼女の傍にいてやりたかったウィリスだったが、そういうわけにもいかない。
「そうか。それなら良いんだが。……で? 要件は?」
本当に抜け目がない。自分が面倒な要件を携えて来たことは、ばれているらしい。とウィリスは内心嘆息した。
「………ラドキアへの援助のことです。」
「……? 不足は無いはずだが。」
「それは聞いています。そうではなくて、ミラのことです。」
イリアは不思議そうな顔でウィリスを見つめた。今、ウィリスとミラの関係に何か問題があるようにはとても見えない。
「もし、ミラが……国に帰りたいと言っても、援助を続けて欲しい。お願いできますか。」
この「帰る」がただの里帰りを意味していないことは明らかだった。イリアは驚き目を見開いた。そしてそのまま何も言わないまま、目を細めてウィリスを見た。ウィリスの表情は変わらない。確固たる意思と、イリアが受け入れてくれるか、という不安が溢れた顔をしていた。
ウィリスが本気である、ということを悟ったイリアは目を閉じて少しの間瞑目して、ゆっくりと口を開いた。
「―――わかった。いいだろう。」
その言葉を聞いて、ウィリスは明らかにホッとした顔をした。しかし、結婚を条件に施している援助のはず。あっさりと許可を出したことは、どう考えても納得がいかなかった。
「何も、聞かないんですか。」
「聞いても仕方ないだろう。お前の意思は固そうだ……。喧嘩した、という感じてもなさそうだし。」
ウィリスはすっと頭を下げた。
「………ありがとう、ございます。」
「構わない。ま、最終手段には、しろよ。」
「え? あ、はぁ。」
イリアはどこまで見透かしているのだろうか。なんだか、全てを知られている気がするウィリスだった。
「ミラ?」
ウィリスがミラのいる部屋へと戻ると、ミラはネグリジェ姿のままシーツを頭から被って、ベッドに座り込んでいた。
ウィリスは彼女を刺激しないように、ゆっくりと隣に腰を下ろした。ミラはウィリスが腰を下ろした瞬間、黙ったまま、キュッとウィリスに抱きつく。
頭にあったシーツが落ちる。露わになった金髪を、ウィリスはゆっくりと撫でて、ミラを抱きしめた。顔を見るとミラの目元は真っ赤になっていて、とても痛々しい。また泣いていたのか頬には涙の筋がある。ウィリスは指の腹でそれを拭ってやった。
ミラはウィリスの顔を見ると、また顔を歪めて涙を零す。
「ウィリス、様……。私、私……、今日、ずっと考えてたんです。私、ラドキアに―――」
「『ラドキアに帰りたい』?」
ミラが言い終わる前に、ウィリスがその言葉を引き継いだ。ミラは図星だったようで、ショックを受けたような顔をして、それでもゆっくりと頷いた。
「ごめんなさい……。」
その言葉で、これがただの里帰りのつもりでないことを、ウィリスは悟った。そして恐らくは、姉ルヴィアの身代わりになるつもりであろうことは、容易に想像がついた。
まさか、昨日の今日でこの判断にいたるとは思っていなかったウィリスだが、ある程度予想はついていたので、何も聞かなかった。いや、聞くことができなかった。
「………。わかった。援助の方は心配しなくてもいい。続けてもらえるように頼んで来た。」
「頼んで来た」というところで、顔を弾かれたように上げたミラの顔には、驚愕の色が浮かんでいた。
「私が、こう言うだろうって、わかってらっしゃった………?」
「可能性としては。……だけど、そうならないと良い、と思ってたよ。」
「ウィリス、様……。あの、私達の婚姻関係、は? どうなるのですか……?」
ミラはウィリスの妻としての責務を何も果たさぬまま、フェリエンを出ることに、後ろめたさを感じているのか、不安げな表情でウィリスに問いかけた。
ウィリスは、どう言おうか迷った。しかし、誤魔化せる話ではないので、そのまま伝えるしかなかった。
「………結婚は無効だよ。私達は、書類上でしか結婚していない。」
「え……? どういう………」
ウィリスは説明をどうしてもすることが出来なくて、黙ったままだった。ミラは事情が飲み込めず、合点のいかぬ顔をしている。だが、ウィリスが説明してくれる気配が無いことを悟ると、ミラはウィリスの腕を抜けてゆっくりと立ち上がった。
そして、泣きはらして、まだ赤い目で悲しそうに微笑んで、ウィリスに一礼した。
これ以上ウィリスの顔を見ている事は出来そうもなかった。
「…では、今まで、ありがとうございます。ウィリス様、どうか、お元気で……。夜までには出ます。」
ウィリスは、こんなにも早く出て行く決心をしたミラに動揺しきりではあったが、それを表に出さないよう、あえて毅然とした様子を装って、その言葉を受け止めた。
「…わかった。」
ミラはクルッとスカートを翻して出て行った。否、出て行こうとした。
ミラは扉のノブに手を掛けたところで、縫いとめられたように動きを止めていた。
「―――ウィリス様!」
ミラはウィリスの名を叫ぶと、ベッドの端で座っていたウィリスに飛びついた。
「ウィリス、様……。ウィリス様………!」
ミラはボロボロと涙を零しながら、ウィリスを抱きしめた。はじめは驚いていたウィリスも、ミラをきつく抱きしめていた。
そして、少ししたあと、ミラはスルリとウィリスから離れてウィリスを見つめた。
「ウィリス様………。大好き――――」
ミラは言い捨てるようにそれだけいうと、部屋を走り去った。
「それで……、どうして私のところに来るのかしら?」
「だ、だって……逃げる所がここしか、ありませんでしたので……」
メリンダは泣きじゃくるミラを、諦めの表情で眺めていた。彼女が涙をポロポロ流しながら、メリンダの部屋の扉を叩いたのは、30分程前の事だ。扉を開けたメリンダは、目元を赤くしたミラにギョッとして、どうしようもなく部屋へと招き入れた。ミラが平静を取り戻し、喋れるようになるまでに数十分費やし、やっと、事の次第を聞いたところだった。メリンダは溜息を吐きながら、ミラにハンカチを差し出してやる。来た時に渡したハンカチは、涙と鼻水でビショビショになっていた。
「それで? むざむざ死ににいくっていうの?」
ミラは鼻を啜りながら、黙って頷いた。メリンダはその姿を見てふんと鼻を鳴らした。
「呆れた。あなたの兄様への気持ちはその程度だったわけね。」
「ちがっ……。」
メリンダは依然として泣き続けるミラを、冷たく見下ろす。その視線にミラはたじろいたように身体を動かす。
「あなた、何も分かっていないのね。あなたは責任を全て放棄して、ラドキアへ逃げ帰るのよ。……それでも出て行く、というのなら、勝手にすればいいわ。」
メリンダは座っていた椅子から立ち上がると、くるっと身体を反転させ、部屋の外へと消えていった。
ミラは流れる涙も気にならないかのように、メリンダの出て行った先を見つめていた。さながら、捨てられた猫のようで、背中は寂しげであった。
もう部屋を出ようかと、ミラが考え始めた時であった。メリンダが、大荷物を抱えて姿を現した。
「はい、これ!」
怒ったような調子で、メリンダは持っていた荷物をどさりと床に落とした。
「え、こ、これは……?」
ミラは、驚愕の表情で、床の荷物とメリンダの顔を交互に見ている。荷物には、服が数枚や、靴など今のミラに必要なものがそろっていた。
「食糧と、馬車の用意はしてくるから、さっさと着替えたらどうなの? それとも、その格好で行くつもり?」
ミラがなお、呆けている事にイラつくようにメリンダが一喝すると、メリンダはビクつくように立ち上がって、わたわたと用意を始めた。ミラの頬に涙の筋は残っていたけれど、もう涙は流れていなかった。
フェリエンの首都から馬車で一週間ほどの距離にあるラドキアの首都は、山の上に建つ宮殿に目を惹かれる。大理石と水晶が織りなす荘厳な宮殿は、人々の誇りであった。しかし、彼らが最も誇りを持つのは、治水の巫女の住まう神殿の方である。宮殿から少し馬を走らせた位置にあるそれは、湖の中に建てられており、通常ならば、水に浮いたように見え、とても幻想的であった。
「ここ数か月ずっとこうなのに、ちっとも慣れないわね。」
毎朝の日課である祈りを終えた治水の巫女、ルヴィア・ルミス・ラドキアは枯れ果てた湖底をじっと見つめていた。滾々と湧き出ていた湧水によって、満たされていたはずのこの湖も、枯れ果ててから久しい。その水によって、快適な温度に保たれていた神殿は、今や蒸し風呂状態で、暑さにやられて倒れる巫女も少なくなかった。じりじりと照りつける日差しは衰えることを知らず、もうずっと、雲すらお目にかかったことが無い。ルヴィアは流れる汗を拭うと、王宮へ向かうための馬車の用意を命じた。彼女の愛妹であるミラが、フェリエンを出、こちらに向かっているという情報を手に入れたのは、数日前の事だった。場所と速度から換算すると、もう着くころだった。
「ミラ……。」
あの優しい妹の事だから、自分のことを心配して思わず飛び出してきたのだろう、ということは、容易に想像がついたルヴィアだが、それ以外に理由があるのではないかと心配だった。ミラと年上の夫との間に、悪い噂は聞かなかったし、ミラとの手紙でも楽しそうな様子が綴られていたが、それでもラドキアを出るまでのミラの不安そうな顔を見ているルヴィアは、ただただ不安だった。また、ミラとフェリエンの王弟が結婚することを条件に、水を与えてもらっている事を考えれば、その救援が断たれることも心配だった。今救援が断たれれば、多くの民が旱魃で死んでしまうのは必至だ。
そんなことをもやもや考えながら、神殿の中を横切って、馬車の用意されている場所へと出ようとした時だった。
「巫女様、お手紙でございます。」
「手紙……? 急ぎ、のようね。誰から?」
ルヴィアが手紙を差し出してきた彼女付きの侍女から聞いたその名は、彼女が予想もしていない人物からであった。
「リーヴェン。ミラはまだ?」
ルヴィアがラドキアの王、リーヴェン・ソイル・ラドキアの執務室を訪れたのはまだ、日が昇り切らない頃だった。
「ルー? いや、まだ到着したという知らせは来ていないよ。」
リーヴェンはルヴィアによく似た顔に、困ったような顔を作って、ルヴィアを迎えた。二人はこのとてもよく似た顔で分かるように、双子として生を受けていた。顔はそっくりで、男女の性があるので見分けることは可能だったが、性がはっきりと分かれる前の幼い間は、服以外で見分けることは、家族以外にはほとんど不可能であった。しかし、性格の方は正反対で、リーヴェンが優しく柔和で我慢強いのに対し、ルヴィアは勝気ではつらつとした身体が先に動くタイプだった。治水の巫女として巫女たちを統制しなければならない立場になってから、そういう衝動的な面はだいぶ影を潜めたが、根本のところはあまり変わっていない。
「そう。ミラはまだなのね。」
ルヴィアはリーヴェンの座っている机に腰掛けて、その机に置かれていた書類を一枚、おもむろにとって眺めた。そこには辺境の村からの報告が記されている。
「水不足です。だなんて、そんなことわかってるのよ。」
「仕方ないさ。それよりも、ミラが戻ってくることで、フェリエンがどう動くかが、僕は心配だよ。」
あからさまに顔をしかめて、ブツブツと文句を言っているルヴィアに、リーヴェンは苦笑して、
「まあまあ」と宥めるように彼女の肩をポンポンと叩いた。
それでもまだまだ不満そうなルヴィアは、ぽいっと持っていた紙を机の上に投げ、机から降りた。しかし、リーヴェンの方を向いたときには、もう忘れてしまったかのようにニコッリと笑った。
「ね、リー? フェリエンから何か届いてる?」
「え? いや、何も。」
唐突なその質問に目をパチクリさせて、リーヴェンはルヴィアを見た。その答えに満足するようにルヴィアは大きく頷いて「そっか。」といった。
「なら大丈夫よ! 救援を打ち切るような、動きはないって。」
「……どこの情報?」
ルヴィアがあまりにも自信満々に言うので、リーヴェンは訝しげにルヴィアを見た。神仏信仰が薄いフェリエンは、ラドキアで言うところの「神殿」が存在しない。その為、王宮を通さず、神殿を経由して入ってくる情報は殆どない。だから、リーヴェンが怪しむのも無理ない話だった。
しかしその情報が正しい情報ならば、ルヴィアのこの反応は何だろう。ルヴィアは、リーヴェンがどこからの情報かと聞いた瞬間、激しく狼狽した。
「え、えっと……それはぁ、その………。」
ルヴィアのこの振舞いはものすごく怪しいが、リーヴェンはじっとルヴィアを見て、そして、ふぅと息を吐いた。ルヴィアはつまらないウソはつかない。彼女と生まれた時から一緒なのだから何の根拠もなくても、そう思えるくらいには彼女を知っていたし、彼女に全幅の信頼をおいていた。たとえ、ルヴィアの様子がおかしくても。
「信用していいんだよね?」
「もちろんよ!」
最終の確認のつもりで問いかけたリーヴェンは、間髪入れず帰ってきた気持ちの良い返事に頷いて、なら、といった。
「後の問題は、ルー、君と、ミラ…かな。」
リーヴェンは困ったようにルヴィアを見て微笑んだ。
「ごめんね。私の舞が届かない、から。」
ルヴィアはリーヴェンに近寄る。リーヴェンは立ち上がって、彼女を少し抱き寄せた。
「そんな風には思ってないよ。」
少しだけ自分より背の低いルヴィアの髪の毛をなぞる。ルヴィアも、彼に少しだけ寄りかかって、目を閉じた。降雨の儀式の時までもう二週間ほどだった。
「ミラは私を止めに来るつもりかな……。」
自分の手紙でフェリエンを飛び出させてしまったと、少し負い目を感じているルヴィアは、ポソリと呟いた。
「かもしれないね。僕は…身代わりになると言い出すんじゃないか、って心配だよ。」
「うん……。」
リーヴェンはミラが羨ましかった。自分だって、たった一人の自分の片割れを手放すのは嫌だった。その気持ちをこんなにも素直に出せるミラは、本当に眩しい存在に感じたのだ。
「陛下、ミラ様が御着きになりました。」
若い侍従の声が部屋に割って入った。二人は顔を見合わせて頷きあうと、リーヴェンがミラを入れるように促し、二人はミラを迎える為に少し扉の方へ近寄った。
「ルー姉様!」
ミラは扉を開けてもらう間も待てないかのように、部屋の中へと駆け込んで、ルヴィアに抱きついた。
ルヴィアの顔を見て安心したのか、ミラは半泣きで彼女にぎゅぅとしがみ付いている。ルヴィアはそんなミラに呆れたように笑って、宥めるようにギュッと彼女を抱きしめた。
そんな様子を隣で眺めていたリーヴェンは、ミラに近付いてぽんっと頭に手を置いた。
「ルーばっかりで、僕との再会は懐かしんでくれないの、ミラ?」
「リー兄様。ううん、会いたかったです。」
ミラはルヴィアの胸から顔を上げると、目は涙が溜まったままだったが、顔を喜色でいっぱいにしてリーヴェンに笑いかけた。リーヴェンはミラの目尻の涙を拭ってやると、ミラをきゅっと抱き寄せた。
「さて、ミラ? 戻ってきて早々悪いけど、突然戻ってきた言い訳を、聞こうか。」
リーヴェンはミラを解放すると部屋のソファに座るように促して、自分とルヴィアも座ってからそういった。
ミラは膝の上の手をギュッと握りしめて、話し始めた。
「……言い訳は、ありません。全部、私の我が儘です。軽率な行動でした。―――でも……。」
ミラは俯き加減で、でもはっきりとそう言った。メリンダに言われたこともミラの心に依然として残っており、日が立つごとに、フェリエンを出てきてしまったという後悔となって彼女に圧し掛かっていた。
ウィリスが恋しくて、何度帰ろうかと思ったか分からない。きっと帰ったら、ウィリスは優しく迎えてくれるだろう事は分かっていたけれど、自分から出てきた手前、帰ることも出来なかった。
「でも、“結婚は無効だ”なんて、言われたら……帰れない。私、意味が分からなくて。……姉様の事もあったけど、それもあって、思わず飛び出してきちゃった……。だって、離婚じゃなくて、無効だ、なんて……。私、何が悪かったのかも分からないし………。」
ミラはぼしょぼしょと涙声で続ける中、兄姉二人は、それの意味するところを悟り、唖然としていたのは言うまでもない。
「二十も下の子に手出すのは、犯罪臭がするのはわかるけど、でも、ねぇ……。」
「いやいや、それよりも、ミラの知識不足じゃないかな、ルー?」
「え、私の責任?! 母の役割でしょ、こういうのは。私、「未婚女性」よ?」
二人はミラの事をそっちのけにして、ぼそぼそと言い争いをしていた。ミラは二人が聞いていない事にも気付かず、後悔やら反省やらを言い続けている。
「兄様、姉様……?」
ようやく二人がこちらを見ていない事に気が付いたミラが、そろっと二人を見た。その声にはっとした二人は、ミラに誤魔化すような苦笑いを向けた。
「えっとね、ちょっと、こっちおいで、ミラ。」
ルヴィアはそう言って立ち上がり、ミラを部屋の隅へと呼んだ。呼ばれるままに来たミラに、顔をかすようにちょいちょいと、指で示す。そしてこそっとルヴィアはミラに耳打ちを始めた。
「―――えっ!!」
「うん、まぁ、そういうことだから……。わかった?」
「結婚」について話してきたらしい女子二人は顔を赤くしつつ、部屋の中の方へと戻ってきた。ミラは顔を覆っていたが、その下はリンゴ顔負けというほど顔を赤くしていたが、ルヴィアもルヴィアで長距離を走った後かのように疲れ切っている。
「ルヴィア、お疲れ様。」
ルヴィアは気力が尽き果てた様に力なく頷いた。
しかし、ミラの様子を見る限り話を続けることは出来そうもないと、リーヴェンは判断した。なにより、こんな状態のミラを見ているのも忍びなかった。
「ミラも、今日着いたところだから、疲れているはずだね。もう今日はゆっくり休んできなさい。」
ミラは顔を覆ったままで、こくっと頷くと、足早に部屋を後にした。
ミラはあてがわれた部屋へと行き、扉を閉めたとたんへたり込んでしまった。その部屋はミラがフェリエンに嫁ぐまで使っていた部屋でも、もちろんフェリエンにいるときの部屋でもなく、あまり馴染みのない客間だった。自分自身としては、離婚するつもりで出てきたのではあったが、今の精神状況では、それがとてもみじめに思われた。
「ウィリス様……。」
確かに姉に聞いた話は恥ずかしいものがあったが、ミラとしてはそれよりも、自分が妻としての責任を本当に何一つできていなかったことが思い知らされて、一層辛かった。そんな自分にウィリスはとても優しかった。無理強いすることは無かったし、いつでも自分の意見を尊重してくれた。そのことも、今の彼女にはさらに辛い現実だった。なんて自分は身勝手だったのだろう。
ミラはウィリスが恋しかった。あの腕にすがって、抱きしめて欲しかった。ただただ、会いたかった。
「ウィリス様。ごめんなさい、ごめんなさ……。」
それから数日は、ミラの泣きはらした目がとても痛々しく見えた。でも、彼女はとても元気に振る舞って、兄姉が心配を口にする暇を与えなかった。
しかし、日々は無情にも過ぎ、降雨の儀式が行われる日まで一週間を切っていた。
「姉様。儀式を私にやらせてほしいの。」
この日、神殿へと来ていたミラは、神妙な面持ちでルヴィアに申し出た。この申し出は、ここ数日幾度となくミラが口にしているもので、この日もルヴィアは取り合おうとはしなかった。
「駄目よ。これは私の仕事。何度も言ってるけど、あなたはフェリエンに帰りなさい。」
ルヴィアはそう言って、ふいっと違う方を向いた。しかしいつもならここで引き下がるミラだったが、今回は易々とは引き下がらなかった。
「待ってください、姉様! 私、私なりに考えたんです。」
「ミラ……。」
ミラはルヴィアが足を止めたのを見ると、今まで、悶々と一人で考えて、ため込んでいたものが爆発するように、一気に捲し立てた。
「姉様。姉様は私に、フェリエンに帰れっておっしゃるけど、私は、ラ、ラドキアの人間です……。それに、私が帰らなくても、ラドキアへの援助は打ち切られません。―――なら、私が、私が帰る必要はどこにあるんですか……。でも、姉様は、これからのラドキアに必要な人間です。このまま儀式をすれば、治水の巫女がいなくなってしまう……。それはだめです。…ちがいますか?」
本当は帰りたかった。フェリエンに、ウィリスの元に。しかし、ミラは今でもウィリスが自分の事を少しでも思い出してくれる時があるのかさえ、不安だった。
でも本当は、会う勇気がないから、こうしてもっともらしいことを言って、逃げているのかもしれないと、ミラはどこかで理解はしていた。しかし、それはあえて見ないようにして、ただ、ルヴィアだけを見た。
「ミラ…でも、私は、あなたに儀式をしてほしくは……。」
「それは私も同じです!!」
ミラは声を震わせてそう叫んだ。ルヴィアはそれにグッとつまり、ミラから目をそらした。
ルヴィアはもし自分がミラの姉ではなく、ただの治水の巫女ならば、その申し出をすぐに受け入れていたかもしれないと思った。ルヴィアは静かに溜息を吐いた。
治水の巫女は、ラドキアの王家の女子が受け継ぐ、「神との交信の力」があることで、なることが出来る。通常の場合、直系女子の中で最も力の強い者がなる、という習わしだった。つまりは、彼女らの場合、ミラが選ばれるはずだった。
そう、潜在能力としては、ルヴィアよりもミラの方がはるかに上だったのである。
しかし、ルヴィアとミラには歳に七つの差があるので、ミラが生まれた時にはルヴィアはすでに、治水の巫女としての修業を始めていた。本来ならばそうであっても、交代が常だったのだが、ルヴィアの強い希望で、ミラは自分の力を知らぬまま育ったのだった。
治水の巫女になれば、厳しい修行が待っているだけでなく、二度とラドキアから出る事も叶わず、多くは神殿と宮殿しか知らぬまま一生を終える。ルヴィアは、生まれたばかりの小さな妹に、そんな人生を押し付けたくはなかった。
しかし、運命は逃げる事を許してはくれないようだった。
ルヴィアは、目に涙をいっぱい溜めた可愛い妹を、目に焼き付けるように見つめた後、ギュッと抱きしめた。
「―――わかりました。貴女に巫女位を移譲致します。」
ミラは小さく頷くと、無言のまま姉を抱きしめ返した。
ミラが治水の巫女となった。その情報はフェリエンへと舞い込んでいた。イリアはそれを伝えてきた書状を、渋い顔のまま見据えていた。ミラの里帰りのことはウィリスに任せようと、特に口を挟まずにいたウィリスだったが、さすがにこれには黙っているわけにはいかなかった。イリアはその書状をぽいっと放りだすと、事前に呼んでおいたシェリジエの方を向いて何も言わないようにと首を振ると、同じく呼んでいたウィリスの方を、先ほどの渋い顔のまま見やった。
「で、どうするつもりだ?」
それまで、イリアの隣で黙って控えていたウィリスはイリアの方を見た。その顔にはとくに驚いたような様子もなく、常と変らぬ表情をしている。イリアはそれを意外に、そして少し不満に思った。
「どうもこうも。迎えには行きますよ。ただ、フェリエンに連れて帰る事が、彼女の幸せになるのか、……それが私には分からないんですよ。」
ウィリスの言わんとすることをイリアは理解し、表情を曇らせた。
それはおよそ二人の間でタブーとなっていた話だったのだ。
ウィリスにはかつて婚約者がいた。もう二十年も前の、イリアもまだ王太子だったころの話だった。
ウィリス殿下は次の王位を狙っておられる。これは今も実しやかに囁かれている噂だが、当時は今よりももっと、真実めいて蔓延っていた。本人はその噂を心から否定していたし、イリアはもとよりウィリスの関係者は誰もそんな噂は信じていなかった。しかし、それ以外の多くの人間は、あたかもそれが真実であるかのように思っていた上、イリアの側近たちもその例にもれなかった。
また、ウィリスの婚約者は、フェリエンで名のある貴族であり、結婚すれば強力な後ろ盾を得ることが出来る。それが、噂に更なる信憑性を持たせていた。
それに危惧を持ったイリアの側近たちは、イリアのあずかり知らぬところで、ウィリスの暗殺計画を企てていた。しかし、それに失敗すると、矛先が別の方へと向いた。ウィリスの婚約者の女性に―――
「―――いい加減になさい、ウィリス!」
それまで黙って二人のやり取りを聞いていたシェリジェが、堪え切れなくなったように口をはさんだ。眉間にはうっすらしわが刻まれている。
「イリアは言えないと思うから、私が言わしてもらうけれど! 一体、いつまで、うじうじしているわけなの? ミラがフェリエンに来るのが、幸せかどうか分からない、ですって? あの子を見れば、一目瞭然じゃないの! それに、昔の事を持ち出すのもバカみたいな話よ。こっちに子供がいれば別だけど、ミラがいなかったら、だれが世継ぎを産むのよ。それが分からないアホはいないわよ。」
シェリジェの剣幕と正論に、気圧され気味の男二人は二の句がつげそうもなく黙っていた。そんな二人を見たシェリジェはさらに、眉間のしわを深くして、ウィリスを睨んだ。
「もう、だから! いつまでぼんやりしてるわけ? 少しの行動の遅れは命取りになる、って私、いつも言ってたわよね? ―――わかったら、さっさと動く!」
「りょ、了解……!」
シェリジェの剣幕に押されウィリスが慌ただしく出て行くと、部屋にはイリアとシェリジェが残された。シェリジェはふっと緊張を解くと、イリアに近寄った。
「ごめんなさい。言いすぎたわよね……。」
少し後悔している様子のシェリジェに、イリアは微笑むと、彼女の頭を撫でて軽く頭を振った。
「いいや。あのくらい言ってやれる人がいた方が良いよ。私はこれに関して何も言えないから。」
惨殺された婚約者を最初に発見したのはウィリスだった。イリアがそれを聞き、駆け付けた時、弟は血溜まりの中、ただぼんやりと婚約者の亡骸を抱えていた。それが自分の側近たちの仕業だと分かった後、すぐにその側近を処刑し、弟に陳謝した。ウィリスはイリアを信じ、その謝罪を受け入れてくれたものの、その一件に関してイリアは何も言うことができなかった。
「二人とも……帰って来てくれるだろうか。」
「…大丈夫よ、二人ならきっと。」
降雨の儀式は明日に迫っていた。神殿内にて、内密に治水の巫女となったミラは、巫女の役目である祈りを終え、部屋を出る。外はもう暗くなっていて、儀式は明け方に行われるため、もう準備が始まっているところだろう。空には丸々太った満月が輝いている。これが見納めかと、ミラはじっと月を見た。しばらくそこにいるとルヴィアがふっとミラの隣に現れた。
「もう儀式が迫ってる。今なら…引き返せるわ。」
ミラが儀式に出ることになってから、ルヴィアは幾度となく同じ言葉をミラにかけていた。しかし、今日も同じようにミラは首を振った。
ルヴィアは悲しげに顔を伏せる。ミラの意思は固い。ルヴィアでは彼女の気持ちを変える事は出来そうもなかった。どうしてミラの意見を受け入れてしまったのだろう、そんな思いがルヴィアの胸によぎった。理由は分かっていた。多くの民を救うために、力の強い巫女を犠牲にしようとしていることは。それに、儀式までの一週間の間の祈りや舞で、雨が降ることをルヴィアは期待していたのだった。しかし、期待は裏切られた。少し変わったことと言えば、うっすらとした雲が現れるようになったぐらいだが、それだけでは何の足しにもならなかった。
しかしルヴィアはこの空を見て、覚悟を決めていた。ミラの意思を裏切ってでも、民を苦しめることになっても、ミラを逃がすことを。自分が予定通り人柱となることによって。
降雨の儀式は通常、治水の巫女が入水することで行われる。しかし、今回は入水するほどの水が、神殿の近くにはなかった。その為、ルヴィアがミラを手に掛けるという方法をとることになっていた。もちろんこれは、ルヴィアがミラを守る為に仕組んだ方法であり、ルヴィアはミラを殺すために持たされた小剣で自殺することを考えていたのだった。
どのくらい二人でそうして立っていたのか、遠くの空がうっすらと白みだしていた。
「……そろそろ、行きましょうか、ミラ。」
ルヴィアはそうミラを促した。しかし、ミラは俯いて、その場を動こうとはしなかった。
「姉様……。私、死ぬんだよね。」
「ミラ……。」
ミラの顔がゆっくりと持ち上がり、ルヴィアに焦点が定まる。ミラの顔色はひどく悪かった。当然だろう。もう幾許もせぬ内に自分は死ぬと思っているのだから。ミラは、ルヴィアの顔を見るとぶわっと目に涙を浮かべて、ルヴィアに縋りついた。
「私…私ね。おかしいの。私、ラドキアの、姉様のために死ぬのなら、怖くないって、そう思ってた。でも、でも……。死ぬのが怖いんじゃないの。」
ミラはルヴィアに縋りついて泣きじゃくった。ルヴィアは、ただ黙って、ミラを抱きしめて、背中を撫でた。ミラは泣きながら続ける。
「ただ、会いたい…の、ウィリス様に! でも、もう会えないんだ、って思ったら、今、会えないのが苦しくて。もう二度と、会えない、それがこんなにも、辛いなんて……!」
ミラはここにきてようやく、強く「死」を意識していた。自分がこの世からいなくなる。それは、ウィリスのいない世界へ行かなければならないということだった。
しかしミラは、それと同じ位、ルヴィアを守りたかった。ルヴィアを見殺しにするなど、ミラにはできなかった。もう戻れないと分かっていた。
ミラは薄い雲がかかる、薄闇の空を涙で濡れる目で睨みつけた。
「どうして……。雨さえ降れば、ルヴィア姉様も、私も、誰も死ななくてすむのに―――」
降雨の儀式がはじまろうとしていた。
日の出と共に、治水の巫女と数人の巫女で神に演舞を奉げ、最後に治水の巫女の命を奉げる。
演舞は終わり、日は少しずつ上っていた。いつもよりどことなく暗い空だが、空の様子に気を止めるものはここにはいなかった。ミラがルヴィアの待つ中央の祭壇へと昇り、儀式の為に設えた台へと身を横たえた。
ミラはルヴィアを見ぬまま、否、見ることができず、そのままぎゅっと目を閉じた。ルヴィアも何も言わないまま、ミラに切っ先を向け構える。もちろん、そのまま下ろさず自分の方に刃を翻しやすいように持って。
ミラは何も考えないように努めていた。しかし、消しても消しても、浮かんでくるのは大好きなウィリスの事。そして、彼に対する後悔ばかりだった。あの時ああしていたら、こう言っていれば、と。
ルヴィアは、ただ静かにその時を待つ妹の顔を見た。目元はまだほんのりと赤く、施された白粉でも、それを隠しきれてはいなかった。
(騙して、ごめんね……。)
ルヴィアはそう心の中で呟くと、小剣を持った手を高く上げ、一気に振り下ろした。
ウィリスはその頃、フェリエンからラドキアへと続く道を、馬で全速力で駆っていた。シェリジェに一喝された彼は、そのまま着る物をとりあえず、城を出発していた。
ウィリスは馬に鞭を入れながら、シェリジェに言われたことを考えていた。
ウィリスはミラをラドキアへと帰したとき、彼女の意見を尊重し、やりたいようにさせた、と思っていた。しかし、シェリジェに婚約者のことを言われたときに、はっきりと、ただミラの意見を尊重しただけ、ではないことを自覚した。
ウィリスはミラが自分の傍にいる事で危険にさらされるかもしれない事を、ずっと、ミラと出逢う前から危惧していた。だから、ミラがラドキアに帰ろうと考えている様子なのをいいことに、離縁後も援助が続くように手を打ち、フェリエンに留まらなければならない理由を無くした。
しかし、ミラがウィリスに思いを寄せているのは誰の目にも明らかで、もちろんウィリス自身も承知していた。ならば、どちらにいる方が幸せかなど、他人が判断できるものではない。だから、ウィリスがラドキアに帰る方が幸せだと判断したのは、ただ彼の傲慢であった。
はじめウィリスは、ミラがラドキアに帰り、たとえ別の男と結婚したとしても、ミラが無事に過ごしているのなら、平気だと思っていた。しかし日が経つごとに、ミラがいる事が自分にとって、当たり前になっていたとウィリスは気が付いた。
(私は、ルヴィア姫にあれを送り、今こうして、ラドキアへ、ミラの元へと急いでいる……。やはり、私はミラを…、諦めきれないのか―――)
ミラが今どうしているか、知る術はない。ウィリスの心は不安に満たされていた。それを振り払うようにウィリスは顔を上げ、ラドキアの方を見た。
「あれは……。」
眼前には予期せぬものが広がっていた。
空気が動いた。
ミラは来るべき痛みを予期して、じっとしていた。しかし、いつまでたっても、その痛みは訪れず、ルヴィアが崩れ落ちる音も聞こえなかった。
「うそ、でしょ……。」
ルヴィアの放心した声が聞こえ、ミラは何事かと目を開けようとした。しかし、そのとき、頬に冷たいものを感じた。驚いて目を開けると、そこにいっぱいに広がる空は、黒い雲がたちこめていた。
「く、も……?」
ミラは信じられぬものを見たように、空を見た。すると、水滴が再度ポタッと、頬を濡らした。ルヴィアの手から、彼女自身に今にも刺さろうとしていたその小剣が滑り落ちた。そして、その雨雲の空を見上げた。
「雨…雨だわ。雨よ! ミラ……!」
「雨……。姉様!」
ルヴィアはミラを抱き起して、二人は泣きながら抱き合った。これで、二人とも死ななくてすむのだ。
ミラがルヴィアと雨を喜んでいるとき、突然別の声が響いた。
「ミラ……!」
ミラを呼んだのはルヴィアでも他の巫女たちでもなかった。ルヴィアと抱き合っていたミラは、弾かれるように顔を上げた。ミラは祭壇を飛び降りると、一目散にその声の主の元へと駆けて行った。それはミラが、もう二度と聞くことができないと覚悟していた愛しい声だった。
「―――ウィリス様!」
ミラが駆けて行ったあと、ルヴィアは妹達の様子を見て、心配がすべて吹き飛んだのを感じた。
「まさか、あそこまで仲睦まじくなるとはね。」
突然割って入った声に、ルヴィアは驚く様子もなく、呆れたように彼の方向を見た。
「リー。ウィリス殿下を神殿にいれたのはあなただったのね。」
「だってねぇ、あんまりにも、なりふりかまわず来ました、って感じだったから。」
ウィリスはラドキアに着くと、そのまま王宮へと向かい、リーヴェンにミラとの面会を直談判していた。普通、他国の人間を神殿内へと入れるのは例の無い事だったが、隣国の王弟に頭を下げられては、リーヴェンも許可するしかなかった。
「でもさ、ああいう人なら、ミラを任せられるね。」
ミラに政略結婚を敷いたことに、少し負い目を感じていたリーヴェンは、一安心、といった顔で二人を見てにこやかにしている。
「えぇ。手紙でも誠実そうだったしね。」
「手紙……?」
「―――あっ。」
ルヴィアは口元を抑えたが、まぁいいか、と言って喋りはじめた。
手紙とはミラがラドキアに着いた日に、神殿にルヴィア宛で届けられた手紙の事で、その中には、ミラの安全の確保をお願いする旨と、援助の打ち切りは無い旨が記されていた。
ルヴィアの説明を聞いたリーヴェンは、ルヴィアを胡乱な目つきで見た。
「あの情報はここからだったわけ。じゃあ聞くけど、ルー。何で黙ってたのさ。」
「え、それは、ミラには黙っててって、口止めされてたんだけど、誰かに話したら、その会話を聞かれちゃうかも……って。どこからまわるか、分からないでしょ?」
あたふたと言い訳じみた説明をするルヴィアにリーヴェンは溜息を吐いた。
「ルーはそういうとこ、ほんと不器用だよね。分かったよ、信じる。」
そう言ってリーヴェンは首を振った。しかし、ルヴィアを見る目にはやはり、ルヴィアが生きている事への喜びが湛えられていた。
「さ、行こうか。このままじゃ風邪をひいてしまう。ミラたちもそのうち、雨が降ってることに気が付くと思うし。」
リーヴェンはルヴィアの肩に手を添え、彼女を促して歩いて行った。二人はミラとウィリスに微笑ましげな視線を送ると、屋内へと消えていった。
一方、ミラは祭壇から降りウィリスの方へと一直線に、走っていった。勢いよく飛び込んできたミラをウィリスは抱きとめ、きつく抱きしめた。二人は無言のままで、お互いの存在を確かめるように、抱きしめあった。そして、顔を見合わせると、ミラは雨と涙でぐちゃぐちゃの顔をしていた。
「ウィリス様……ほんもの?」
ウィリスはミラの顔を優しく拭ってやって、愛おしげに微笑みかけて、頬にふれた。
「ミラ。」
ウィリスはミラの名前だけ呼ぶと、何も言葉にならず、ただ、ミラを抱き寄せた。
謝罪や、感謝や、様々な思いが混ざって、何から言えばいいのか分からなかった。ミラは、ウィリスの背中に腕を回し、ただ、幸せそうに微笑む。ミラは、再び会えたことや、彼がラドキアまで来てくれたこと、それ以外も全部含めて、この状況の全てが嬉しかった。
「ウィリス様。」
ミラは、ウィリスをぎゅっと抱きしめると、彼だけに聞こえるように言った。
「私、ウィリス様と、ずっと一緒にいたい…です。」
「ミ……。」
ウィリスが驚いて彼女を見ると、ミラは電池が切れたかのように、安らかな寝息をたてていた。儀式で、彼女も少なからず疲れていたのだろう。ウィリスは苦笑して、ミラを抱き上げた。
雲はラドキア全土を包み、久方ぶりの雨を民にもたらした。それはまさに、恵みの雨であった。
数日後。儀式ですっかり消耗していたミラも、元気を取り戻し、医者から休養を言い渡されたのをいいことに、ウィリスにべったりの日々を送っていた。まだ、フェリエンには帰っておらず、ラドキアにミラとウィリスは滞在する形になっていた。
ミラがフェリエンを離縁を念頭に出奔して、治水の巫女にまでなっていたことは、フェリエンやラドキアでも関係者しか知らなかったので、巫女位はルヴィアに返上され、ミラが治水の巫女で会った事はなかったことになり、ミラとウィリスは里帰り兼、新婚旅行的扱いの滞在、ということになっていた。
「ねぇ、ウィリス様。私もそろそろ体力も戻ってきてるので、フェリエンに帰りませんか?」
ミラは部屋でウィリスとのお喋りに興じている合間に、不意にそう言った。
ウィリスは驚いてミラを見た。
フェリエンに帰る。ウィリスはミラとラドキアで過ごす中で、その事についてずっと考えていた。ウィリス個人としては、ミラを連れて帰りたかった。しかし、ミラがもし、ラドキアでの生活を望んだり、ウィリスと結婚している事を理由に、フェリエンで生活することへ使命感を感じているのなら、ムリに連れて帰りたくはなかった。
儀式の日、ずっと一緒にと、ミラは言ったが、ウィリスはその真意もちゃんとたださなければならないと思っていた。
「そのことなんだが、ミラ。……私は、お前が一番幸せになれるところで過ごしてほしいと、そう思っているんだ。―――『フェリエンに帰る事』が、本当に望んでいる事なのか、私は聞きたい。」
ミラはウィリスの言葉を聞き、ショックを受けたように、ウィリスの顔を見る。そして目を伏せた。
「私、フェリエンに……、帰らない方が、よろしいのでしょうか。私、言いました。ウィリス様。あなたの傍にいたい、って。―――私、ウィリス様の隣にいられたら、幸せなんです……!」
ミラの目から涙が零れた。
ミラはウィリスの傍にいたかった。しかし、ウィリスが改めてフェリエンに帰りたいか聞くというのは、彼がそれを望んでいないからではないかと、ミラは思ったのだ。
ミラはウィリスの傍にいたかった。だが、ウィリスに疎まれるぐらいならば、離れていた方がましだった。
「―――違う!」
ウィリスはミラが自分の言葉を、どう受け止めたか悟り、慌てて否定をした。
ミラの頭を引き寄せて、ミラを抱きしめた。ミラにそんな勘違いをされているのは我慢ならなかった。
「違うんだ、ミラ。私は、ただミラ、お前に笑っていてほしい。だから―――」
「なら、私が一番笑っていられる場所は、―――貴方の傍です。ウィリス様。」
ミラはきゅっとウィリスの服を握り締めた。彼の頭はミラの頭上にあって、表情を確認することはできない。しかし、ウィリスがぎゅっと腕に力を込めたのは感じた。
「ありがとう、ミラ。なら、フェリエンで、私と共に……生きてほしい。ミラ―――愛してるよ…。気が付くのが遅くて、ごめん。」
ミラは、初めてウィリスの本音を垣間見た気がした。ミラは頬を染めて、ウィリスの腕の中で首を振り、彼を抱きしめた。そして、儀式の間から、もしもう一度ウィリスに会えるのなら、言おうと思っていた事を口にした。
「……私も、愛しています。ウィリス様―――」
そのときウィリスが見た、ミラの顔は、今まで見た、どの笑顔よりも美しいものだった。