この関係は酷く歪で
危うい均衡の上に成り立っている
約束は白き森の果て 上
呪われたおまえと身体ではじまる不毛な恋を
あらすじ

 魔道具研究をするレイは、ある事件をきっかけに騎士フェデリオに見初められた。

 呪いによって植え付けられた感情で、レイを愛し執着するフェデリオ。

 これはこの男の本意ではないはずと、突き放そうとするレイだったが、彼の与える愛はあまりに甘美で……。

 不思議な縁で繋がってしまった二人を巡る、ファンタジーボーイズラブ。

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タイトル約束は白き森の果て 上 呪われたおまえと身体ではじまる不毛な恋を
タイトル(かな)やくそくはしろきもりのはて じょう のろわれたおまえとからだではじまるふもうなこいを
著者名雪野深桜
著者名(かな)ゆきの みお
刊行日2024年07月20日
種別長編
ジャンルファンタジーBL
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本文サンプル

 小国フィアスリートは、少々変わった場所にある都市国家だ。

 三方を森に囲まれ、残った一方も立ち入り制限のされた急峻な霊峰がそびえている。他国とも交流は盛んでないが、ある程度自給自足の成り立っているため、然程困ることもない。また、目立った観光地もなく、他所からの旅人も滅多に見かけない国だ。住民の気性は穏やかで争いを好まず、地形柄か長らく戦争もない平和で長閑な場所だった。

 そんな国ではあるが、その名だけは世界でも知られている。「精霊の(みやこ)」という別名で。

 精霊とは、世界を構成する魔素(マナ)と呼ばれるものの影響を受け、動植物が変異した姿のことだ。世界中で極々稀に生まれる彼らは、高い知能と魔法などの特異な力を獲得し、長い時を生きるようになる。

 一つの地域で数百年に一度。そのくらいの頻度でしか生まれないはずの彼らだが、フィアスリートは例外だった。国内――特に森や霊峰の深部では、数えきれないほどの精霊たちが今この瞬間も生まれ続けている。

 ゆえにこの国は、「精霊の都」という別名を戴いていた。

 そういった土地柄のため、旅人は少数ながらも移住者が多い国でもある。精霊や魔素(マナ)の研究者、それから魔素(マナ)を扱う魔法の使用に長けた魔導師たち――、こういった人々がこの特異な国に魅せられて根を下ろすのだ。

 そして、それはきっと……自身も例外ではない。

「――あ、レイ。今から魔道具のテストに付き合ってほしいんだけど」

 そんな言葉で呼び止められた青年レイ・アグリスは、女性の――先輩研究員の声に振り返った。研究員の身分を表す黒いローブを翻し、彼女の方へ向き直る。レイは濃い青の瞳を瞬かせ、頬にかかる短い黒髪を耳にかけながら問い返した。

「どの魔道具ですか、ルリナさん?」

「ほらぁ、あれよ! 精霊と喋ろう、ってやつ」

「ああ……」

 レイの所属する王立研究室は、主に魔道具――魔導師でなくとも魔法を使えるようにするための道具の総称――を、とりわけそれと精霊との関係を特に研究している機関だ。「王立」と名のつく通り、フィアスリートの中心に近い位置にある王城の一角に、研究棟を与えられていた。

 ルリナは髪をいじいじしながら、レイの返答を待っている。

 精霊の中には極稀に人語を話すものも存在するが、その殆どが知能はあれど言葉で喋ってはくれない。彼女の言う魔道具は、そんな精霊たちとも意思疎通を図ろうという研究の一端だった。

 丁度レイは、城内で勤務する人々に解放された食堂で、昼食を終えてすぐのタイミング。今から午後の仕事に向けて、管理室――自分たち王立研究室の研究員が詰め所のように使う部屋まで戻るところだった。とはいえ、急ぎの用事があるわけでもない。彼女の実験に付き合うのは嫌ではないのだが……。レイは少し渋い顔をして訊ねた。

「良いですけど、意味あるんですか?」

「もう! なんてこというの。どんな精霊とでも喋れた方が良いじゃない!」

「いや、そうじゃなくて……。これからするテストって、対動物ですよね。精霊じゃなくて、普通の」

「…………そうだけど」

 ルリナが文句あるのかとでも言いたげに、口を尖らせる。

「仕方ないじゃないの! 森に調査なんて、なかなか許可が下りないんだもの!」

 ぷんぷんという擬音がつきそうな様子で怒る彼女に、レイは肩を竦める。

 そうなのだ。いかにフィアスリートが「精霊の都」と呼ばれていても、街中に彼らがうろついているわけではない。

 その姿を見ようと思えば、せめて街の外縁部、確実に遭遇しようとするなら三方いずれかの森に入る必要がある。

 しかしここ数年、特にレイが研究室入りした五年より少し前から、森への立ち入りがかなり制限されるようになった。

 というのも――

 その時、カンカンカーンという甲高い鐘の音が響いた。

「……はぁ、テストはまた今度ね」

 ルリナはその鐘の音に眉根を寄せて億劫そうに溜息をつくと、レイの隣をすり抜けるように歩き出した。ぼんやり立ち尽くすレイに、彼女が首だけで振り返る。

「何やってるの。早く行きましょ」

「あ、はい……」

 鳴り響く甲高い音は、緊急招集を知らせるものだ。この音には、いつも言いしれぬ不安感を掻き立てられる。

 だが「緊急招集」であるにもかかわらず、周囲で慌てる様子を見せる者は誰もいない。日常の一部になってしまうほど耳にするこの音は、森への立ち入りを制限する原因でもある。今回もきっと内容は同じだろう。

 レイは胸に浮かぶ不安に、ローブの前を掻き抱くように手を握りしめると、ルリナの後を追って床を蹴った。




 管理室には既に他の研究員たちが揃っていた。

 王立研究室は、「王立」と名のつく研究機関の中では、比較的規模の小さい組織だ。そのため、合わせて十人ほどしか在籍していない。部屋の一番奥に室長の机があり、そこから見渡せるように全員分の席が並べられている。だが、一番目立つその場所はまだ空席で、どこか緩んだ雰囲気のままだ。

 レイはルリナの後を追って入室し、自身の席についた。すると間もなく扉が開く。

「――全員、揃っているな」

 部屋を見渡した室長のブルーノが、深刻な顔をしたまま中へと進んだ。奥へと向かって椅子に身を沈めると、深い溜息を一つ。

 その疲れ切った様子に、どうやらいつもの招集とは、何かが違うらしいと察せられた。空気がぴりと張り詰めた頃、ブルーノは静かに口を開く。

「緊急招集の鐘の音は皆も聞いたと思う。理由はいつもと同じ――、精霊が魔物化している兆候が見られた」

 精霊の魔物化――。

 これが現在、フィアスリートを囲む森への立ち入りが制限されている理由であった。

 精霊は動植物が魔素(マナ)の影響を受け変化したものたちのことだが、彼らは時折更に変化を遂げてしまうことがある。それが「魔物化」と呼ばれるものだ。

 彼らは高い知能と長い寿命、それから人間でいう魔法と同等かそれ以上に不可思議な力を手に入れる。だが、魔物化した精霊――単に「魔物」と呼ばれる存在になってしまったものたちは、再び知能を失い、破壊の限りを尽くす獣になってしまう。それもただ動植物の頃に戻るだけではなく、精霊として持っていた魔法の力を有したまま、だ。

 特に魔物の使う魔法は、殆どの場合で人に害を成したり、長期間に渡って苦しみを与えたりする「呪い」に分類されるようなものとなる。

 そのため、魔物化した精霊は討伐対象となるのが常だ。しかしその討伐では、高名な魔導師や腕の立つ兵士たちでも、甚大な被害を受けてきていた。

 そういった背景から、長らく戦争のないフィアスリートではあるが、軍事面では中々の勢力を誇っている。とはいえ、本来なら魔物の出現は五年に一度もあれば多い方で、他国への魔物討伐支援が主な任務だった時期も長い。

 だが、十年ほど前から、その流れが徐々に変わってきていた。魔物化する精霊の数が急増し、緊急招集の鐘は数ヶ月に一度という耳に馴染むほどの数となっている。魔物化の根本原因がそもそも不明な中、異常は日常となってしまっていた。

 緊急招集が魔物によるものと分かり、またかと少し部屋の空気が緩む。

 しかし依然としてブルーノの表情は暗く、やはり「いつもの」招集とは何か違うのではないかと感じざるを得ない。

 そのことを訊ねようとレイが口を開きかけたところで、ブルーノが言った。

「今回、魔物化の兆候を見せた精霊が……――」

 彼はふぅと長く息をついてから、言葉を続けた。

「『深淵なる森の賢者』、だ」

 その言葉に、しんと沈黙が落ちる。レイは思わず息を飲み、一瞬遅れて周囲ではざわりと動揺が広がった。

 精霊の一部には二つ名がつけられている。

 今回の「深淵なる森の賢者」もそのうちの一つで、この名がつけられているのは、白い牡鹿の姿をした美しい精霊だ。

 二つ名は、たとえばとても長く生きていたり、人語を喋り人々との交流があったり、人の生活に影響を与える強い力を持っていたり――、といったような特徴のある精霊につけられる。「深淵なる森の賢者」――、単に「賢者」とも呼ばれる彼も、長く生きる精霊だという。あまり人前に姿を現すことはないが、穏やかで優しく、街の人々の間でもその存在は親しまれていた。

 それに何より――

「名付きが、魔物化……」

 呟いたのは誰だったのか。だが、ここにいる皆が同じことを思っていたことだろう。

 これまで魔物化を確認してきた中に、二つ名を持つ精霊はいなかった。にもかかわらず、既に数十を超える死傷者を出しているのだ。

 名付きの精霊ともなれば、当然これまで相対してきた魔物たちよりも持ちうる力は強い。ならば一体、どれほどの被害が出てしまうか――。

 そのことに思い至ったのか、何人かの顔が青褪めている。レイも内心の動揺を必死に隠して、ぎゅっと拳を握りしめた。

 レイは思考を巡らせ、ふとブルーノの言葉を思い出す。

「――待って下さい、室長。さっき『魔物化している兆候』と言いませんでしたか……?」

 研究員たちが、ハッとするように一斉にこちらを向いた。その視線に少し怯みつつも、レイは一縷の望みに縋るようにブルーノの様子を窺う。

 彼は渋い顔をまま、だが確かに――頷いた。

「……ああ、たしかに言った。『賢者』は、魔物化していない。まだ……今は」

「じゃあ……!」

 しかしブルーノは、今度は首を横に振った。

「魔物化の兆候を見せた後……、それを防げた例はない」

 レイはぐっと言葉に詰まって、唇を噛む。

 それはレイ自身も知っていることだった。だからこそ、いつかこんな日が来るんじゃないかと怖れ、「その日」がずっと先であることを願っていた。

 願いを聞き届ける神はやはりいなかったが。

 それでも、ここでただ手をこまねいて「賢者」が魔物となってしまうのを見過ごすなど、出来るはずもない。

 どうにかならないのか。そんな気持ちばかりで、けれどどうすれば良いのかなど浮かばず……。己の不甲斐なさに苛立ちばかりが膨らんでいく。

 その時――。

「室長」

 控えめに手を上げたのはルリナだった。

「なら、『あれ』を使ってみてはどうですか?」

「……『あれ』?」

「はい。作ったはいいけど、サンプルが少なくて開発もなかなか進まず、倉庫で埃かぶりかけてる『あれ』ですよ」

 ブルーノはルリナの言う「あれ」にピンときたのか、目を見開くと、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。

「すぐ同行許可を取り付けてくる。ルリナ、それからレイ。お前たちは開発責任者だったな? 動作確認を済ませておいてくれ。他のメンバーは後で選定する」

 早口でそう告げると、彼はあっという間に部屋を飛び出していった。

「あの、ルリナさん。『あれ』って……?」

 皆がぽかんとする中、同じく退室しようとするルリナを呼び止めて、レイは問いかけた。彼女は不思議そうな顔をしたあと、いたずらっぽく笑って答える。

「やだ、忘れちゃった? あなたが入ったばかりの頃に作った、魔物から悪い魔素(マナ)を取り除く『あれ』よ」

「あっ……!」

 それは、何年も前に新人だった時分のレイが、どうにか完成させようと躍起になっていた魔道具のことだった。


・・・中略・・・


 ガタゴトと荷馬車が揺れる。

 外には田畑が広がり空も良い天気で、ピクニックにでも出たかのような錯覚を覚えてしまうほど清々しい陽気だ。

 時刻は既に昼をまわり、現場である東の森までかなり近い場所まできていた。夕刻には到着するだろう。

「さて……、これが東の森周辺の地図なんだが――」

 レイをはじめとした王立研究室の面々は、ヘンデルが置いた一枚の紙を覗き込んだ。

「このバツ印が『深淵なる森の賢者』のいる所ですか?」

 ルリナの問いにヘンデルが頷く。

「先遣隊が陣を築いているのがここで……、『賢者』から少し離れた所で様子を窺ってるらしい」

 彼は森を少し入った所を指して、バツ印を囲むように書かれた線をなぞった。

「三時間前の時点では、まだ精霊の姿を保ったままだったそうだ」

 魔物化した精霊は、体内にある魔素(マナ)の構成が変わるためか、体色が大きく変貌する。個体差はあるが、黒などの濁った色になることが多い。「深淵なる森の賢者」は元々の色が美しい白色のため、変化が見られれば遠目でもすぐに分かるだろう。

 魔物化が進んでいないという言葉に、レイは少しほっとする。

「それで……、俺たちは到着したらどうすれば良いですか?」

 レイが尋ねると、ヘンデルがもう一度地図のバツ印を囲む円をなぞりながら口を開いた。

「この線までが安全に近付ける範囲なんだそうだ。だが、魔道具の有効射程はそれよりも短い……」

「つまり、誰かに警護してもらわなければならない、ということですね」

「ああ、そうだ。レイ、魔道具の起動から魔物化の沈静まで、どのくらいかかる?」

「これまでのデータから計算上――、最低一分。最大……十五分です。ただ、どの程度の魔素(マナ)を取り除く必要があるか分からないので……、正直、もっとかかるかもしれません」

 なにせ最新型でさえ試作機なのだ。そもそも有効なのかどうかすら曖昧だった。

 この魔道具は、いずれ完全に魔物化した精霊すらも戻すところまでのものにしたいと思っていた代物だ。それは今もレイの中では変わっていない。

 ただそこに至るためには、もっと学ばねばならないこと、もっと解明せねばならないことがある。普段の業務にも忙殺され――、それを言い訳に見ない振りをしていた。

 あまりにも進まない開発に情けなくなってしまったから。

 レイは何故、少しずつでも試作を続けなかったのかと、今更ながら後悔を感じていた。

 何故、いつまでも時間があると思っていたのか、と。

「すみません。曖昧な答えしかできず……」

「いや。開発を中断させたのは、室長はじめ私たちだ。気に病むことはないよ」

 たしかに、成果が出せず悩んでいた当時のレイに、別のものに目を向けるよう言ったのは、彼らだ。

 しかし、レイは首をふるりと振った。

 完全に放り出してしまったのは、やはり自分だから。

「それに……、こんな曖昧なものに付き合わせる兵士たちにも申し訳が――」

「あぁ、そんなの気にしなくていいよ」

「いや気にしない訳には……、――は?」

 突然割って入った聞き慣れぬ声に、レイはパッと頭を上げた。

「やあ」

 レイの丁度真正面に、あたかも最初からそこにいたかのように軍服の男が座っている。

「あ、あんた……」

 絶妙に着崩れた服、金茶のゆるいカーブを描く長髪に、整った顔――。出発前に、酷く退屈そうにしていたフェデリオなる男が、何故かここにいた。

 他の研究室の面々も、彼の登場に驚いているようで、ぽかんとしている。

 フェデリオはそれを気にするでもなく、話を続けた。

「なんか面白そーな話してるなぁと思って。魔物化を止める魔道具? そんなのあるんだ」

「まだ……試作段階、ですが……」

「いやいや、十分すごいでしょ。それで……、『賢者』に近付かなきゃなんだっけ?」

「……まあ、そう…です」

「なるほど。じゃあ、急いだほうがいいね。――ついさっき伝令が来たんだけど、少し魔物化が進行してるらしいし」

 さらりと告げられた言葉に、ピリと緊張が走った。

 顔を強張らせるレイに、彼は意図の読めない微笑を浮かべる。

「さっきも言ったけど、こっちのことは気にしないで。それより、あとちょっとで着くから、到着したらすぐに動けるように準備しといてよ」

「あ……」

 フェデリオはサッと立ち上がると、荷馬車の端へと歩いていく。

「それじゃあね、レイ」

 彼は手を振ると、近くに並走させていた馬にひらりと飛び乗った。そしてあっという間に前方へ向かって、姿が見えなくなる。

「…………何だったんだ……?」

 ぽつりと零れた疑問に、答えてくれる者は誰もいなかった。




「ですから、早ければ早い方が良いと……」

 夕刻に差し掛かり、ようやく一行は東の森に張られた軍の天幕に辿り着いた。

 フェデリオの言に従って、魔道具の準備をしていたところ、先遣隊の長として既に現場にいた第二師団長に呼ばれて今に至る。

 そんな彼に対し、困ったように言葉を返したのはヘンデルだ。レイはその後ろで、他の研究室の面々と共に、二人の様子を見守っていた。

 いわく、間もなく日が沈むため「賢者」の下へ向かうのは許可できない、とのことだ。

 レイたちも、その言い分を理解できないわけではなかった。しかし、魔道具が未完成な以上、魔物化が進行すればするほど、ただでさえ低い成功確率がどんどん下がっていく。そのため、まだ日のある今のうちに試しておきたいというのが本音だった。

「部下を危険に晒すわけにはいかない」

「ですが、まだ今なら日没前に戻ってこられるはずです……!」

 先程からずっと、第二師団長とヘンデルの問答が平行線のまま続いている。

 レイは落ち着かない気持ちの中、天幕の隙間から空を見た。こうしている間にも、夜は近付いている。

 早くしなければ。今ならまだ間に合うかもしれないのに。

 そんな焦燥がレイの胸を満たす。

「理由は述べた通りだ。理解されよ」

 にべもない第二師団長に、レイの苛立ちは限界を超えた。

「――だからって、『賢者』を見殺しにするんですか!?」

 しまった、と思った時には既に言葉が飛び出した後だった。第二師団長の冷たい眼差しがレイを射抜く。

「確証もない物を当てにして、兵たちを危険に晒せと? それで誰かが傷付けば? 死んでしまったなら? 君は責任が取れるのかね」

「……っ、それは」

 第二師団長の言うことは分かる。自分の我儘で誰かが傷付いたとして、責任など取りきれるはずもない。

 だがそれでも、どうしても引けなかった。だって、ここで引いてしまえば自分は――

「――師団長ってば、おかしなこと言うんですね」

 不意に脳天気な声が割って入る。驚いて天幕の入口を見れば、そこにはフェデリオがいた。

 レイと目が合った彼は、パチンと片目を瞑る。

「君たちがどこにもいないから探しちゃったよ。それじゃ、時間ないんで彼らを連れて行きますね、師団長」

「待て、どこへ行く気だ」

 話を向けられた第二師団長は、頭痛でも感じたかのように眉間を抑え、唸るように言った。

「どこって……。『賢者』の所しかないでしょう」

「私は許可していない」

「はあ……、ほんと頭固くて嫌になるな」

「フェデリオ!!」

 やれやれと溜息をついたフェデリオに、第二師団長は激高するが、怒鳴られた当人はどこ吹く風のまま続ける。

「さっきの『責任がどうの』って話でしょ? 師団長こそ責任取れるんですか?」

「……なんだと?」

「たった数人の犠牲を惜しんだがために、『賢者』が魔物になり――、そのせいで死ぬ大勢の人を生んでしまっても」

 第二師団長が言葉を詰まらせた。

「可能性で言うなら、そっちもありますよね。――……じゃあ、連れて行くんで」

 フェデリオがレイの二の腕を掴んで天幕の外へと引っ張っていく。

「…………許可する」

 ぽつりと聞こえた第二師団長の返答は、深い溜息の混じったような声だった。




 フェデリオの隊数人と合流したレイたちは、魔道具と共に森へと分け入った。

「先に言っておくけど、撤退の指示には従ってね」

 まだ「賢者」のいる所まで距離があるため、多少緩んだ空気のまま一行は歩を進めていた。

 そんな中、口を開いたフェデリオにレイは「まともなことも言うんだな」と、些か失礼なことを思いつつも素直に頷く。

 これから行おうとしている作戦――、というほどでもない行動指針はこうだ。

 魔道具を持った三人と各人についた護衛とで、魔道具の有効範囲ギリギリまで近付く。「賢者」が動かなければ、そのまま警戒しつつもレイたち研究員が作業を進めるだけだ。ただもしも、何かしらの動きがあった場合。その時は、フェデリオたちが「賢者」の注意を引き、時間を稼ぐことになっていた。

 つまり、相手の攻撃性によっては、非常に危険が伴う作戦だった。

 しかしフェデリオは、軽い調子のまま、緊張する素振りすら見せていない。彼の部下たちは、森を進めば進むほどその表情にはこわばりが現れているのに、だ。余程、腕に自信があるのか、それとも――。

 レイが訝しんでいると、フェデリオは一行に止まるよう指示を出す。そして、その場所から少し先で、森の中に潜んでいた兵の一人に駆け寄り、何言か言葉を交わして帰ってきた。

「今のところ目立った異常はなし。だから、作戦は続行する。全員、今まで以上に気を引き締めて」

 どうやら「賢者」の様子を観察していた人物だったようだ。フェデリオに皆が頷き返すと、一行はまた森を進む。

 すると、すぐにレイにも分かるほど空気が変わった。

「――っ」

 息を飲む。

 上から押さえつけられるような威圧感を覚えた。しかし、どうにか気圧されてしまわないように、レイはぎゅっと拳を握り締める。足取りも自然と慎重になった。

「……あ」

 そして視線の先に、「深淵なる森の賢者」の姿を発見する。

 身体を丸めて眠っているようにも見えるその白い牡鹿は、前情報と違わぬ姿だ。だが――

「……黒い」

 姿形は何も変わっていない。だが、あの時の清廉ささえ感じた白い輝きは鳴りを潜め、代わりに黒い靄のようなものがかかっていた。

 胸が握り潰される――、そんな感覚がする。

 何よりも、彼が苦しんでいるのが分かってしまった。あれほどの苦痛の中でも、じっと動かず耐えるのは、どれほどの精神力がいるか。

 駆け出したい衝動を、どうにか抑え込む。

 だがその時、「賢者」の目が突然開いた。

 目が合った――、そう感じた次の瞬間には、これまでの微睡みが嘘のように、牡鹿はすくっと立ち上がっていた。

「――っ! 総員、退避!!」

 フェデリオの鋭い声が飛ぶ。しかし、レイがそれに対処出来るはずもなく、気が付くと強い光で視界が真っ白になっていた。腰に回された腕が身体を引き寄せる。男の肉体を近くに感じた時には、そのままぐんっと移動するような感覚があった。

「怪我は」

 ハッと気付くと、レイはフェデリオに抱えられていた。

「あ……、いや、ない。大丈夫……」

 下ろしてもらいながら辺りを見れば、彼の背後にある地面が線状に焼けていた。草がチリチリと焦げてしまっている。

 それを認識した瞬間、ゾッと背中が粟立った。

「これ、『賢者』、が……?」

「みたいだね。思ってたよりずっと厄介だ」

 フェデリオがいなければ、あれをもろに食らっていただろう。そうなっていれば、どうなったかなど――考えるのも恐ろしい。

 他の皆はと首を巡らせれば、レイと同じようにそれぞれ無事だった。そのことにほっとしつつ、抱えていた魔道具に視線を落とす。

 これを使う暇など、あるのだろうか。

 あんな攻撃、きっと掠っただけでも命の保証はできない。報告書の数字で見ていた、魔物との戦闘による死傷者数。それが、実感を伴って恐怖に変わる。

 でも……。

「レイ、どうしたい?」

「え……?」

 フェデリオの問いかけに顔を上げる。

「このまま戻るのが一番安全だね。正直、想像以上の相手だから、討伐じゃなくて護衛と牽制となると、僕以外には荷が勝ちすぎてると思う」

 やはりそうなのか、と納得しかけ――彼の言葉に引っかかりを覚えた。

「『僕以外には』?」

 フェデリオはニヤリと笑って、頷いた。

「そう。だから、一番出来の良い魔道具を持った、一番これを上手く扱える人間一人。それくらいなら、僕だったら守れる」

 提示された条件に合致するのは、どう考えてもレイ自身だった。今レイが持っているものが試作品の中でも一番最新で、開発者の自分が一番上手く扱えると言って差し支えない。

「さっきのでかなり魔物化が進んだみたいだし……、今を逃せばチャンスはないだろうね」

 そう言って、彼は「賢者」の方を指差した。その指先を追って――、レイは眼前の光景に息を飲む。

「っ!」

 そこには、深い闇を思わせる黒色をした、大型の狼のようなものがいた。

 いや、その身体はうっすら透けていて、黒に包まれるようにして「賢者」の輪郭が見える。

 牡鹿が狼に飲まれたとき、「賢者」が完全な魔物になってしまう。そう、察せられた。

 さあ、どうする?

 レイの答えを待つように、フェデリオはじっとこちらを見つめてくる。

 何故、彼の瞳はこんなにも凪いでいるのだろう。自分だって、無傷でいられるかなど分からないのに。

 けれど――。

 迷いを振り切るように、レイはぎゅっと目を閉じ、ゆっくりと開いた。

「――――やる」

 今やらなければ後悔するから。きっと、この先ずっと。


・・・中略・・・


「……失礼します」

 レイは城内にある病室の扉を開けた。

 中に入れば、部屋の中央にあるベッドに一人の男が眠っているのが見える。

 フェデリオだ。

 目を瞑り、黙っていればどこか幼い印象を受けるその顔を見下ろし、レイは小さく溜息をついた。

 既にあの森での一件から早三日が経っている。

 魔物化の脅威から突如解放された「深淵なる森の賢者」は、レイが気を失ったあと、すぐに森の奥へと消えたらしい。その後、遠征部隊は一晩をそこで過ごし、帰途についたそうだ。レイ自身はその帰り道で目覚め、極度の緊張とストレスによる昏倒だろうと診察された。

 今回の遠征では、誰一人としてかすり傷すら負っていない。ただ一人を除いて。

 そのただ一人――、この男だけが、いまだに目を覚まさずに眠り続けている。

 外傷は、頬と左腕の傷、それから数ヶ所の軽い打ち身だけだと聞いた。

 頭をぶつけたようでもなく、そもそも「賢者」に投げ飛ばされた直後には、彼の意識があったのをレイも確認している。

 一体いつ気絶したのか。それが何故なのか。

 何も分からないまま、時間だけが過ぎていた。

 レイも自分がこの件と無関係とは思えず、日に一度はこうして様子を見に訪れている。

 窓から吹き込んだ風が、カーテンを揺らした。

 不思議だな、とレイは思う。

 あの遠征に出るまでは、面識どころか、その存在すら知らなかったというのに。「知人」とすら言えないような関係性でしかない男の顔を、毎日欠かさず見に来ている。それがとても――、不思議だった。

「あんたは……、一体いつ目を覚ますんだろうな」

 内傷がどの程度か分からないため、治癒魔法をかけられなかったらしい。そのため、負った傷を癒すのは、彼自身の自己治癒力頼りだ。

 整った顔に大きく貼られたガーゼだけが不似合いで、なんとなく痕が残らなければいいなと思う。

 きっとこの一件が片付けば、もう二度と今のように近寄る機会はないだろうけれど。

「今、『賢者』がどうして元に戻ったのかについて、議論されてるよ。起きたら多分あんたも質問攻めだろうな」

 短い付き合いだが、のらりくらりと躱す姿が想像できて、レイはふっと笑いをもらした。

「――じゃ、帰るよ。あんたも、あんまり他人にいられると落ち着かないだろ」

 レイはくるりと身を翻して、部屋を後にするべく足を一歩踏み出した。

 いつもなら、そのまま静かに退室して研究室に戻る。

 だが今日は手首が不意に引かれ、それに失敗した。

「え」

 思わぬ方向に引かれたレイは、ぽすんとベッドの上に腰かける格好となる。

「あ……」

 背後には当然一人しかいない。

 起きたのか? と言おうとするが、手首を掴んだ張本人によってそれを遮られた。

「やあ、おはよう。美しい人。目覚めと共に君の姿が見られて光栄だよ」

 キラキラしい笑顔が、腹立たしいほどに眩しい。これまでの倍以上の軽さで響いた発言に、レイは何とも言えぬほどに顔をしかめて口を開いた。

「…………目は無事か?」

 頭をぶつけていない、と診断した医者は誰だ。とんだ藪じゃないか、とレイは頭を抱える。

 何故だが一向に手首を放そうとしないフェデリオの覚醒を周囲に知らせられたのは、しばらく経ってからのことだった。

続きは本編にて...
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