それでもどうか、そばにいて
あたたかい陽光の降り注ぐ庭。
だいすきなひとと手を握って、将来の夢を見る。
「大きくなったら、ぼくたちは『つがい』になるんだ。そうしたら、ずっといっしょだね」
何度も交わした他愛のないそんな約束が、おれはとってもとってもうれしくて――。
ただ傍にいるだけで、毎日が輝いていた。
彼のことが大好きで大好きで、いつの日か項に生涯消えない噛み痕を残してくれる、そんな瞬間を心待ちにしていたのだ。
けれど。
まだ空の白み出した夜明け前。
フェインはベッドからゆっくりと身を起こし、綺麗なままの項を無意識に撫でた。
長い黒髪が指に絡まって零れ落ちてゆく。
――大きくなったら、『番』になる。
その約束だけは未だ有効なまま、自分たちを取り巻く環境は、あの日から途方もないほど変わってしまっていた。
いや、「何も知らなかった子供時代」が終わっただけなのだ。きっと。
夢の中で感じていた幸せの反動かのように、胸に冷たいものが吹き抜けていく。
「リウィリス……」
生まれて間もなく婚約を交わし、二十年以上が経過した彼の名を呟いた。
だが、感傷を払い除けるように、すぐ首を振って立ち上がると、手早く身支度を済ませて剣を佩く。
王太子位を戴いている彼に、今のフェインは護衛として仕えていた。
婚約者らしい感情のやり取りはめっきり無くなって、一体何年が過ぎただろう。
それでも――。
フェインは細い首輪を掴んで、項を護るようにそれを身に付ける。
その感触に一瞬だけ瞑目して、フェインは部屋を出て行った。
*
この世界の人間には、二種類の性別が存在している。
身体的特徴が顕著に表れる男女性は、万人がどちらかに分類され、昨今では社会的優劣が殆ど無くなってきた性だ。
しかしそれとは別にあるもう一方は、少し性質が異なっている。
この性を持つのは人口全体の二割ほど。そこに含まれない大多数は、分類上では「ベータ性」と呼ばれているのだが、男女性しか持たない人々であった――。
空が暗くなった頃、王宮の一室でフェインは夜会出席に向けての準備をしていた。
男性用の礼装に袖を通しながら、その着替えを手伝うベータの男女を鏡台の鏡越しに見つめる。
彼らが時折、ほんの少しだけ羨ましい。
フェインは自嘲するように、菫色をした目を眇めながら考える。
もう一つの性――、「アルファ性」と「オメガ性」に振り回されずいられるのは幸運なこと。そう思うからだ。
高位の貴族になればなるほど、第二性、とりわけアルファ性を持つ者が多くなる。辺境伯家の令息として生きるフェインも、その例に漏れてはいない。
アルファは頭脳や身体共に優秀な人間が生まれやすいという特徴がある。そのため、特に王族に近ければ近いほど、後継はアルファであることを重視されているからだった。
一方のオメガは、そんなアルファを孕みやすいことから、子を産む道具のような扱いをされ続けてきた歴史を持っている。
男女共に出産可能であるオメガは、数ヶ月に一度発情期があることも相まって、いわれのない差別を受けてきた。発情を抑制する薬が登場することで、ようやく社会進出が進んできている。
だがこの国では、オメガを蔑視する風潮が、年配者を中心にまだまだ根強く残っているのが現実だった。
「――フェイン」
不意に名前を呼ばれて、ハッとする。
気が付くと夜会の身支度をしていた使用人たちはいなくなり、いつの間に現れたのかリウィリスの――同じ色合いの礼装をした婚約者の姿があった。
短く整えられた金の髪に、深い緑の瞳。その瞳と同色の礼服は、嫌になるほど彼によく似合っていた。
堂々と立つその様がいかにも「アルファの王太子」らしくて、いつもフェインは、そんな姿に胸がざわざわとする。
「リウィリス、まだ時間には早い……」
鏡台から腰を上げて彼の方を向き――、だが目を合わせられずに俯き加減で言った。
しかし、ぎこちないフェインの様子にリウィリスは意に介した気配もなく、にっこりと微笑みながら近付いてくる。
「大事な婚約者の貴重な着飾った姿を、早く見たいなと思って……何か問題がある?」
後頭部で一つに縛ったフェインの黒髪に、指が梳くように触れ、毛先には口付けを落とされた。
「それに……」
彼は鏡台の方へと手を伸ばして、一つだけ残されていた箱を掴む。
軽い音を立てて開いたそれに収まっているのは、一見ではネックレスのような、オメガの項を保護する首輪だ。
チャリ、と金属の擦れる音がして、その首輪がリウィリスの手に落ちる。
「君の首に触れられるのは、私だけだ」
抱き締められていると錯覚しそうなほど近くから、後ろへ彼の腕が回って留め金が嵌められる。
指が離れる際にほんの少し項に触れて、フェインは思わずびくりと肩を震わせた。
性行中にオメガの項をアルファが噛む――。
すると二人は「番」となり、証として歯を立てた痕は消えずに残って、オメガの発情はその番にのみ効くようになる。
結婚といった法的なものより余程強力な、アルファとオメガにのみ許された将来を誓い合う行為がそれだ。
愛し合う二人が、文字通り二度と離れられなくなるような。
フェインは顔を上げられずに、唇を噛んだ。
その行為に夢を見ていた時期は、もう終わったのだ。だって――。
リウィリスがふと息を漏らし、フェインの頬に軽くキスをした。
「そろそろ行こうか」
彼が腕を差し出してくるので、躊躇いがちに手をかける。
昔と何一つ変わらないリウィリスの優しさが辛くて……、惨めだと思った。
けれどそんな気持ちはきっと、彼には理解できないだろう。
もう、どうやって目を合わせて話せば良いのかも分からない。それほど、あまりに長くすれ違っているのだから。
建国記念式典の一環として催される今日の夜会は、普段から綺羅びやかな王宮が更に眩しく感じた。
まるで日中であるかのように煌々と火が灯され、警備の人員も数多く配置されている。そこかしこに人の気配がして、落ち着かないのは――きっとそのせいだ。
フェインは会場までの道すがら、それとなくリウィリスのエスコートを解こうとしては、それを察した彼にやんわりと止められるという攻防を続けていた。
会場入りしてからはともかく、こんな人気のない場所でまでくっついている必要性などあるはずもない。そう思うのだが、引き抜こうとするフェインの手をリウィリスが掴む。
「こら。今日の君は私の婚約者だよ? 私の隣にいるのが仕事だ。そうだろう?」
そんな風に言われてしまえば反論も出来ず、取り返そうとしていた腕の力を緩めた。
「本当はいつもこのくらい傍にいてほしいんだけどね」
「……それは」
「分かってる。『公私混同はしない』だろう?」
普段は彼の近くにいるといっても、あくまでも「護衛」としてだ。今のように触れあうほど近距離にいるなどあり得ない。言葉も業務上必要なこと以上は交わさないし、視線も合わなかった。
その距離感にリウィリスも納得していると……、フェインは考えている。
なのにこうして「婚約者」として隣にいれば、いつも彼はこのように惑わすようなことを言うのだ。
それが不可解で、ほんの少し腹が立つ――。
「リウィリス、俺は……」
だが、言葉を最後まで発する前に、フェインは口を噤んだ。
夜会の会場まで着いてしまったからだった。
「話は後でゆっくり聞くよ」
――嘘つけ。
フェインは内心を押し殺して小さく頷くと、リウィリスと共にホールへと足を踏み入れた。
フェインとリウィリスが室内へ入ると、程なく国王夫妻も姿を現した。
彼らを見て、フェインの手に無意識で力が籠る。
祝辞が終わって出席者たちが銘々談笑をはじめる中、一段高い場所でその様子を見下ろす国王と王妃の元へリウィリスと共に向かった。二人の存在を認識すると、どうしても気が重くなる。だが、王太子の婚約者として務めを果たさねばと堪えて、フェインは無理やり歩を進めた。
「父上、母上、ご挨拶に参りました」
リウィリスが彼らへ朗らかに話しかけるのを、一歩後ろから視線を下げたまま見守る。
「おお、我が息子よ。楽しんでいるか?」
国王は菫色の目を細めて、その背を労うように叩いた。
「暫く準備で多忙でしたからね。今宵はゆっくりなさいな」
長い黒髪を結い上げた一見きつい印象のある王妃も、「愛息子」には優しく微笑んで夫に追随する。
気楽な「家族の会話」に気後れしたままフェインが無言で立っていると、リウィリスが背中をそっと前に押してきた。
促されてまで黙っているわけにもいかず、フェインは彼らに視線を合わせぬまま、礼をする。
「……、ルーエンス辺境伯が一子フェインが、両陛下にご挨拶申し上げます」
それまでのあたたかな空気が霧散して、二人が――特に王妃が冷たく目を眇めた。
「息災であるか」
国王の義務感めいた問いかけに、更に深く頭を垂れる。
「は。変わらず過ごさせていただいております、陛下」
「『変わらず』では困るのですけれどね」
なおも冷淡な王妃の言葉に、口を挟んだのはリウィリスだ。
「母上、『その件』に関しては、私の意思でもありますので」
「貴方が彼をかばっていることくらい、分かっていてよ」
仲裁の言葉に多少は声から険が抜けるが、フェインを見る睨むような眼差しには変化がない。むしろ、その視線は一層鋭くなった気がした。
「貴方……、何のために生かされたのか、理解して――」
「母上っ!」
リウィリスが声を上げると、彼女は仕方なさげに肩を竦めて口を閉じる。
かばうように前へと出たリウィリスの背中を、フェインはどこか他人事のように視界に収め、再び俯いた。
彼らが話しているのは、フェインたちの婚姻についてだ。
本来ならば貴族の子供たちが通う学園を卒業する十八の頃に籍を入れるはずだった。しかしフェインはそれを拒否し――、騎士団の門戸を叩いた。
勝手とも言えるそんな我儘を、リウィリスが受け入れて今に至る。
王妃はフェインが早く子を産むことを望んでいた。そのため、ここ数年は顔を合わせる度に、彼女からの責めるような言葉を黙って聞き続けている。
今はどうしても、彼と結婚などしたくなかったからだ。
フェインは前方に立つリウィリスの服を引いて、口を開く。
「リ――殿下、陛下の仰ることは尤もにございます。それに、今宵は祝いの席。……これ以上は」
控えめにそう言うと、彼は逡巡するように視線を彷徨わせたものの、渋々といった様子で溜息をついた。
「そうだね。今すべき議論じゃないな。母上、この件はまた改めて」
「……仕方がないですね」
矛を収めた王妃にほっとしてか、リウィリスはほんの少し困ったような顔で微笑む。それから、眼前の二人に頭を下げた。
「では、御前失礼いたします。両陛下も良き夜をお過ごしください」
リウィリスはサッと口上を述べると、フェインの手を掴んで歩きだす。
急に方向転換させられたフェインは、慌てて国王夫妻に礼だけすると、引きずられるまま小走りでそれを追った。
ホールを足早に抜けて、人のいないテラスへ出ると、リウィリスはようやく足を止めて手を離す。
「ごめん、フェイン。かばいきれなくて」
「……リウィリスが謝ることじゃないだろ」
「けど」
「いい。いつものことだ」
謝罪を拒絶してそういうと、彼はどこか悲しげな顔で黙り込んだ。
だがすぐにパッと頭を上げると、空気を換えようとしてか、大袈裟なほど明るく笑う。
「でもちょっと疲れただろ? 飲み物でも貰ってくる。フェインはここにいて」
「あ……」
呼び止める間もなくリウィリスが行ってしまうと、急に静けさが身に染みる気がした。
室内の喧騒は、ガラス戸一枚隔てただけで、随分と遠い。
明るい部屋を窓越しに眺めるのは、世界から隔絶されてしまったような孤独感を覚える。
「……リウィリスは、どうして」
視線の先で、声をかけられたのか一人の青年と言葉を交わす姿が見えた。
快活な印象の茶髪をしたその青年の名はユーラムという。
フェインも知らない相手ではなく、気取らない人柄で周囲に慕われている人物だ。リウィリスの側近候補としても有力で、アルファらしい堂々とした雰囲気こそ薄いが、その性に違わず文官として非常に優秀であった。
個人的に悪感情があるわけではない。ただ――
「――あら、フェインお兄様?」
テラスの扉が開いて振り向くと、よく見知った女性の姿を発見して目を瞬かせた。
「エレイナ?」
フェインを兄と称する彼女だが、実の兄妹ではなく遠縁の公爵令嬢だ。幼少期から親交があり、今も名残でそう呼ばれている。
「お一人? 王太子殿下は……」
月明かりに照らされて輝く銀髪を耳にかけながら、エレイナは小首を傾げた。
彼女はきょろきょろと、辺りに視線を巡らせる。そして、フェインが向いていた方向を見て肩を竦めた。
「あら、まあ……。またわたくしの婚約者とご一緒ですの」
含みのある言い方に、ぎこちなく頷く。
エレイナの婚約者でもあるユーラムとリウィリスは、大変に仲がいい。
それは学生時代からそれとなく囁かれてきたものだ。
二人はアルファ男性同士ながら――、道ならぬ恋をしているのではないか、と。
その噂を初めて耳にした時の衝撃は、フェインの中で今も鮮明だ。
白けた目でリウィリスたちを見るエレイナの様子を窺う。
「エレイナ……、君はいいのか? その……、ユーラム殿との……」
婚約者の不貞に関する噂など、聞いていて気持ちのよいものではない。
だが彼女はけろりとしたもので、不思議そうに目を瞬かせる。「そんなことを訊くフェインに対して」、だ。
「あら。わたくしは公爵家の婿として相応しくば、多少の火遊びなどどうでもいいですわ。特にユーラムはオメガでも女性でもないですし、托卵の心配もありませんもの」
あっけらかんとした返答に、フェインは呆気にとられる。
「……エレイナは、強いんだな」
自分はそれほど簡単に割り切れなかった。
そう思って呟くと、彼女はおかしそうにくすくすと笑う。
「あら、違いますわよ。わたくしは結婚に感情を持ち込んでいないだけ。でも……、お兄様はそうではないのでしょう?」
「…………そうだな」
フェインはリウィリスに恋していた。
でも今は……よく分からない。
彼らの仲睦まじい様子を見て心は揺れるが、そこに割って入る勇気などなかった。
そんなものがあったのならば、とっくの昔に彼の伴侶に収まっていただろう。
リウィリスが自分以外を見るのが嫌だった。
それでも同じくらいに、彼が選んだ人との時間を奪うことなんて――たとえほんのひとときの間に過ぎないのだとしても――出来ないと思ったのだ。
相手は男で、アルファで、世継ぎを設ける義務のある「王太子殿下」とは、決して結ばれることはない。
それに、リウィリスはフェイン以外を選ぶことができない事情がある。
フェインはガラスにうっすらと映る、自身の顔に目を眇めた。
成長するごとに、嫌になるほど――王妃とよく似た容姿がそこにある。
「……もし俺が、アルファだったら――、どうなっていただろうな」
ぽつりと零れてしまった言葉に、エレイナは一瞬だけ目蓋を伏せ、次の瞬間にはおどけるように肩を竦めた。
「さあ。少なくともこんなにも気軽に、『お兄様』なんてお呼びできなかったでしょうね」
彼女の言い草に力んだものが少しほどけて、フェインは薄く笑む。
「そうか。それは……そうかもしれないな」
「でしょう?」
明るさを取り戻した空気の中、二人は自然と国王夫妻に視線を向けた。
フェインはエレイナの遠縁である辺境伯の息子――ということになっている。
だが実際のところ、辺境伯夫妻と血の繋がりはない。
血縁という意味での本当の父母は、壇上にいる国王夫妻だった。
「どうして誰も不思議に思わないのかしら。こんなに……似ているのに」
エレイナは公爵家の後継という立場上、真実を知る数少ない内の一人だ。
「それだけこの国……、貴族にとっての『オメガ』という存在が軽んじられているということなんだろう」
本来、今リウィリスのいる地位はフェインのものだった。
だが「待望の世継ぎ」がオメガ性を持って生まれてしまったばかりに、王家はとある画策をした。
王妃の血族で同時期に誕生したアルファの男児と子を入れ替えたのだ。
そして、その子供同士ですぐさま婚約を結ぶことにより、彼らは王家の血筋を担保しつつ、「アルファの王太子」を手に入れた。
フェインがもし何番目かの王子だったなら、きっと生かされてはいなかったのだろう。
実父母であるはずの二人の目を見れば、そのくらい簡単に想像がついた。
お前は血を継ぐためだけに生かされているのだ、と。
そんな謀をするほどに、王家にとって後継がアルファであることは重要だった。
そして本来なら辺境伯の息子として生きるはずだったリウィリスは、王太子の座を埋めるに十分すぎるほど優秀だ。
きっと、次期国王が彼で良かった。
そう頭では理解していても、明るい場所で朗らかに笑う姿があまりに眩しくて、時折酷く胸が苦しくなる。
国王夫妻から愛され、地位に相応しい実力と共に、周囲から信頼されるリウィリス。
対して自分は王家存続のためだけに生かされ、騎士としての職務ですら、「王太子殿下の婚約者」という立場によって得られたようなものだ。そうでなければ、「オメガ」が彼の傍に配置されるはずもない。
その時、ユーラムと話し終えたらしいリウィリスがこちらに戻ってくるのが見えた。
「フェイン……、エレイナ嬢も一緒だったのか」
細いワイングラスを受け取りながら、フェインは小さく頷く。
「ああ……、話し相手になってもらっていた」
「そう。それはすまなかったね、エレイナ嬢」
リウィリスの腕が腰に回ってきて、フェインは困惑しながら彼を見上げた。
一方のエレイナは、にっこりと笑いながら小首を傾げる。
「あら殿下、『すまない』だなんて。そちらもわたくしの婚約者を取ってしまわれたのですもの。おあいこでしょう?」
何故か目が笑っていないように見える彼女に、リウィリスも似た表情を返した。
「……、取った覚えはないのだけれどね」
「まあそうでしたの? 随分と話し込んでおられたようですので、てっきり」
笑顔を貼り付けたまま対峙していた二人だが、暫くするとエレイナが視線を逸らして肩を竦める。
「まあいいです。殿下も戻っていらっしゃいましたし、そろそろ行きますわ。それではご機嫌よう、お兄様」
彼女は女神もかくやという美しい微笑をフェインに向けて、そのままテラスを去っていった。
ガラス戸の先ではすぐにユーラムと合流して、何か小言を口にしている様子が見える。
その後ろ姿を見送ったフェインは、腰に回されたままのリウィリスの腕から逃れようと身を捩った。
「リウィリス……、離し――」
「何話してたの」
「何って、別に……。そっちだって、ユーラム殿と喋ってたじゃないか……」
リウィリスの声音にうっすらと責めるような響きを感じて、思わずユーラムの名を引き合いに出す。
「声をかけられただけだよ」
「……俺だって同じだ」
フェインを背後から抱き締めたまま、リウィリスは小さく息をついた。
「彼とは、何もないよ……」
首筋に触れるだけのキスが落とされる。
敏感な場所への接触に、思わず身体が反応しそうになってしまい、フェインは唇を噛んだ。
その言葉を無邪気に信じられたら良いのに。
「……なら、なんで」
「ん?」
口にしかけた問いを口内で殺し、首を振る。
「なんでもない」
どうして、彼は自分を抱いてはくれないのだろう。
婚約者同士のアルファとオメガならば、婚前交渉をしたとしても咎められることはない。
だが、フェインに発情期が来るようになってから五年以上が経つが、リウィリスは今しているような軽いキス以上に触れようとはしなかった。
薬で緩和しても多少の熱はある。しかし、その時期に彼がフェインの元へ訪れたことは一度もない。いつ子を孕んでも問題のない年齢になってからも、だ。
「フェイン、君は私の大事な婚約者だ。……どこにも行かないで」
抱き締められ、どこにも行くなと囁かれる様は、まるで愛し合う恋人同士かのようだと思った。
「…………わかってる」
どこかになんて行けないのを知ってるくせに。
ガラスに映る寄り添った自分たちの姿に、フェインは何故か泣きそうになった。
――五年前。
フェインとリウィリスが十六歳となるその年は、二人にとって学園の入学を果たす年でもあった。
この国の貴族として生まれた者たちは、十六から十八にかけての二年間、王都にある学舎に通うこととなっている。
年の近い人間と過ごすことで、各家の家庭教師からだけでは学べないものを得るため――、というのが建前。その内情は小さな社交界であり、いまだ婚約者のいない子息令嬢のための見合いの場でもあった。
だがフェインにとっては、既にリウィリスとの結婚が決まっており、王妃教育も大方終了した後のこと。そのためこの二年という期間を、少しばかり長めの休息時間のような感覚で学園の門を潜った。
当時は卒業と共にリウィリスの元へ嫁ぐのだと、信じて疑っていなかったからだ。
ここに通う者たちは皆、それぞれの家で基礎的な勉学は習得している。故にここではいくつかの専門課程に分かれており、リウィリスは政治学を選ぶ一方、フェインは剣術を選択した。
この場所で「学ばなければならないもの」など、フェインにはない。だからこそ、思う存分自由にできる期間を、かねてからの趣味であった剣に捧げることに決めたのだった。
「――リウィリス!」
昼休憩に入ると、フェインは大好きな婚約者の待つ部屋へと向かう。
さすが貴族用の学校というべきか、王族は昼食を別室で取ることになっていた。そしてもちろんながら、フェインは立場上自由な入室を許可されている。
それほど大きくない室内で二人きりになれるのが、密かな毎日の楽しみだった。
お互いの半日を報告しあいながら、肩肘を張らずにいられる時間が流れる。普段の格式張ったものとは違って、はじめて食事が楽しいと心から思えた。
「フェイン、付いてる」
口元についたパンの欠片へ、リウィリスが手を伸ばす。摘み上げたそれをそのまま彼が口に運ぶのを見て、フェインはぽっと頬を赤らめた。
「あ、ありがと……」
多少行儀が悪いのは確かだが、見咎めるような人もいない。
フェインはリウィリスと顔を見合わせて微笑み合うと、食事を再開する。
この時は、たしかに幸せだったのだ。
雲行きが怪しくなったのは、入学から三ヶ月ほど経った頃。
「――ねえ、聞きまして? 王太子殿下のこと……」
ふと耳に入ってきた令嬢の声に、フェインは足を止めた。
立ち聞きなんて良くない。
そう思うのに、何故か身体が動かず彼女たちの話を聞き続ける。
「ええ。殿下とよくご一緒のユーラム令息でしょう……?」
親交のあるエレイナの婚約者として知人である彼は、奇しくもフェインたちと同学年で、リウィリスと同じ政治学を専攻していた。
「お二方が道ならぬ恋をなさってるって――」
「っ!?」
フェインは息を飲んで、口を手で覆う。
いや、あり得ない。二人はアルファの男同士だし、互いに婚約者もいる。何より、リウィリスが自身を裏切るなど、フェインには到底信じられる話ではなかった。
たしかに、ここ最近そのリウィリスからも、名前をよく聞くようにはなっていたのは事実である。
だからきっと、一緒にいる二人を、おもしろおかしく騒ぎ立てているだけに違いない。
動揺しかけた心をどうにか静めて、フェインは噂話をする令嬢たちに存在を気取られぬよう、その場を立ち去った。
――だが、事態はより悪い方向へと進んでいく。
それから更に三ヶ月が経つ頃には、噂は下火になるどころか、一層実しやかに囁かれるようになっていたからだ。
あり得ない。大丈夫。
そう言い聞かせて、フェインは変わった様子のないリウィリスをただ愚直に信じていた。
「――なんだか今日のフェイン、甘い匂いがする」
「え、そうか……?」
昼食後、並んで部屋のソファに座り会話をする最中、リウィリスが不意に言った。
自分で服を嗅いでみるがよく分からず、首を傾げる。
「うん……、やっぱりするよ。とても甘い香りが……」
彼がフェインの首筋に鼻を近付け息を吸い込んだ。当たる吐息がくすぐったくて、同時に何か未知の感覚も覚える。
「リウィリス……。その、近い……」
「だめ? なんだか、惹きつけられて――」
視線が絡まって、不思議な引力を感じた。
しかしその時――、昼休憩の終了時刻を知らせる鐘の音が鳴り響く。
もしそれがなければ、きっとそのまま口付けをして、なし崩しに身体を重ねていたのではないだろうか。
まだ互いに若くて、自制心もなかった。
だが幸か不幸か、その音で我に返る程度の分別はついていた。
「――そろそろ、行かないと」
リウィリスの胸を押すと、彼も大人しく引き下がる。
「そうだね。それじゃあ……またあとでね、フェイン」
ドキドキと騒ぐ心臓を抑えつつ頷き返して、フェインは部屋を出て行った。
いっそ、その場で抱かれていれば。
後になって、そう思うことになるのを、まだこの時のフェインは知らない。
リウィリスの言った「甘い匂い」という指摘について、フェインはすっかり忘れたまま、午後の予定をこなす。
そしてあっという間に日が傾いて、帰宅時間となっていた。
フェインは未来の王太子妃ということで、王家から護衛がつけられている。その関係で、帰宅時も基本的にはリウィリスと一緒だった。彼が王宮に戻る途中で、フェインの暮らす辺境伯家の王都邸に送ってもらうのだ。
待ち合わせ場所である学園の裏庭まで、フェインは小走りで向かう。
いつもならばそこに一人で座っているリウィリスだが、今日は何故か別の話し声が聞こえた。
その相手は――。
「……あ」
楽しげ談笑するリウィリスとユーラムの姿が目に映る。
本を挟み熱心に話し込む彼らは、距離が非常に近かった。
噂は、本当なのかもしれない。
そう思ったことまでは覚えている。
リウィリスがこちらの存在に気付いて、顔を上げるのが見えた。
「あ、フェイ――、フェイン!?」
視界が歪んで、ぺたりと地面に膝をつく。
「あっ……、え、なにこれ……」
身体が急に熱くなって、頭がぐらぐらした。息が上がる。それから、下肢に熱が集中しているのも分かった。
リウィリスが立ち上がって駆け寄ってくるのを、目の端で捉える。
まずい、と思った。
今触られたら――
「やっ……!」
ぱしんと、伸びてきた手を叩き落とした音が、静かな裏庭に大きく響く。
「あっ、ちが…………、おれ――」
リウィリスを拒否してしまった動揺と、身体への異常で、もうフェインは限界だった。
ぐらりと視界が傾ぐ。
そのまま意識が遠のいていく中、リウィリスの自身の名を呼ぶ声だけが、いつまでも聞こえていた。
そうしてはじまった、「初めての発情期」は、本当に酷いものだった。
リウィリスを求めて泣き続け、身体の内から湧き上がってくる性衝動に恐れ慄きながらも、抗う術すらない。
初めての場合だけは、後への影響を考えて薬が使用できなかったからだ。
その期間はおよそ二週間。
そしてその間ついに、リウィリスがフェインの元へ訪れることはなかった。
苦しいばかりの発情期がようやく落ち着いた頃。
どうにか外へ出歩ける程度の状態にまで回復するのと同時に、普段は領地の方で暮らしている養父母――辺境伯夫妻が訪れた。
父は王都での仕事を片付けるため、時折現れる。しかし、母までやってくるのは本当に珍しいことだった。
「――お久しぶりです、父上、母上」
並んで座る二人の前で、フェインはじっと息を潜めるように彼らの様子を窺っていた。
本当に小さな頃は辺境伯家の領地にいたフェインだが、ある程度の年齢――五歳になるかならないか――になった時分には、今いる屋敷に居を移し王妃教育がはじまった。それと同時に彼らと血の繋がりがないことを聞かされ、また距離が離れたこともあって、フェインはいまだ二人にどう接すればよいのか掴みきれずにいる。
「――無事発情期を迎えられたとのこと。お祝い申し上げます」
父の常ならぬ丁寧な言葉遣いにフェインは困惑して、思わず口を挟んだ。
「あの、父上……?」
心理的距離のある親子ではあったが、ここまで他人行儀な姿を見るのは初めてだった。
しかしフェインの混乱をよそに、父は言葉を続ける。
「これにて輿入れの準備も整い、後は学園の卒業を待つばかりとなり――。貴方には真実をお話する時期となりました」
「真実……?」
父が頷く。
「今頃、王太子殿下のお耳にも同様のお話が入っているかと」
そうしてフェインは、本当の両親が誰であるのか、何故生まれてすぐに王太子との婚約が整ったのかを知った。
それから――どうして、父母との間に越え難い溝があるのか、国王夫妻が「息子の婚約者」に対してあれほど冷たいのか、も。
話が終わると、彼らはもう用はないとでも言いたげに、屋敷を後にする。
それを見送ったフェインは、一人になり――自室で暗くなっていく空をぼんやりと見つめていた。
信じ難い話だった。だが、どこかで納得している自分もいるのだ。
この国でオメガは、特に貴族社会では非常に生きづらい。自身は「王太子殿下の婚約者」であったが故に、表立った中傷をされたことこそなかった。しかしそれも結局のところ、「アルファの庇護の元」でしか存在できない、という意味だ。
自分は運が良かった。
少し何かが違えば、そもそもこの歳まで生きられなかったはずだから。
だが、本物の息子を奪われた父母――、いや辺境伯夫妻の悲嘆はいかほどだろうか。代わりにやってきたオメガは、血筋を思えば邪険に扱うこともできない厄介者だ。
生かされているだけで、感謝しなければならない。
「俺が、アルファだったら……」
アルファとして生まれ、王子として生きる自分を想像しようとして、失敗する。
それでも、あの寂しく辛く苦しい発情期の夜は過ごさずに済んだはずだ。
まだその余韻で感情が上手く制御できないからか、一筋涙が零れ落ちる。
頭では分かっているつもりなのだ。大事な王太子を、婚約者といえど発情したオメガの元に向かわせるなど正気ではないことくらい。
それでも、フェインの中にあるオメガの部分が、自分を守るべきアルファに放置されたと泣いていた。
もう彼と言葉を交わしたのが随分昔のことに思える。
裏庭での光景が浮かんで、心がズキズキと痛んだ。
次に会った時、上手く笑える気がしない。
――そしてその予感は、的中してしまうのだった。
二人の間にぎこちなさが生まれた。
次第にフェインはリウィリスと距離を置くようになり、忙しいのだと理由をつけて共に昼食を取ることも無くなっていった。
行き帰りの馬車も無言が常となって、もうその頃にはフェインの中で、リウィリスとユーラムの関係は殆ど事実なのだという結論に至っていた。
直接訊ねたことはない。けれど、彼からはっきりと弁明されたこともない。
心がささくれだって、素直になれなくなり、リウィリスと学友たちとが楽しげにするのを遠くから見つめるだけだった。
学園の卒業を約半年後に控えた頃。
帰りの馬車に揺られながら、フェインは不意に口を開いた。
「……リウィリス」
唐突に話しかけられたことに驚いてか、対面に座っていたリウィリスは軽く目を瞠った。
「どうかした?」
「卒業後のことなんだが……、結婚を延期にしたい」
さすがに予想外の発言だったらしい。彼は言葉を失ったように、口をぱくぱくと数度開閉させた。
「な、んで……」
「騎士団に入りたいんだ」
端的に理由を告げると、リウィリスは目蓋を伏せてぽつと呟く。
「……そう。フェインは、剣が好きだもんね」
彼はそれ以上何も返答せず、黙ったまま俯いていた。
そうしている内に辺境伯家の屋敷に到着して、馬車が止まる。
「少しだけ……、考えさせて」
扉が開かれる直前、リウィリスが言った。
「ああ……」
フェインも当然二つ返事で了承されるとは思っていなかったため、頷いて外へと降りる。
これがもしも承認されたなら――。
王宮に向けて去っていく馬車を見送りながら、独り物思いに耽る。
たとえ数年の間だけでも、リウィリスは愛する人と過ごす時間が取れるだろうか、と。
そして、その仲睦まじい姿から、目を逸らせるだろうか、と。
そうして入隊を許された騎士団で、フェインは何故かすぐに頭角を現していった。
もっとも、未来の王太子妃であるため、近々の退団が暗黙の内に決まっている。故に重要な役職こそもらえなかったが、王太子の護衛という地位を得ることとなった。その任は本来ならば、家柄や礼儀作法、そして何より力。それらを兼ね備えた者だけが与えられるものだ。
普通ならば喜ぶべきところなのだろう。
だが、家柄と礼儀作法はともかく、アルファの多く所属する騎士団において、「力」が抜きん出ているはずもない。
自身の後ろにあるものを鑑みた結果としか、フェインには思えなかった。
――そして、現在。
フェインは発情期中を除いて、王宮内の宿舎で寝泊まりをしていた。
夜会も終わり、そちらへ戻る前に最後、リウィリスを彼の私室まで送り届ける。
「――おやすみ」
別れ際、彼がフェインの頬にキスをして微笑んだ。
「…………おやすみ」
それを拒否することも、返すことも出来ず、少し俯いて挨拶だけ呟く。
苦笑するリウィリスが部屋の扉を締めて、フェインはようやく顔が上げられた。
この五年間で絡まった糸は、ほどける気配もない。
自分たちは、もうずっとこうなのだろうか。
ずっとこのまま、結婚して、形だけの番になるのだろうか。
そんな未来に、どうしようもない程の侘しさを覚えるが、解消の仕方も思いつかない。
「……、っ」
開きかけた口を閉じ、唇を固く引き結ぶ。そして結局は、黙ったまま踵を返した。
彼に伝えたい「何か」がある。
けれどその正体は、フェイン自身にもよく分からなかった。
建国記念式典の夜から暫くが経ち――。
日常が戻ってくるのと同時に、フェインもリウィリスと碌な会話のない、いつもの日々が過ぎていく。
それを寂しいと感じる時期などとっくに終わったと思っていた。
しかし、テラスで抱き締められた腕のぬくもりが、どうしても忘れられずにいる。
きっとアルファに包まれたことでオメガの本能が刺激されただけ。そう理由をつけて納得しようとしても上手くいかず、常と変わらないリウィリスに、見当違いな憤りを覚えていた。
「……はあ」
思わず溜息をつくと、隣を歩いていた男が目を瞬かせる。
「あれ、やっぱり仕事抜けさせたの怒ってる?」
「いえ……。朝から少々頭痛がするだけです――、ユーラム殿」
少なからずお前も原因なのだが、とは口にせず平静を装ってそう言うと、彼はニッと人好きのする笑みを浮かべた。
「そっか。なら、手短に話すよ」
邪気のない笑顔にどうにもやるせない気分になり、フェインは小さく息をつく。
婚約者の浮気相手――と目されている男にもかかわらず、どこか嫌いになりきれない。それはきっと、彼のこういうところが理由なんだろうな、と思いながら。
ユーラムがフェインを訪ねてきたのは、その日の昼を過ぎた頃だった。
リウィリスから許可は貰っていると言われては断ることもできず、仕方なくフェインは彼との面会に応じた。
「――それで、『頼み事』とは?」
王宮内にある開けた庭の東屋で、ユーラムと向かい合って座る。
わざわざこんな場所を用意したあたり、あまり他者に聞かれたくないことらしいと当たりをつけながら問いかけた。密室でこそないが、ここは人が近付けばすぐに分かる。
彼がはじめに告げた「頼み事があって来たんだ」という言葉を反芻しながら、フェインはその様子を窺っていた。何を言われるのか、皆目見当もつかない。
「その前に一つ聞きたいんだけど。フェインはこの秋に開催が決まった剣術大会について、どの程度把握してる?」
突然出てきた「剣術大会」という単語を、怪訝に感じながらも答える。
「……どの程度、と言われても。公式発表の内容しか」
この国は戦のない平和な時代が長く続いていた。それ自体は良いことなのだが、やはり兵士の練度は下がりがちになる。
そのため何か目標になるものを、ということで今年から年に一度開かれることになったのが件の大会だ。
軍に所属している者は全員に参加権があり、腕試しのいい機会だと楽しみにしている同僚も多い。
とはいえ強制参加ではないため、フェインはこれといって興味もなく、出場する気もなかった。出て下手に目立っても、精々「オメガのくせに」とやっかみを受けるだけであまり利点がない。
それがどうしたと首を傾ければ、ユーラムは真剣な顔で身を乗り出し、こう言った。
「その剣術大会で優勝してほしい」
「……は?」
意味が分からず呆けていると、彼は苦笑して座り直す。どうやら、初めから順を追って説明することにしたようだ。
「この国……というか、ここの貴族社会はオメガ蔑視が強いのは、君も分かってることだと思う」
フェインは頷いて続きを促す。
「でも他国ではそうしたものが緩和されてきてるんだ。その内……、国外へ派遣されるような要人にもオメガが起用されるだろうね。僕はその日も近いと考えてる」
「そう…ですね。いずれは……」
「もしそうなった時、そうして訪れたオメガに対して、アルファやベータと変わらない態度が取れると思うかい?」
フェインは王妃に度々向けられる冷たい視線が脳裏に浮かんで、ふると首を横に振った。もちろん彼女に関しては、自身との複雑な関係が影響しているのは間違いない。だが、彼らがオメガを嫌悪していなければ、そもそも今の状況には陥っていないのだ。
「不可能、でしょうね。短い時間なら誤魔化せるかもしれませんが」
「そうだよね。僕も同じ考えだよ」
ユーラムはうんうんと大きく頷いてから、ピッと人差し指を立てた。
「そこで、君だ」
「……話が繋がらないのですが」
眉をひそめて呟くと、彼はおかしそうに笑った。
「単純なことだよ。剣術大会で君が優勝すれば、お偉方も認めざるを得ない。『オメガが劣った存在ではない』ってことをね」
――簡単に言ってくれる。
フェインは眉間に寄せていた皺を更に深くして、どこか楽しそうなユーラムを一瞥する。
「意図は理解しましたが、俺は――」
「殿下もこれをお望みでらっしゃる、と言っても?」
出るつもりはないと断ろうとしたのを遮ったその発言に、フェインは驚いて顔を上げた。
「何ですって?」
「最初に言ったじゃないか。『王太子殿下の許可も貰ってる』って」
フェインはチリチリと感じていた頭痛が一層強くなった気がして、こめかみを押さえる。
まさか「頼み事」の中身まで承知の上でとは思わなかった。
これでは、それとなく断るという選択肢が無くなったようなものだ。
「…………優勝の確約なんて出来ませんよ」
「それで十分。本気でやってくれるんでしょう? それに、あくまで士気の向上が目的だからね。幹部は出ないし、勝機はあるって聞いてるけど?」
「誰がそんなことを……」
勝機なんかあるわけないだろ、とフェインは頭を押さえて項垂れる。
リウィリスの護衛を勝ち取ったのが、純粋な力によるものならばともかく、フェインより強い人間などゴロゴロいるのだ。
「あ、八百長は無いからね」
「でしょうね……」
そんなことをしては「力を示す」という目的に反してしまう。
面倒なことになったなと辟易しつつも、それをリウィリスも望んでいるのならば、やらねばという気にさせられる。
仕方なしにユーラムの提案を飲むと、彼はほっとしたのか表情を緩めた。
「受けてくれてよかったよ! 出場手続きとかはもう済ませちゃったから、それでも嫌って言われたらどうしようかと」
「は!? いつの間に――」
「殿下の名前を出したら断られないかなー、って」
「それは……、そう、ですが」
「でしょ」
いたずらが成功したかのように笑うユーラムに溜息をつく。
「ま、惚れた弱みだよねぇ。なんでもお願い聞いてあげたくなっちゃう」
感慨深げにそんなことを言う彼に、怒りを通り越して呆れてしまって、もう一度溜息をついた。
その「惚れている相手」は、同じ人物だろうに。
「俺にどういうつもりでそんな――」
「話は纏まった?」
だが、つい漏らしてしまったぼやきが終わる前に、背後から声がかけられる。
ユーラムがパッと立ち上がり、フェインの後ろに向けて、はじけるような笑顔を見せた。
「はい! 了承してもらえましたよ、殿下!」
「そう。それはよかった。フェインも面倒かけるね」
「……いや」
現れたリウィリスの手が肩に置かれて、身動きが取れない。
だが、少しだけ頭痛が和らいだ気もして、とろんと目を伏せる。
「フェイン?」
耳元に落ちた声が妙に心地よい。
「……フェイン」
リウィリスが小さく息を飲んだ気配がして、閉じかけていた目蓋を開けた。
「なに?」
「もしかして体調悪い?」
「……そうかも」
どうにも頭がふわふわして、思考が散漫になる。
風邪かな、と考えながら頷くと、何故か視界を閉ざすようにリウィリスの手がフェインの目元を覆った。
「なら今日はもう部屋に戻って休みな。ベータを呼ぶから、帰れる?」
「リウィリスは?」
どうしてわざわざベータを? と不思議に思いつつも、口からは別の問いが先んじて飛び出していた。
「……ごめん、私はユーラムと話が」
その返答に意図せず涙が零れ落ちる。
ほんの少しだけ、リウィリスが自分を迎えに来てくれたのではないかと期待していたのだと気付く。だが、やはりユーラムに会いたかっただけらしいと、心臓をぎゅっと掴まれた心地になった。
しかし、それしきのことで普段なら泣いたりなどしない。
フェインはようやく自身に何が起こっているのか理解して、目元を覆っていたリウィリスの手を掴んだ。
「す、まない……。まだ一週間以上先だと思って、薬、飲んでなかった」
顔を上げた先にいる彼は微苦笑を浮かべている。
一体、どの時点で分かったのか――。
フェインはどうやら発情期に入ろうとしているようだった。
「いや。私も朝に気付ければ良かったのだけれど」
先程言ったとおりに人を呼ぼうとしてか、リウィリスが離れていこうとする。それを察して、フェインは彼の指を掴む手に力を込めた。
「リ、リウィリス……」
行かないで、一緒にいてほしい――。
発情期はオメガの本能が強くなってしまう。
普段心の内に留めている本心に抑制が効かない。
「……フェイン」
彼が困ったような声で名を呼んだ。
その声音には、明確な拒絶が混ざっていて、掴んでいた手もやんわりと解かれる。
「人を呼んでくるから、ここで待っていて。あと、ユーラムも一緒に来い」
そうして二人が連れ立って去っていくのを、フェインは見送るしかできなかった。
ユーラムはアルファだ。そんな彼を発情期のオメガの傍に置いておくわけにはいかない。
そう、頭では分かる。
だが――。フェインは胸の苦しさを誤魔化すように、きつく拳を握った。
いつか、リウィリスの子を産み王家の血を繋いだ後。
自分はこうして、二人に置き去りにされるんじゃないだろうか。
そんな不安で、酷い頭痛がする――。
「っ……」
発情期が本格化する前に、休暇を取って辺境伯家の王都邸に戻ったフェインは、一人ベッドの上で身体の内から湧いてくる熱と戦っていた。
今回は抑制剤を飲むのが遅れたせいか、薬の効きが悪い。いつもならば軽い風邪程度でしかないそれが、耐え難いほどの疼きになって襲ってきていた。
身体を丸めてやり過ごそうとするが、やんわり勃ち上がった陰茎に下着が擦れて、腰が跳ねる。
喘ぎを噛み殺せば、代わりのように涙が零れ落ちた。
発情期はオメガの本能が暴走する。
アルファにめちゃくちゃに犯されて、子種を注いでもらうことしか考えられなくなってしまう。
身体の内側が寂しくてならない――。
フェインは涙で視界が滲む中、もう我慢ができずに手を後ろに回した。
「あっ」
指を後孔に差し入れれば、何の抵抗もなく飲み込んでいく。きゅうきゅうと締め付ける内部は、ぐちゃぐちゃに濡れそぼっていた。
雄を受け入れる性なのだと強く意識させられて、また涙が零れる。
「ん、あ……っ、あぁっ」
内襞を擦り、ただ夢中で快楽を求めた。
「んっ――!」
ぎゅっと中が収縮して達すれば、身体は多少なりとも満足する。
だが、心は穴が空いたままだ。
「……リウィリス」
発情期の夜は、いつも夢を見る。
彼が「私の番」と耳元で甘く囁いて、抱き締め、キスをして、身も心も満たしてくれる夢だ。
そして同時に、彼がフェインに一瞥もくれず、どこかへ去っていく夢も。
普段は理性で堰き止めている不安も欲望も願いも、何もかも全てが溢れ出て、心がバラバラになりそうだった。
リウィリスはきっと知らない。
発情期なんて、薬を使えば大したことないのだとフェインが言い続けているから。
それも完全に嘘なわけではない。けれど、身体は平気でも心は酷く乱れた。
もし――、といつも思う。
発情期が辛いのだと、傍にいて抱き締めてくれれば楽になると、そう言えば彼は隣にいてくれるのだろうか、と。
きっと、いてくれるのだろう。
けれどそれは優しさゆえのことで、フェインが真に欲しているものとは違うのだ。
これ以上、惨めな思いはしたくない。
だが同じくらいに、求めてもいた。
愛してなんて言わないから、せめて傍に――。
「……オメガになんて、生まれたくなかった」
ベッドに顔を伏せ、次から次へと零れる涙に気付かない振りをする。
オメガでなければ、こんな思いせずとも済んだ。
オメガでなければ――、ただ相性の良いアルファに惹かれているだけではないかと、この想いを疑うこともなかったのだから。
不意に訪れた発情期も終盤となった頃。
もう何日かすればその期間も明け、仕事復帰できるだろうか、と考えていた時のことだ。
フェインの元に突如、王妃からの召喚命令が届いた。
体調は落ち着いたものの、まだ気怠さは残っており、完全に発情が終わったとは言えない。本来ならば王宮に上がれる状態ではなかった。
だが、狙いすましたかのような時期かつ、時間は深夜近い時刻を指定されている。
何か意図あってのこととしか思えなかった。
更に、考える暇を奪うかのように馬車まで寄越すという徹底ぶりだ。
仕方なくフェインは彼女の求めに応じて、王宮へと向かった。
迎えの使者として来ていたベータの侍従を追いかける。人払いされているらしい静まりかえった廊下を、フェインはただ進んだ。案内された部屋まで辿り着くと、既にそこには王妃の姿がある。彼女は目が合った瞬間、ほんの少し鼻に皺を寄せた。
「まだ終わっていないみたいね」
何が、と言われずとも分かる。発情期のことだろう。
オメガがその期間に発するフェロモンは、アルファの発情を誘発する作用があった。
だが血縁者においては、血が近ければ近いほど効果がない。
現国王夫妻は共にアルファ性を持っている。血縁上の母である彼女も、フェインのフェロモンを感じ取ってはいるようだが、変調をきたす素振りはなかった。
「よかったわ。呼び立てが無駄にならなくて」
「『よかった』……?」
王妃への挨拶も忘れて、出入り口の前に突っ立ったままのフェインは、呆気に取られて呟いた。
何か、嫌な予感がして仕方がない。
彼女はソファに座ったままこちらを睥睨する。立ち尽くす自分よりも低い位置にいるにも関わらず、何故か見下ろされているような錯覚まで感じた。
「今すぐリウィリスの寝所へ行きなさい」
「……は」
何を言われたか理解できず――いや、理解したくなくて、黙り込んでいると王妃は大きな溜息をついた。
「聞こえなかったの? いつまでお前は義務を放棄しているつもりなの、と言っているのよ」
「義務……」
「これほど匂いが漏れていれば、あの子も黙って追い返しはしないはず。他のアルファに手を出されてからでは遅いのよ。分かるでしょう」
フェインは彼女の言葉に、もう何も返すことが出来なかった。
王妃が再度「行け」というように顎をしゃくるのに促され、ふらりと身を翻す。
部屋の外で待ち構えていた案内の男が、付いてこいというように歩き出すのを、とぼとぼと追った。
リウィリスに抱かれ、彼の子を産む。
それが自分が生かされた理由で、ここにいる意味だ。
理解しているつもり――だった。
案内の男と途中で別れ、彼の言った通りの道を歩く。
最後の角を曲がろうとしたところで、フェインは慌てて踏み出しかけていた足を引っ込めて身を隠した。
ここを曲がって三つ目の扉。
教えられたままの場所に人影があった。
廊下は薄暗いが、室内の明かりでその人物の顔はよく見える。
フェインは嫌な音を立てる心臓を押さえ、ほんの少しだけ頭を覗かせた。
「……、っ」
漏れそうになった声をどうにか手で塞ぐ。
視線の先にはユーラム。
そして――、彼に身を寄せるリウィリスの姿があったのだ。
あの夜、そのままフェインは王宮を逃げるように後にした。
王妃には「来客中だった」と、どうにか納得してもらい、残りの休暇は王都邸に閉じ籠もったまま過ぎていった。
だが発情期が終わり仕事が再開すれば、嫌でもリウィリスに会わなければならない。
彼と顔を合わせれば、ユーラムの胸に寄り添っていた姿が目に浮かんで息が詰まった。
それでもフェインは「いつも通り」を演じていたつもりだったのだ。しかし――
「フェイン、何かあった?」
夕刻、退勤前に呼び止められたフェインは、人払いされた部屋でリウィリスと二人きりになっていた。
「……何も」
どうしても目が合わせられずに、俯いたまま小さく呟く。
扉の前で立ち尽くしたまま、執務机の椅子に座る彼と対峙するのは、どこかあの夜の王妃とのやり取りを思い出させた。
フェインはぎゅっと拳を握り締める。
本当は「あんな深夜に二人で何をしてた」と詰ってやりたかった。
しかしそんなことをすれば、惨めにも逃げ帰った自分を認めるようで、その問いを口に出すことができない。
「フェイン……」
あの日の王妃と違い、リウィリスが不意に立ち上がった。その物音に一歩後ずさりそうになるのをどうにか堪える。
「嘘を言わないで。もう何日も様子がおかしい。休暇が明けてからずっとだ」
近付いてくる彼に、フェインはきゅっと唇を噛んだ。
俯いた視界にリウィリスの指先が見える。
「――っ、触るなっ!!」
ハッとした時には、彼の手を払い除ける音が響いた後だった。
顔を上げれば驚いた表情のリウィリスと目が合う。
「あ……」
こんなことをしたかったわけではなかった。
だが、別の人間に触れたかもしれないその手が、どうしても我慢できなかったのだ。
「――っ、申し訳…ありません。体調が優れませんので、本日は失礼いたします」
フェインは早口にそう言うと、すぐさま踵を返して部屋を出ていった。
背後から引き留めるように名を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、立ち止まることが出来ずに廊下を走り抜ける。
「っ、なんで……」
彼の手を拒否したのは二度目だ。
一度目はすぐに意識を失ってしまい、その後のことをフェインは知らない。
だが今回は、はっきりと脳裏にこびりついているものがあった。
部屋を去る直前に見たリウィリスの目。その、どこか泣きそうな色だ。
まるでフェインの拒絶に、心から傷付いたかのように。
なんで、あんな――。
フェインはただただ混乱して、リウィリスから逃げるしかなかった。
病める時も健やかなる時も――。
そんな決まりきった口上を、フェインはぼんやりと聞きながら、幸せそうに笑うアルファとオメガの新郎たちを見ていた。
エレイナの弟とその番。彼らの結婚式は、あたたかな雰囲気で進んでいく。
だが隣で同じように参列するリウィリスとはぎこちない空気のまま、もう何日もが経過していた。
エレイナの弟は腰回りのゆったりした礼服を纏っており、よくよく観察すれば既に腹部がうっすらと膨らんでいるのがわかる。
アルファとオメガの婚約者同士ならままあることで、妊娠を機に結婚が決まったようだ。
項の噛み痕と、お互いを慈しみ合う視線に、強い羨望を覚えてフェインは泣きたくなる。
番の愛に包まれ守られるのは、どんなに――。
エレイナの弟は、当然ながら知らない相手ではない。彼の幸せを心から喜びたいと思っている。
だが自分は、果たして上手く笑えているのだろうか。それすらも分からなかった。
「――今日はお越し頂きありがとうございました」
「エレイナ」
結婚式が無事終了し、その後に開かれた祝宴も主役たちが席を立って、緩んだ空気になった頃。招待客の接待で飛び回っていたエレイナも、ようやく落ち着いたのか声をかけてきた。
今回フェインのパートナーとして列席したリウィリスはというと、この機に王家と近付きたい貴族たちの相手に追われ、今は少々離れた場所にいる。
なんだかエレイナはいつも、都合よく彼が不在の時に現れるなと、ちらりと思った。
「いや、こちらこそ呼んでくれてありがとう。良い式だったな」
「あら、当然ですわ。我が公爵家の威信がかかってますもの」
ほほほ、と笑いながら彼女はフェインの隣に陣取る。
「王太子殿下にも改めてお礼をお伝えくださいませ」
「……ああ、後で言っておくよ」
エレイナは持っていたグラスに口をつけながら、フェインの方をじっと物言いたげに見つめた。
「今朝から思っていたのですけれど」
「なんだ……?」
「殿下と何かありまして?」
「…………、な……何か、って?」
取ってつけたように問い返すと、エレイナは半眼になって溜息をつく。
「お兄様って、咄嗟の嘘はど下手くそですわよね」
「うっ……」
反論もできず、半ば認めたような形になっていると、エレイナがもう一度溜息をついた。
「今回はどうなさいましたの?
冗談のつもりで言ったのであろう彼女が、フェインの表情に目を丸くする。
「まさか本当に?」
逡巡しながらもフェインは、あの夜に見たものをぽつぽつと話した。
それを聞き終えた彼女は三度溜息をつき、やれやれとでも言いたげに頭を押さえる。
「――まあ、『決定的』かはともかく。とんでもなく怪しいのは確かですわね……。…………あんの、お馬鹿ども……」
ぼそりとつけ足された悪態は聞こえなかったことにして、フェインはちらと離れた所にいるリウィリスに視線を向けた。
先程まで壮年の男と会話をしていたはずの彼は、またユーラムと共にいる。それを見ていられずに、フェインは慌てて顔を背けた。
「…………ねえ、お兄様」
「え、あ……、なんだ?」
静かな呼びかけに驚きながらエレイナの方を向く。彼女はじっと真剣な目でこちらを見ていた。
「お兄様は本当に、殿下を選んで後悔なさらない?」
「エレイナ、何を言って……」
「殿下のお傍にあり続ける、という献身は素敵ですけれど。それはいつまで続くか、先の先までお考えになったことはある?」
「それは……」
いつか、彼が去っていく未来を幻視したことは、一度や二度ではない。
このまま流れで結婚すれば、その不安は生涯続く――。エレイナはそう言っているのだ。
「お兄様、分かってらっしゃる? お兄様の子が次の王になる。ならばその相手は、誰でも構わない。たとえば――、わたくしでも」
彼女が誘うように、フェインの手に触れた。
「エ、エレイナ……っ!」
「わたくし、お兄様に恋情は返せませんけれど、家族愛と揺るがぬ信頼……。それならお約束できますわ」
「君には、ユーラム殿が……」
「言ったはずですわよ。『公爵家の婿に相応しくば良い』と」
フェインは反論の言葉を失って黙り込む。
彼女がユーラムと婚約を結んでいるのは、彼の優秀さが今後の公爵家に大きく貢献すると考えているからだ。
もしフェインが提案を飲めば、ユーラムと同じ働きは出来ない代わりに、次代の王が公爵家から輩出されることが確約されたようなもの。それは彼女にとって、大きな利となるだろう。
「エレイナ、俺は……」
返答に窮していると、エレイナは嘆息してパッと手を離した。
「もちろん、お兄様にそのご意思があれば、の話ですわ。それはそれで手続きが面倒ではありますし。けれど、そういう選択肢もあること……、お忘れにならないで」
その時、ふと視線を感じて顔を上げる。
そこには、睨むような眼差しでこちらを見るリウィリスがいた。
公爵家を後にして、フェインはリウィリスと二人王宮への帰途を辿る。
先程からリウィリスは始終無言で、どこか考え込むような表情を見せていた。
馬車を降り、どちらも口を開かないまま歩き出す。フェインは彼の数歩後ろに従って、落ち着かない気分で足を動かし、気が付くとリウィリスの私室まで到着していた。
「入って」
有無を言わせない彼の声に、おそるおそる足を踏み入れる。
「あの、リウィリ――」
「嫌になった?」
「は……?」
問いの意味が分からず顔を上げると、思わぬほど近くに身体があって、反射で逃げそうになった。だが、それを阻止するようにリウィリスがフェインの手を掴む。
「エレイナ嬢と随分親しいよね。今日なんか手まで繋いで……」
「あれは、ちがっ……」
きつく手首を握り締められて、軽い痛みに言葉が途切れた。
「違う? でも君は振り払わなかった」
掴まれた腕を無理やりに引っ張られる。リウィリスはフェインを連れ立ったまま、続き部屋へ向かった。
「リ……、リウィリス!?」
そこが寝室だと気付いて、頬が熱くなる。
そして戸惑っている間にも、ベッドに押さえつけられていた。
一瞬、頭上から見下ろしてくるリウィリスが夢のようで呆けてしまうが、ハッと我に返って彼の胸を押し戻そうとする。
「何、するんだ……っ」
「『何』? わかるでしょ。私たちはいずれ結婚する。問題ないよ」
「だが――、っ」
首筋に唇が触れて、びくりと身体が震えた。
「嫌?」
「そういうわけじゃ……」
リウィリスの手が上着のボタンを外し、シャツのタイを解く。
そして項を護っていた首輪をも、呆気ないほど簡単に取り去った。
彼は本気だ。
そう理解させられるには十分だった。
心許なくなった喉元に、リウィリスが顔を埋めて囁く。
「でもごめんね。私は君を手放すつもりはないんだ」
その言葉を聞いた時、フェインの中で何かがぷつりと切れた気がした。
恥じらいや戸惑いも一瞬で消し飛んで、ギッとリウィリスを睨む。
――ここでユーラム殿ともしたくせに!!
身体がほんの少し離れた隙を突いて、彼の胸倉を掴む。そして次の瞬間には、あっという間に体勢を逆転させ、今度はフェインがリウィリスに伸し掛かる格好となっていた。
彼が驚いた顔で見上げてくるのを、更に鋭い眼差しで見下ろす。
「フェ――」
「ああ、そうだよ。エレイナに結婚を申し込まれた」
「なっ……」
「俺も悪くないと思った。彼女に恋愛感情を抱いたことこそないが、少なくとも誠実で信頼できるからな」
誰かと違って、という気持ちを視線に込める。
「エレイナは俺の事情も知ってるし、アルファだ。相手として何の不足もない」
「でも、彼女にはユー――」
「うるさいっ!!」
今一番聞きたくない名前に、感情が抑えられなくなった。
必死に止めようとしていた涙が滲んで、だがそれを見られたくなくて、リウィリスの服を離さないまま、彼の胸に顔を伏せる。
「もう…いやなんだよ。隣にいれるだけで良いと思いたかった。けど……、リウィリスが別の人を見つめるのを、横で見続けるなんて……、おれには、できない…………」
それならば、たとえ燃えるような感情などなくとも、信頼のおける誰かの手を取った方が、よほどいい気がした。相手はエレイナでなくとも構わない。
リウィリスの傍にいられないならば、誰だって同じだ。
「フェイン……」
「……なんだよ」
ぐすっと鼻を啜って、ぶっきらぼうに返す。
「私の、聞き間違いかな……。君が私のことをすごく、好きだと言ってるように聞こえる」
呆然としたリウィリスの呟きにカチンときて、勢いよく頭を上げると、そのまま掴んでいた服を引いた。
「――っ、好きに決まってるだろ!! ずっと! 好きじゃ……なかったことなんて、ない」
間近での叫びに、リウィリスは虚を突かれたような顔をしている。
それと同時に、どうして言ってしまったんだろうという後悔が押し寄せた。
言ったところで、困らせるだけなのに――。
掴みかかっていた腕の力が抜ける。
これ以上は駄目だと思った。
あと一言でも何か口を開けば、みっともなく縋ってしまう。
だから今すぐ彼の上から降りて、「エレイナの提案は断る」と伝えて、この場所を去らなければならない。
何も気にしなくていい。ちゃんとリウィリスの妃になるから、と。
だが、離れようとしたフェインを引き留めたのはリウィリスの手だった。背中に回った腕に抱き寄せられて困惑する。
「リウィリス……?」
「……フェインには、嫌われてると思ってた」
「そんなわけ――」
「だから、噂も放置していたんだ」
フェインは何と返せばよいか分からず黙り込んだ。
もちろん彼の言う「噂」とは、ユーラムとの件だろうことは察しがつく。
リウィリスは一度抱擁を解き、口を噤んだまま呆然とするフェインの頬を両手で挟んだ。それから、しっかりと目を合わせて続ける。
「噂は事実無根だよ。私とユーラムの間に特別な関係はない。これまでも、これからも」
「だ、けど! この前、夜に……二人でこの部屋にいただろ……!」
リウィリスは驚いて目を丸くした。だが、きっぱりと首を横に振る。
「二人でいたことは認めるよ。けど本当に、何もない。私には……、フェイン。君だけなんだ」
「でも……」
彼が嘘を言っているのではないのは、もう分かっていた。それでも、何年も信じ込んできた話が事実ではなかったと、すぐには納得できない。
「なら、どうして……――。……抱いてくれないんだ」
あまりにあけすけな問いに、羞恥で顔が赤らんだ。
リウィリスは答えを迷うように、暫し黙った後、ぽつりと呟く。
「君には嫌われてるんだと思ってた。だから、せめて結婚するまでは――、と……。……いや、これは単なる言い訳だな」
彼はふと微笑み、フェインの頬に口付けた。
額を合わせ、間近で視線が絡む。
何故かリウィリスの目が妖しく光っているような、そんな錯覚を覚えた。
「――一度手に入れたら、もう自由にはさせてあげられそうにないから」
「リウィリ、ス……」
注がれる眼差しにぞくりと背筋が震える。
「それでもいいのなら、私はいつだって君がほしいよ」
「っ――」
ここで否と言えば、きっと手を離してくれるのだろうと思った。
そして明日からも変わらず、品行方正で紳士的な婚約者でいてくれるに違いない。
けれど。
フェインは意を決して、リウィリスに震える唇でキスをした。
「ぁ……」
その覚悟に応えるように、口付けはあっという間に呼吸もままならないほど、深いものになっていく――。
互いの肌を晒し、抱き締めあう。
触れた素肌が熱い。鼻腔には興奮したアルファの香りが届いて、フェインも性感を引き上げられていく。
「んっ……」
全身にキスをされ、余すところなく指が触れる。
後ろが収縮を繰り返して、早くほしいと訴えているが、リウィリスの動きはじれったいほど丁寧だった。
胸を舐める舌の感触に、フェインはきゅっと目を瞑る。
視界を閉ざせば、より彼の匂いが濃密に感じられて息が上がった。
熱い手の平に陰茎が包まれ刺激されれば、止めどなく蜜が溢れる。
「リ、リウィリス……」
もどかしくて、早く早くと気が急く。腕を伸ばしてその身体を引き寄せると、耳元でくすりと笑みをこぼすのが聞こえた。
「フェイン……、あんまりかわいいことしないで。乱暴にしたくない」
「だって――、あっ!」
勃ち上がった先端をぐりと押し込まれて、高い声が漏れた。
自分で、独りきりでするのとは何もかもが違う。
同じようにしたって、これほど堪らない気持ちになんか、なったりしなかった。
「フェイン」
唇を辿る舌に促されるように口を開く。侵入してきたリウィリスの舌先を受け入れ、唾液が混ざり合うような口付けを交わした。深い深いキスに腰が痺れ、後ろがじわりと濡れるのが自分でも分かる。
「足、開いて」
欲の混じる声で呟かれた指示に、恥じらいをどうにか押し込めて、フェインは小さく頷いた。
これまで誰にも晒したことのない場所を、見せつけるように開く。リウィリスの視線がみっともないほどに彼を求める下肢を辿り、どうしようもなく恥ずかしくなった。
「リウィリス……っ、いつまで――」
羞恥に耐えきれずに叫ぶと、彼は苦笑しながら、フェインの額に触れるだけの優しいキスをした。
「ごめんね。なんだか、夢みたいだと思って」
「――……」
俺だって、同じ気持ちだ。
もう何年も、こんな夜が来ることを願ってきた。
「でも、夢じゃないんだよね」
「リ――、んっ! あ……っ!」
フェインが言葉を返すより早く、リウィリスが露わになっていた後孔に触れる。そして、焦らすことなく中に入ってきた。
待ち望んだ刺激に、きつく彼の指を締めつける。潤んだ中が滑りをなめらかにして、あっという間に指の本数が増えていった。
きゅうと足先を丸めて、ともすればすぐにでも達してしまいそうな快感に耐えるが、彼はお構いなしにいい所を抉る。
「ん、あっ……! リウィリス、だめっ……、もう――」
「いいよ、一度達って」
「んっ――!」
腹の上に白濁が散って、フェインは肩で息をしながら、涙に滲む視界でリウィリスを見上げた。
だがすぐに口付けが降ってきて、目を閉じその感触に溺れる。
「っ、あ……」
後孔から指が引き抜かれ、気怠さでぼんやりしていると、身体を裏返しに反転させられる。
重力で髪が枝垂れ、露わになった項にリウィリスがちゅとキスをした。
「…………いい?」
吐息混じりの問いに、フェインは小さく頷く。
すると間髪入れず、後孔に熱いものが押し当てられた。
リウィリスのだ。
そう頭で理解するよりも早く、その屹立はフェインの中に挿入ってくる。
「んあっ!」
隘路を抉じ開けるように進む感触に、無意識で腰が逃げそうになった。だが、リウィリスの手がそれを許さず、侵入は続く。
圧迫感と微かな痛み。それから、焼けるように熱いものが、腹の中に埋められていく。
「あ…あぁ……、っぅ――」
経験したことのない感覚がフェインを襲う。
そして、一際強い衝撃と共に一番太い部分が中に収まったのが分かった。リウィリスが一度動きを止め、は、と熱い息をはく。
「……フェイン、平気?」
名を呼ばれて振り返ると、乱暴に前髪を掻き上げる彼と視線が合った。
その眼差しにぞくりと背筋が震え、子宮がきゅっと収縮した気がした。
こんなリウィリスを、フェインは目にしたことがない。
夜の闇にも光って見えるほど、獰猛な気配を帯びている。
これが、オメガを抱くアルファ。
フェインしか知らないリウィリスの姿。
俺だけの――。
ぞくぞくと全身に甘い痺れが走って、彼を受け入れる内側には愛液が溢れた。
「好きに、して……。俺は、リウィリスになら何をされても――」
背後で息を飲む気配がする。そして、我慢ならなくなったように、今度は一気に奥まで貫かれた。
「――ああっ!!」
激しい抽挿がはじまって、止める間もなく口からは喘ぎ声が漏れる。
「あっ、あ……っ! ひ、ああんっ……!」
肌のぶつかる音、中をかき混ぜられる水音、それからベッドの軋みがフェインの耳に届いた。
腹が熱い。腰も、手や足の先も痺れて、本当にリウィリスにされるがまま子宮口を穿たれていた。
激しく求められているのが分かる。
こんなの、発情期だったならどうなってしまうのだろう。
そんなことを頭の片隅に残る理性で考える。
けれど同時に、もっと早くこうなりたかったと、歓喜に震える本能も感じていた。
身も心もリウィリスに染められたい。
中に子種を注がれたい。そしてなにより――、番になりたい。
その時、まるでフェインの思考を読んだかのように、項に熱い息がかかった。
「あっ……」
噛まれる。
そう思った瞬間、胸が多幸感でいっぱいになって、リウィリスを離したくないと主張するように、きゅっと中が締まった。
彼の口が開かれる気配を感じる。
早く、早く噛んで。早く、リウィリスだけのものに――。
次の瞬間、ガリッという何かに噛みつく音と、血の匂いがした。
だが、フェインの首筋には痛みはない。
ハッとして後ろを振り向くと、そこには自身の腕に歯を立てたリウィリスの姿があった。
「な、ん……」
フェインが言葉を失っていると、彼はいまだ興奮冷めやらぬ顔ながら、口を離して自嘲するような表情を浮かべる。
「だめだよ。こんな、流されたみたいに番になっちゃ」
「お、俺は……、すぐにでも……」
「だめ。結婚するまでは、って決めてるんだ」
リウィリスは一度屹立を抜くと、フェインを仰向けにしてから、もう一度中へと自身を埋めた。
「んっ……」
挿入の感覚で思わず瞑った目元に、キスが落ちてくる。
「今まで傷付けたから、大事にしたいんだよ」
わかって、とお願いされれば、フェインも頷くしかない。でも。
「……なら、代わりに……俺のこと好き、って言って。たくさん」
ぽつぽつと呟くと、リウィリスは「そんなことか」というように笑った。
そして、じっとフェインを見つめて微笑む。
「物心ついた時には君が好きだった。愛してるよ、フェイン。大好きだ」
真剣な表情でそんな風にを囁くので、照れ隠しでつい目を逸らしてしまう。だがどうにか視線だけ戻すと、もごもごと言った。
「……足りない。もっと」
「好きだ」
「もっと」
「好きだよ」
「もっと……」
「好き」
言葉の合間に口付けを交わし、ゆっくりと抽挿が再開される。
大事にしたいという言葉通りに、その夜リウィリスが中に出してくれることはなかった。
しかしフェインはそれが些細なことに思えるほど、最愛の人に包まれる安心感と共に穏やかな眠りにつくことができた。
これまで本当は、ずっと寂しかったのだ。
ようやくそう気が付いたのは、次の朝にあたたかい腕の中で目覚めた、その時のことだった。
*
「――で。なにが『優勝の確約なんて出来ませんよ』なんだか。ねえ、殿下」
ユーラムが苦笑混じりに、いつかにしたフェインの発言を揶揄する。
「さすが、私のフェイン。決勝戦は見事だったよ」
それに得意げな顔をしたのは、ソファに座るフェインを抱き締めてぴったりと寄り添ったまま離れないリウィリスだった。
「見事、というか……。あれは、瞬殺というやつでしょう。ねえ、お兄様?」
対面にいるユーラムの隣にいたエレイナが、呆れ混じりに続ける。
この国で初めて開催された剣術大会から一週間程が経つが、今なお王国中がその顛末で持ちきりだ。
王太子殿下の婚約者でオメガの騎士が、見事初優勝の栄誉を勝ち取った。
――それも全ての試合で、相手は殆ど敵にならない圧勝という形で。
「いや、だから。運が良かっただけだ、って言ってるだろ……」
「「「それはない」」」
三人に声を揃えて反論され、決まり悪く口を噤む。彼らはこう言ってくれているが、やはりフェインとしては首を傾げざるを得ない。
難しい顔をしていると、エレイナが肩を竦めて茶を一口啜る。
「本当に、お兄様は自己評価が低くてらっしゃるわ」
そして一転、ギロリとリウィリスを睨んだ。
「これも全て王国の体制のせい。ひいては殿下のせいでしてよ」
不敬な物言いにフェインは少々焦るが、矛先を向けられた側のリウィリスは困ったように笑った。
「これは手厳しいな……。エレイナ嬢を納得させられなければ、フェインがかっ攫われそうだ。――ユーラム、首尾は?」
水を向けられた彼は、ぱっと表情を明るくする。
「かなりいい感じですよ。少なくとも表向きは、オメガに対して態度を軟化された貴族も多いです」
もちろん長年の価値観がすぐに一新されるのは難しい。だが、確実に新たな風が吹いているようだ。
ユーラムは、にひっと笑って続ける。
「弟の婚約も整いましたしね!」
そう。彼がオメガの地位向上を目指していた本当の目的は弟にある。
そのオメガは、とあるアルファの子息と恋仲になり、婚約を結ぼうとした。しかし、彼の第二性を理由に、相手側の親から難色を示されていたそうなのだ。
そこが進んだということは、確実に何らかの変化がこの国に起こっている証拠だろう。
「殿下方が結婚するまでには、もっと状況をよくしてみせますね!」
「頼むよ。私の大切な伴侶が、これ以上侮られるのは我慢ならない」
リウィリスはフェインの頬にキスをしながら、ニヤリと笑った。
「……リウィリス、人前だから」
「だから?」
すれ違いが解消されたあの夜から、フェインに対する彼の態度は百八十度変化した。
急速に増えた触れ合いにまごつくのは自分ばかりで、リウィリスは何を言ってもどこ吹く風だ。
「はぁ……。仲がおよろしいようでなによりですわ」
若干棒読みでエレイナが呟くと、ユーラムが彼女の手を握ろうとする。
「僕たちもあんな風になりたいなぁ……、なんて――、いったぁ!!」
べちんとその手が叩き落とされ、ユーラムが涙目になった。
「気色の悪いこと仰らないで」
「そんなぁ……」
凍えるような目で見据えられる彼だが、すんすんと泣き真似をしつつも一向にめげる様子がない。
正直、フェインは二人がこんな関係だと、つい最近まで全く知らなかった。
……知っていたら、リウィリスとユーラムが恋仲などという勘違いはしなかったかもしれないな、と思っている。
彼らはそんな、今となっては荒唐無稽と分かる噂を利用して、オメガの地位向上に向けての作戦会議をしていたらしい。
フェインに嫌われていると誤認していたリウィリスは、まさかその噂をフェインが信じ、あまつさえ傷付けていたなど、考えもつかなかったそうだ。
その時ふと、彼らの「浮気現場」だと思い込んだ日の場面が蘇る。
何やら痴話喧嘩のようなものをはじめてしまったエレイナたちを尻目に、フェインはリウィリスにちらりと視線を向けた。
「どうかした?」
「いや……、あの日どうして、ユーラム殿と抱き合ってたのかな、って思っ――」
「「抱き合ってないけど!?」」
ユーラムはどこから聞いていたのか。声を揃えて叫んだ二人に「仲いいなぁ」と穏やかに考える。
それでも確かに見たんだが、と首を捻っていると、リウィリスが顔を覆って深い溜息をついた。
「多分、あの日のことだと思うんだけど……。あれは、ちょっと、その……目眩がして」
ごにょごにょと歯切れ悪くリウィリスが弁明するのを聞いて、ユーラムが合点がいったようにぽんと手を叩く。
「ああ! 殿下が『フェインの匂いがする』って言った時のことですか!」
「にっ……!?」
あの時フェインは発情期だった。そのため、近付けばたしかにアルファには「匂い」が分かっても不思議はない。
だが彼らとの間には、相当距離があったはずだ。少なくとも、目眩を起こすほど香っていたはずはない。
どういうことだと再度リウィリスを見上げると、その顔が珍しく真っ赤に染まっていた。
「いや、でも、疲れだと思いますよー? 僕はなんにも感じなかったし。それか、禁欲しすぎておかしく――、っい、いたたたた! いたいいたい! エレイナ!? 耳ちぎれちゃう!!」
「帰りますわよ。このおばか」
エレイナがユーラムの耳を引っ張って部屋を出ていく。彼女は「見送りは結構」とだけ言って、颯爽と去っていった。
彼らの声が遠ざかると、室内はしんと静かになる。
「……あの、リウィリス?」
顔を覆ったまま動かないでいた彼は、突然フェインを引き寄せてきつく抱き締めた。
「私にとって君は特別なんだよ、本当に。……些細な変化でも気付く」
そういえば、急な発情期を迎えたのは、初めての時を除けば、この前の一度きりだ。いつもそれとなくリウィリスが薬を飲んだか確認してきたり、業務が調整されていたのを思い出す。いや、その一度目ですら「甘い匂いする」と彼だけが指摘していた。
フェインは嘆息して、リウィリスの背をぽんぽんと叩く。
「そんなに目立つのか?」
「……いいや、分かるのは私だけだよ」
「もしかして発情期に一度も会いに来ないのってさ……」
「あの日も危なかった。もし君が近くいるって事前に知ってたら、探し出して襲いかかってたかも」
あんまりにも真剣な声でそんなことを言うので、フェインはまさかという気持ちでくすりと笑う。
「リウィリスが?」
「そう、私が。部屋に連れて行く間すら我慢できなかったと思うよ」
「それは困るな……」
くすくすと笑っていると、顎に手がかけられ口付けが降ってきた。
ソファに押し倒され、足を掴まれる。股の間にうっすら硬くなってきたものが当たって、フェインも期待に息を飲んだ。
「――今は我慢できるか?」
そっと耳元に囁くと、リウィリスはふっと微笑んでフェインを抱き上げた。
「なんとかね」
フェインは彼の首に腕を回して、その身体にぴったりと寄り添う。
それから、少し前から考えていたことを口にした。
「なあ、リウィリス」
「ん?」
「ユーラム殿との約束も果たしたしさ……、俺――、騎士辞めるよ」
「えっ!?」
リウィリスの驚愕した顔を見れて、してやったりと微笑む。
「もう、あそこにいる理由がなくなったから」
そもそも、騎士になりたくて入団を決めたわけではなかった。剣術は好きだったが、趣味でも十分だったのだ。
本当の理由はただ、「別の人間を見つめる最愛の人」から逃げたかっただけ。
けれどそれはもう、払拭された。
なら――。
「リウィリス。俺の本当の夢……、叶えてよ」
幼き日の約束が脳裏に浮かぶ。
フェインはリウィリスの唇にキスをした。
「俺を、番にして」
それから――、
あたたかい陽光の元、祝福の鐘が鳴る。
神聖なる口付けを交わして、空に誓った。
――これからは、ずっと一緒だ。
了