2023年短編1-1
「――っ、やだ、来ないで!!」
雨の降る夜の森を、少女は一心に駆けていた。
後ろから迫るのは、黒い影のような無数の人の手。それらが、少女を捕まえようと追い縋ってくる。
あれに捕まってはいけない。捕まってしまえば――
その時、少女の視界に一軒の屋敷が映った。
「あった!」
きっとあれが、噂に聞いた「森の魔法使いが住む家」だ。世界でも有数の力を持つ魔法使いならば、助けてくれるはず。その一縷の望みに賭けて、ここまで来たのだ。
「おねがい、助けてっ――!!」
少女は足を縺れさせながら、その屋敷に滑り込んだ。
雨にぬかるんだ地面に倒れ込み、地面に手をついたまま後ろを見れば、屋敷の境で黒い手が動きを止めていた。透明な壁があるかのように、ぺたぺたと何も見えないそこを触っているが、少女の元へは近付けないらしかった。
「たす、かった……?」
少女は恐怖が少しづつ抜けていくと、途端に強い疲労感を覚える。森に入ってから、ほぼ休むことなく走ってきたのだから無理もなかった。服もどこも泥だらけだったが、そんなことは気にもならないほど、疲れきっていた。
いけない、と思いつつも急速な眠気が襲ってくる。
少女は屋敷の壁に背を預けて、まどろんだ。
「――おい……」
微かな声に、重い目蓋を上げる。
そこには玄関から出てきたと思しき、背の高い長い銀髪が印象的な男が立っていた。
だが、彼の声に応える気力が保たずに、少女はそのまま意識を手放した。
2022/11/13
2023年短編1-2
「今日の晩御飯は〜、庭のハーブを入れたハンバーグと、人参の炒めもの。それから、昨日エマさんがくれた野菜のサラダに、コンソメスープです! 時間になったら忘れず降りてきてくださいよ、旦那様!」
「……ああ」
夫が言葉少なに頷いて、二階にある作業部屋へと戻っていくのを見送ったラナリアは、上機嫌にスカートを翻して昼食に使った食器を持ちながらキッチンへと戻る。
ふんふんと鼻歌を歌いながら、片付けをこなしていく。こんな生活も二年目ともなれば慣れたものだ。
「明日は買い出しの日よねぇ……。あ、小麦粉を多めに買ってきてもらおうかな。エマさんにお野菜美味しかった、ってお礼したいし、ケーキか何かを焼けば喜んでもらえるよね……。それなら干しブドウもほしいかも」
エマは街に住む三人の子を持つ女性で、たまに森の中にあるこの家まで来て、喋り相手になってくれる貴重な友人だ。
この屋敷に住みはじめて二年が経ち、本来ならエマ以外にも喋り相手くらいできていそうなものだが、ラナリアはとある事情から、屋敷の敷地から出ることができない。
「いい天気……」
キッチンの小窓からは、陽の光に照らされた森が見える。
だが、屋敷をぐるりと取り囲む塀を一歩でも出れば、ラナリアはきっと長くは生きていられないだろう。
故郷から逃げ出した時から絶えず追ってくる、影のような黒い無数の手は、視認できないだけで、そこにいるのだから。
ラナリアは落ち込みかけているのに気付いて、ぷるぷると首を振った。
「旦那様のおかげで、安全に暮らせてるんだから感謝しなくっちゃ!」
ラナリアの旦那様は、強い力を持った魔法使い。
雨と泥に濡れたラナリアを救い、今もこうして守ってくれている、大好きな人。
彼のおかげで、この屋敷にいる限りは黒い手を見ることもなければ、命を脅かされることもない。
なにより大好きな人と共に過ごせる日々は、ラナリアにとって、この上ない幸せだった。
ラナリアはもう存在しない国の王女だ。
小さいながらも豊かで、国民は皆幸せそうに暮らしていた。
城の部屋からは砂丘と広い湖が見えて、その水面に朝日が反射して輝くのを見るのがとても好きだった。
でももう、あの景色はどこにもない。
だが、その景色がどうして無くなったのか、どうしてラナリアがあの黒い手に追いかけられているのか、その記憶はすっぽりと抜け落ちてしまっている。
幸せな日常がぷつりと途切れて、その次に思い出せるのは、もう森の中を走っていた時のこと。
森の魔法使いが住む家へ行かなければ。それだけを胸に必死に走っていた。
でもそれで構わない。
故国が滅んでしまったのは、紛れもない事実。それから、自身がこの今ある生活を愛しているのも事実。
消えた記憶が戻ったところで、どうなるものでも無いだろうし、無駄に苦しむだけのように思えた。
だからこれでいいのだと、ラナリアは窓に映る自分の顔を見つめ返した。
2023/1/29
2023年短編1-3
「……ここは」
目が覚めると、ラナリアは暖かい暖炉の前で安楽椅子に座っていた。
「あら、目が覚めた?」
目の前には見慣れぬ――ラナリアより少し年上だろうか、快活に笑う女性がいた。
「雨の中泥まみれで玄関前にいたって? 何があったのか知らないけど、大変だったねぇ」
女性は水に濡らした布をきゅっと絞って、ラナリアの頬に当てた。そのまま、首筋や額を拭っていく。
「あの……」
「ああ、服を着替えさせたのはあたしだから、心配しないで」
包まれた毛布の隙間から見える服の端は、たしかに見覚えがない。
あたたかい……。
頭がぼんやりして、とろとろと眠気が忍び寄って来る。
わたしはここに、いったいなにをしに……。
のろのろと記憶を辿り、その理由に思い至った時、ハッと覚醒する。
「あ、あの、あの、わたし! ま、魔法使い様に……!」
噂の魔法使いは男だと聞いた。つまり、目の前の女性ではないということ。
なら一般人の彼女が自分の傍にいたら、ただでは済まない。
真っ青になって慌てて立ち上がろうとするラナリアに、女性は目を丸くして、肩を押さえる。
「ちょ、ちょっと落ち着きなよ。大丈夫。――お呼びですよ、導師様!」
「どうしさま……?」
「――なんだ」
少し不機嫌そうな声で現れたのが、意識が途切れる直前に見た銀髪の男だった。
2023/1/30
2023年短編1-4
「いやぁ、あの時はほんと驚いたよ」
エマがラナリア手製のパウンドケーキを口にしながら、カラカラと笑う。
「もう……、その時の話はいいでしょ、エマさん」
ラナリアも、エマのからかいにぷうと頬を膨らませながら切ったケーキを口に放り込む。
あの後、現れた魔法使い様――今はラナリアの旦那様となった男に縋りついて懇願したのだ。助けて、と。
あんまりにもラナリアがおいおいと泣くため、彼も混乱しきりで「導師様のあんな顔、初めて見た」とこちらもからかいの種になっていた。
「あんまり言うと、子供たちへのお土産分、渡しませんからね!」
「あっ、それは困るよ! あの子らあんたの作るお菓子大好きなんだから!」
母ちゃんだけ独り占めしたって怒られる、と慌てるエマに、ちょっと仕返しができたとラナリアも笑う。もちろん渡さない、なんていうのは冗談で、キッチンにはたっぷりのお土産を用意してあるのだけれど。
「……でもそっか。もうあれから二年になるんだねぇ」
「そうですね……」
随分とここでの暮らしにも馴染んだものだと思う。
故国はとても小さな国だったため、暮らす上で必要なことは自分ですることが出来た。しかし、家族や共に過ごした臣下たち、町へ行けば「王女さま!」と笑って出迎えてくれたみんなは、もうどこにもいない。
はじめはその事が受け入れがたくて、一年程は失意の中で過ごしていた。
その間も支えてくれた一人が目の前にいる彼女だ。
「今こうしていられるの、エマさんのおかげですよ」
突然の言葉にきょとんとした彼女だったが、ははと笑ってラナリアの肩を叩く。
「嬉しいこと言ってくれるね。でも、導師様の存在も大きいだろう?」
「そ、それは……まあ、……そうですけど」
頬がぽっと赤くなっているのを見られないように、ラナリアは両手でそこを押さえる。
「――そういえば、導師様は?」
「あー……、最近お出かけが多いんですよね」
「ふぅん?」
「でも今日はそろそろ――」
そんな事を言っていると、玄関扉の開いた音がした。
「帰ってきたみたいだねぇ」
ラナリアはぱっと立ち上がって玄関の方へ行く。
「おかえりなさい!」
「……ああ」
「あれ……濡れてます? 雨だったんですか?」
彼の着ている外套には、雨粒らしき水の粒が玉を作っている。彼の長い銀髪もしっとりと濡れているような。
だが、外は良い天気で太陽が見えている。今日は一日雨など降っていなかったはず、とラナリアは首を傾げた。
「出先で降られた」
「じゃあ随分と遠いところへ行ってらっしゃったんですね……」
彼はこくりと頷くだけで、それ以上の説明をする気はないようだった。どこへ行っていたのか気にならない訳ではない。魔法使いである彼は、通常の人間とは一日で行って帰ることのできる距離が段違いだ。そのため、予測することも困難で、正解を知るのは本人のみなのだが――、ラナリアはそれ以上の追求はしない。
どこまで踏み込んで良いのか、分からないから。
「とりあえず、すぐにお風呂を沸かしますね!」
「ああ」
「って、あ!」
小走りでリビングの方へ戻ろうとしたとき、ラナリアはエマを放置していることを思い出す。だが、部屋を覗き込んだときには、彼女は既に立ち上がって帰る準備をしていた。
「あたしはそろそろ帰るよ、導師様が風邪ひいちゃ困るだろう?」
「ご、ごめんなさい、エマさん!」
話は聞こえていたらしい。ラナリアは追い立てているような気がして恐縮するが、彼女はとりたてて気にしているふうではない。
「いいの、いいの。そろそろ夕飯の準備とかやりに帰らなくちゃいけないし」
「今度はゆっくりしていってくださいね……?」
しょんぼりしながらそう言うと、何故かぷっと吹き出したエマにラナリアは頭を些か乱暴に撫でられたのだった。
2022/2/16
2023年短編1-5
「ふぅ〜……」
夕刻。
ラナリアは、一人で使うには些か大きな湯船に肩まで浸かっていた。
普段の風呂の時間よりは少し早く、風呂場の窓からは夕焼けの橙色がまだ見えている。
「……なんか、いつもよりもお湯がやわらかいような」
そこまで言ったところで、今日だけは自分よりも前に別の使用者がいたことを思い出して、頬を赤らめる。
「そうだったわ……。今日は旦那様も使ったのよね……」
いつもは面倒なのか、時間の無駄だと思っているのか、風呂場を使わずに魔法で身体を綺麗にしてしまう彼は、雨に濡れた今日ばかりは湯に浸かったらしい。
そういえば、風呂場に足を踏み入れた時も、いつものような冷たさを感じなかった。それもやはり、彼が先程までここにいたということで――
「…………」
ラナリアは恥ずかしさのあまり、湯にぶくぶくと口元まで沈んでから、「これも旦那様が使った後のもの!!」と、ザバッと顔を上げた。
それから今度は膝を抱えて、口をへの字に曲げた。
「なーんて……、旦那様の方は気にも留めてないんだろうなぁ……」
自分一人盛り上がっているという現実を思い出し、はぁと溜息をつく。
ラナリアは彼のことが好きだ。
命の恩人である、というきっかけはあったが、この家に転がり込んでからの一年間で、一見素っ気ない中に見える些細な優しさに気付いてから、もう気持ちを止められなくなった。
「そろそろ、一年、か……」
あの日もこんな少し肌寒い、夕焼けの綺麗な日だったとラナリアは目を閉じた。
2023/02/18
2023年短編1-6
魔法使いとのぎこちない共同生活がはじまってから一年程が経った頃のことだ。
胸にぽっかりと空いた穴を埋めるように、細々と自分と命の恩人である彼の身の回りの世話をはじめていた。
だが、ふと消えた過去を思い返しては溜息をつき、夜一人になっては頬が涙に濡れる――、そんな日々だった。
「これを飲んでみてくれ」
そう言って魔法使いが渡してきたのは、細長いガラス管に入った――とても飲めるものとは思えないような目の覚める水色をした光る液体だった。
「こ、これは……?」
「お前の呪いを緩和する薬……の、試作品だ」
故国が滅んだ時から、ラナリアは謎の黒い手型の触手に追われている。この家にいる限りは守られているが、このままではラナリアは二度とこの家の敷地から出ることはできない。
黒い手――彼によると呪いに分類される悪い魔法だというそれを、彼は解こうとしてくれていた。
とはいえ、その呪いをかけられた瞬間をラナリア自身が覚えておらず、故国も壊滅状態。そんな中でその呪いの種類を特定し対抗策を見つけるのに、かなり時間がかかったのだそうだ。
そんな経緯で作られた初めて薬。
ラナリアに出来ることは、精一杯感謝して目の前のこれを飲み干すこと――なのだが、どうにも受け取る気にならない。
「……あの、本当に……飲める、もの、なんですよね?」
おそるおそる尋ねると、彼は眉根を寄せた。
はじめは怒っているのかに思えたその表情も、一年も傍で暮らした今となっては、言葉に困っているのだと分かっている。だから、彼の中で言うべき言葉が定まるまで、ラナリアは大人しく待つ。
「――不安なら、先に私が飲もう」
「あ……」
言うが早いか、彼はそのガラス管を自身の口元へ持っていき一口飲み下す。
こくりと喉が動くのを見届ける。
飲んで害があるとは思っていなかったものの、飲み込んだ彼の様子をじっと窺う。
しばし見ていても特に何の変化も無い。そのことに安堵して、ラナリアはガラス管に手を伸ばそうとした。
「大丈夫そうで――」
言葉が途切れる。
ラナリアはぽかんと口を開けたまま、目の前の光景を凝視していた。
彼の髪が根本から変色していく。
それだけなら驚きはすれど、唖然とはしなかったかもしれない。
「――っぷ」
思わず吹き出してしまう。
何故なら、彼の髪は薬と同じ水色に変わり――時間を追うごとに発光しはじめたからだった。
「ふふ……、あはははは!」
仏頂面と水色の髪があまりにも似合わず、どんどん光っていく様が驚くほど面白くて、ラナリアは涙が出るほど笑っていた。
「あはは……、ご、ごめんなさい、笑ったりして……、ふふふ……」
目尻に滲んだ涙を拭う。
どうにか笑いの発作を鎮めた頃、ようやく彼が何も言葉を発していないことに気が付いた。
さすがに気分を害してしまったかと焦り、かれの表情を窺う。
「――……っ」
だがそこにあったのは、想像していたような怒りや不満の顔ではなく――、美しい微笑だった。
はじめてみるその表情に息を飲む。
「ここへ来てから、はじめて笑ったな」
「あ……」
言われてから、自分もまた「はじめて」笑っていたのだと気付いて、頬を押さえた。
押さえた頬がどんどん熱くなっていくのを感じる。
ああ、わたしはこの人が――
「……すき」
彼が目を見開く。
「あなたのことが……すきです」
彼がぽかんとしていたのを見たのは、後にも先にもこの時だけだ。
その後、「あなたのお嫁さんになりたい」と口説き落とし、「好きにしろ」と半ば呆れ気味で返されたのも良い思い出だ。
良い思い出、なのだが――了承をされた後も、ラナリアの生活は特に変わっていない。
ただ呼び名が「魔法使い様」から「旦那様」に変わっただけだ。
キスをしたり、寄り添って過ごしたり――、したくないわけじゃないけれど。
「きっと、旦那様は……わたしのしつこさに根負けしただけだから」
お湯にぶくぶくと口まで沈むと、溜息が大きなあぶくに変わった。
この生活を守りたいなら、きっとこれ以上を望んではいけないのだ。
2023/2/19
2023年短編1-7
「随分と長湯だったな」
つらつらと考え事をした末、茹で蛸になる直前まで湯に浸かっていたラナリアは、ほこほこと真っ赤な顔してリビングへと戻った。
「旦那様……?」
いつもならばもう自室に戻っているのに――と思いかけて、そういえば夕食がまだだったと思いなおす。
「ごはん、もう少し待ってくださいね。今――」
作りますとキッチンの方へ足を向けようとする。
「待て」
だが呼び止める声に振り返ると、すぐ近くに彼が立っている。驚いて目を瞬かせると、彼の手がラナリアの額にぴとりと当てられた。
「あの……?」
「湯あたりしたんじゃないか?」
そういうと、彼の手が急に冷たくなったように感じた。魔法だと直感する。そのひんやりとした冷気が、熱くなっていた身体を冷やしてくれる。
「んん……、気持ちいいです」
「……そうか」
熱に当てられていたせいだったのかふわふわした心地がなくなった頃、彼が手を離した。
「こっちへ」
「……? はい」
いつの間にか取られていた手を引かれるままに、リビングのソファ――彼の隣へ導かれてぽすんと座る。
「気持ち悪いところは」
「もう無いです」
彼はこくりと頷くと、繋がれたままの手に力を込めて言った。
「今日、お前の故郷へ行ってきた」
2023/2/24
2023年短編1-8
「……どうしよう」
ラナリアはぼんやりと泡まみれの皿を見つめながら呟いた。
胸の中で夕食前の出来事を反芻する。
『今日、お前の故郷へ行ってきた』
突然そんなことを言った旦那様は、いつにも増して口が重そうに見えた。
何故、と訊きかけて口を噤む。
自分にかけられた呪いを解くために決まっているからだ。
ラナリアの故国はある日突然滅亡した。唯一の生き残りであるラナリア自身は、その前後の記憶を失っているため実感はないが、彼がそう教えてくれた。
その消えた記憶の期間の後には、もう既に呪いを受けていたことを考えれば、それを解く鍵が
なぜ今更? という疑問は湧いたが。
しかし、珍しく言葉に迷っているらしい旦那様の姿に、ラナリアはじっと彼の言葉の続きを待つ。
『――お前には、二つのうちどちらかを選んでほしい』
『選ぶ、ですか……?』
彼はこくりと頷く。
『一つは、私と共にお前の故郷へ行き呪いを解くこと。もう一つは、私が別の解呪法を探すこと』
それは今までと何が違うのか、とラナリアは目を瞬かせる。その様子で彼も、ラナリアがその二択の意味をよく理解出来ていないと分かったらしく、言葉を続けた。
『前者は、早く解決する代わりに危険が伴う。解呪前に私から離れるようなことがあればただでは済まないだろう。それに――』
彼が少しだけ、哀れみを含んだような視線を向けた。
『記憶を封じるほどの衝撃的な出来事を、思い出させることになる可能性が高い』
『あ……』
愛する故郷が滅びた日の記憶、それが蘇る。それは、とても恐ろしいことのように思えた。
記憶が失われているということは、覚えていては――生きていけない。それほどの衝撃を受けたということだ。
記憶があろうと無かろうと、もうそれらは過去のこと。思い出したからといって、皆が戻ってくるわけではない。
幸せな頃の記憶は、しっかりと胸にある。
ならば、それで良いのではないか。そう思えてしまう。
けれど、それならばもう一つの選択肢は、と思う。
ラナリアが目の前の彼をちらりと見ると、彼も話を続けた。
『もう一つは、短期的には平和な解決法だ。だが――』
『……だが?』
『いつ解呪法が見つかるのか……、見つけられるのか、それが分からない。お前か、それとも私か、どちらかが死ぬ……。その時になってもこのままかも知れない。』
『旦那様、でも……?』
『ああ……』
こちらを選んだ場合、一生この家から出られない覚悟をすべきであること。それと、もしこの家に守りを施している彼に、何か万が一があれば、遠からず呪いに殺されてしまうこと。それらを説明された。
その後は、どこかぼんやりしたまま夕食を済ませ、よく覚えていない。
何かしていた方が良いから、と皿洗いをしているものの、先程から何度か手を滑らせている。奇跡的に一枚も割れていないが。
彼は「よく考えて結論を出すように」と言っていた。
だが、どちらを選べば良いのか、皆目検討もつかなかった。
前者はとかく恐ろしい。消えてしまった記憶が蘇るのは、何か良くないことのように思えて仕方がない。
だからといって、後者を選ぶ気にもなれなかった。この家から一歩でも出れば、あの黒い手に捕まってしまう。その恐怖が一生続くかもしれない。それも嫌だった。
この二年間で彼がどうにか解呪しようとしてくれていたことは分かっていた。
そんな彼が、改めて選択を迫った。
その意味が分からないわけではない。
つまりは、彼の力だけでは、おそらく解呪は不可能だと判断したと言うことだ。
そのことに察しがついている以上、後者を選んだ末に何か方法が見つかる――という可能性は低かった。
「どうしたらいいの……」
キッチンの小窓にふと目をやれば、細い細い三日月がこちらを嘲笑っているように見えた。
2023/2/25
2023年短編1-9
「…………故郷、か」
夜、自室へと戻ったラナリアだったが、思考が頭の中をぐるぐると回り、どうにも寝つけないでいた。
仕方なくベッドから立ち上がると、窓辺に寄ってガラスに手を這わせる。その透明なガラスには、ぼんやりと顔色の悪い女が映っており、それが自分だとなかなか理解ができないほど生気が無いように見えた。
どうして自分はこんな顔をしているのだろう。どうして――。
ラナリアは空いている手で、自分の胸をきゅっと掴む。
「こわい……」
酷く、おそろしかった。
故郷に帰るべきなのは分かっている。呪いを解くためもある。でもそれ以上に、唯一の生き残りとして、現状を受け入れる必要があると、本当は分かっていた。
でも――
「こわいよ……」
目の奥がツンと痛くなって、ぎゅっと目を閉じる。
泣きたくなる。
でも、涙は一筋だって零れない。
故郷を逃げ出してから、ラナリアは泣いたことが――泣けたことがなかった。
――生きてください。必ずですよ、姫様。
その時、ふと懐かしく優しい老人の声が聞こえた気がした。
「おじいさま……」
ぽつりと落とされた自分の声に、あたたかな記憶が蘇る。
長いローブを着た淡いグレーの髪をしたおじいさま。目元に深く刻まれた笑い皺を思い出す。
ラナリアが「おじいさま」と呼んで慕っていた、国抱えの魔導師の老人だった。
「そうだわ……。おじいさまが、旦那様の所へ行け、と……」
そしてその時に彼はラナリアの手をしっかり包み込んで言ったのだ。「生きろ」と。
「どうして忘れていたの……?」
あの時の手のあたたかさ、少しかさついた、でも優しくも力強いあの手を、どうして忘れていたのだろう。
「おじいさま、あなたは――」
ラナリアはクッと顔を上げると踵を返して部屋を出る。そして、向かいにある部屋の扉を叩いた。
「旦那様、起きていらっしゃいますか」
何故か確信があった。彼が自分の答えを待っていてくれてると。
案の定、すぐに部屋の中で気配が動いて、その扉が開いた。
「どうした」
「行きます」
間髪入れずに言ったラナリアに、彼は少し面を食らったような顔をした。だがそれに構うことなく、ラナリアは彼の目をしっかりと見つめて、もう一度言った。
「故郷へ行きます。呪いを解きに。それから――」
脳裏に本当の祖父のように慕っていた老魔導師の姿が映った。
「大切な人たちと、何よりもわたし自身に、向き合うために」
2023/2/26
2023年短編1-10
私の視界に入る範囲から出ないこと――
それが、安全な家の敷地から出る際、旦那様からラナリアに課された唯一の決まり事だった。
「準備はいいか」
静かな声で問うてくる旦那様に、ラナリアは大きく深呼吸をしてから、自分を鼓舞するように拳に力を籠めた。
「――はい」
怖くないと言えば嘘になる。でも――
ラナリアは隣に立つ旦那様を見上げた。はじめてみる旅装姿が新鮮で、それから、いつもと変わらないその涼しい顔がとても頼もしく思える。
「行こう」
自然と差し出された手にドキッとしながら、ラナリアはそろりとその手に自分の手を重ねた。
「少し厳しいかもしれないが……、――耐えろ」
「え……?」
それはこれからラナリアが初めて経験する転移魔法についてだろうか。
だが、問い返す前に視界が真っ白に染まった。
のどかで、美しい街だった。
巨大な大国のような煌びやかさはなくとも、美しい山、空、田畑の風景と素朴な街並みが、国民皆が愛していた国。
もちろん、わたしも。
ラナリアの頭の中には、鮮明にその記憶が残っている。だが――
「え……?」
視界の眩しさが収まり、そろりと目を開ける。
しかし目の前にあったのは、何もない大地。茶色い地面だけがそこにあった。
「……ここは」
旦那様が転移場所を間違えた? そう思いたかった。でも、ラナリアにも本当は分かっていた。ここは、
「お前の故国――が、あった場所だ」
「っ!!」
足元の地面が無くなってしまったかのような感覚に襲われて、へたりこみそうになる。自分の手を握る彼の腕が支えてくれなければ、その場に座り込んで動けなくなっていたかもしれない。
「どうして……?」
ぽつりと零れた言葉は、返答を期待してのものではなかった。それを傍らの彼も分かっていたのだろう。ほんの一瞬、悲しげな視線をこちらに向けた。
「――進めば、いずれ分かるだろう」
再び前を向いた彼は、ラナリアの手を引いた。
それに導かれるように、一歩、一歩とどうにか歩き出す。
足を進めるごとに、少しは冷静さを取り戻せたのか、周囲を観察する余力が出てきた。
どうやらこの茶色の砂地は、どこか一点を中心に円状に広がっているようだった。地平線に近いところまで一面の不毛の地が続いているが、その先の山並みを見れば、たしかに見覚えのあるもので、そう気付いた瞬間に泣きたくなった。
「ラナリア」
そっと落とされた自分の名前に、ぴくりと身体が震えた。
「……大丈夫です」
こんなときにだけ名前を呼んでくれるなんて。
なんてずるい人なのだろう、と思う。
それでも、彼のそんな些細な言動に、たしかに慰められている自分もいるのだ。
彼は大丈夫と答えたラナリアに、ひとつ頷きを返すと、空いている手で前方を指差した。
「あれが何かわかるか?」
よく見れば、その指の先には紫色のドーム状になった何かがある。そして、その透けた紫色の向こうに見えるのは――
「まさか、『城』……?」
そこには、何もない大地の中でぽつねんと、二年前の姿を留めた生家があった。
2023/3/2
2023年短編1-11
紫色のドーム状のそれは、城の敷地を丸々飲み込んだ大きさをしていた。
「これは、何なのですか……?」
紫の半透明をした壁に見えるそれに、ラナリアは触れようとして途中でその手を止めた。
「城を中心に、ここは異空間となっている。その境界がこれだ」
ラナリアはじっとその壁の先を見る。
この先に、消えた記憶と呪い、それらの答えがあるのだろう。
それは、言われずとも分かった。
「怖いか」
ぽつりと落とされた問いに、ラナリアはそれを発した彼を見上げる。
「…………すこし」
嘘だ。本当は、すごく怖い。
だがラナリアは、強がって笑ってみせた。
「――そうか」
静かに答えた彼が、ぎゅっと手を強く握ってくれる。
それだけで、少し泣きたくなった。
「この先はどうなっているんですか?」
「……わからない。私一人では、突破が難しかった」
できなくはなかったが、出られなくなる可能性も考慮して、強硬策をとるのはやめたのだと彼は言った。
「わたしがいれば……違う?」
「おそらく」
彼が頷くのを見て、ラナリアは壁をキッと見つめた。
そして、触れる直前で止めていた手を、その壁に近付ける。
「あっ……」
壁が歪む。まるで水面を手で掻くように、ラナリアの手をその壁は受け入れた。
不安が再燃して、隣の彼を見た。
大丈夫、と安心させるような彼の頷きに、ラナリアはもっと手を伸ばす。
その先には何も感じられない。
確認するには入るしかないのだと分かる。
「旦那様……、」
その先の言葉は声にならず、ラナリアはそれを打ち消すように首を振った。
それから、繋いだ手が離れないようにしっかり力を込めて、足を一歩踏み出した。
*
水面を越えるような感覚がした。
異空間を作り出す、結界を超えたのだと肌で分かる。
ゆっくり目を開く。するとそこには――、もう今は存在しないはずの、懐かしい光景があった。
「なっ……」
神聖な光り輝く森。自分が「魔法使い」と呼ばれるより以前に住んでいた故郷――
ハッとして傍らを見る。
だがそこに、彼女はいない。
息を飲む。
「……私は一体、」
誰を探している――?
若き魔法使いは、無くなったぬくもりを求めるように、その手をきつく握りしめた。
2023/3/6
2023年短編1-12
魔法使いは用心深く森を進んだ。
今自分がいるこの場所が、何がしかの幻影の中にいるのだということはすぐに分かった。
あまりにも記憶通りの光景が続く。
その異様さに気付けないはずがない。
だからこそ、もう少し進めばどこに辿り着くのかもわかる。
「……!」
すぐ隣を銀髪の少年が駆けていった。手には一本の花が握られており、こちらに気付いた様子もなく走り去って行く。
「……ああ、これは…あの日か」
魔法使いは独り言ちる。
この向こうには魔法使いが――隣を駆けて行った少年が住む村がある。
そして――
「っ……」
魔法使いは地面を蹴って、少年、いや過去の自分を追いかけた。
走って、走って――、気が付くとその右手には花が握られている。
「――母さんっ!!」
この花は、寝たきりの母に少しでも外の世界を感じてほしくて、摘んできたものだった。少しでもその綺麗は姿が保たれるようにと、そぉっと持ってきた。だが今は握りしめられてすっかり萎れてしまっていた。
だが、少年はそんなことにも気付かない。
その目に映るのは、目の前の「赤」――燃える村の姿だった。
「あ、ぁ……」
村の入り口で立ち尽くす。
理解できなかった。だって、朝にここを出た時は、みんな、笑って――
「かあさん……」
ふらりと少年が足を踏み出す。
家に、戻らなければ。家に――
だがその少年の手を誰かが掴んだ。ハッとして振り返ると、そこには顔に深い皺の刻まれた老人が神妙な顔で、燃える村を見つめていた、
「遅かったか……」
そうだ。あの時もこの老師はこう言って――、俺はどうして助けてくれなかったと彼を詰った。
そう、これは、私が経験した「過去の記憶」。
少年はゆっくりと老人の方を振り返った。そして、詰るのでも叫ぶのでもなく、まっすぐに彼を見つめ返す。
「師よ――、ラナリアはどこですか」
背後ではいまだに炎が燃え盛っている。その熱さも感じる。
だが、魔法使いはこれが何なのかを、もう知っている。
「……よう、気付いたな」
老人――かつて少年を魔法使いにした老魔導師は、弟子の成長が嬉しいのか目元の皺を更に深くして笑んだ。
その瞬間、ガラスが割れるような音と共に、世界にヒビが入る。そして、その欠片が一つ、また一つと落ちていき、最後には夜空に包まれるような空間だけが残る。
幻影が打ち破られたのだと分かる。だが、目の前にはまだ師が存在していた。
「貴方は……」
「さあ、ゆこうか。姫様をお救いしに」
そういって、彼は光の届かぬような深淵の闇を指差した。
2023/3/10
2023年短編1-13
それなりに、幸せな子供時代だった。
ラナリアはそんな風に自分の幼少期を捉えている。
仕事にかかりきりの父。そんな父に夢中の母。病弱ながらも優秀で、後継者教育に忙しい三つ上の兄。その兄に万が一があった時の控えとして、同じだけの教育を受ける二つ下の弟。
物心ついた時には既に交流のなかった家族を恋しく思うこともなく、ラナリアは彼らのあずかり知らぬところで、のびのびと育った。
もっぱら面倒を見てくれていたのは乳母と、「おじいさま」と呼んで慕っていた老魔導師だった。
本当に、幸せだったのだ。
「……っ、いた」
ラナリアはなんとか身体を起こしながら、寝過ぎた後のように痛む頭を押さえる。
たしか自分は、旦那様と紫色の膜を超えて――、というところまで思い出して、ハッと周囲を見渡す。
そこは良く見慣れた庭園。
二年前までラナリアが住んでいた城が、当時のままの姿でそこにあった。
「――そうだ、旦那様は!?」
慌ててきょろきょろとしてみるが、周囲は異様なほど静まり返っていて、誰一人としていない。
「どうなってるの……」
人もいない代わりに、ラナリアがずっと怖れていたあの「黒い手」も見当たらない。
そのことに少しほっとしながら、ラナリアは立ち上がった。
「旦那様は、どこへ行ったのかしら」
あれだけ離れるな、と念を押していた人が、故意に自分の傍から離れるとは思えない。何かあったのかと、最悪の想像をしそうになって、ラナリアは慌てて首を振った。
「いいえ、ありえないわ……」
それならもう自分はとっくに死んでいるはずだ、と言い聞かせた。
「でも、探しに行かないと」
下手に動いてよいのか少し悩んだが、このままここにいても埒があかない。
ラナリアはきゅっと拳を握って覚悟を決めると、城の建物の方へと向かうことにした。
この場所からならば、少し先に外廊下がある。そこが一番近いはず、と算段をつけながら歩いてゆく。
だがその時、ふっと頭上に暗い影が差した。
「ラナリア」
聞き馴染んだ女の声に、ビクッと身体が跳ねる。
「あ……」
何故か手が震えた。身体も。
どうして? どうして――? だって、このひとは。
「――お母様」
緊張で、訳の分からない恐怖で硬直する身体を無理やり動かして、背後を見る。
そこには、自分そっくりの顔をしながらも、どこか狂気を滲ませる母が立っていた。
2023/03/12
2023年短編1-14
「お母様、いたいっ。……お母様、いやだ離して! お母様っ!」
ラナリアは母に腕を取られ、成す術もないまま引きずられるように歩いていた。
あまりに強い力で握られた腕は、きりきりと痛む。
この先へ行ってはいけない。
頭の中で警鐘がなっている。だが、捕らえられた腕から抜け出すことが出来ない。
嫌だ、行きたくない。だって、この向こうには――
城の一番奥。誰も寄り付かないような場所。そこにある扉。
それを、その先を、ラナリアは知っている。記憶にはない。けれど、全身が訴えていた。
「――おかあさまっ!!」
「着いたわ」
悲痛な叫びも、彼女には届かない。
淡々としたままの母は、目の前にある扉に手をかけた。
「――っ、う……」
扉が開かれた途端に、ラナリアは膝をつきそうになった。
咽かえるような、血の臭いがする。
「お、かあさま……」
吐き気を堪え、母へ呼びかける。だが、彼女は何も感じられない表情でこちらを振り返り、そのままラナリアは部屋の中へ突き飛ばすようにして入れた。
「あっ!」
床に倒れ込む。その瞬間、べしゃりという水っぽい音がした。身体を支えようと地面についたてに、ぬめりのある液体がまとわりつく。
部屋の中にあった蝋燭に火を灯した母が、扉を閉めた。心もとないその火は、母の周囲だけをぼんやりと浮かび上がらせて、それ以外は暗くてよく見えなかった。
それで良かったのだと思う。
自分の手についた液体の正体に察しはついていたが、もう何も考えたくなかった。
ただラナリアは、こちらを睥睨する母をぼんやりと見上げた。
「どうして、こんな……」
「――っ、貴女が悪いのよ!!」
突然母が、金切り声をあげる。
「貴女を産んでから、あの方はわたくしを見てくれなくなった! 老いてゆくばかりのわたくしに、関心を示されなくなったわ! なのに、なのに……」
母が酷い憎悪の目で、ラナリアを見下ろした。
「貴女はどんどん美しくなってゆくっ!! どうして、貴女ばかり……!」
叫んだ母は、ぴたりと言葉を切って、今度はうっそりと笑った。
「だから、わたくしは努力したわ……。若く美しい娘は全てわたくしの養分となった。でも幸せしょう? わたくしの一部となって、王に愛されるのですから」
恋する少女のようなうっとりとした顔でそう言った彼女は、そのままで表情で突然腕を振りかぶった。
バチンッ、と酷い音がして、ラナリアは床に倒れ込んだ。
自分が平手打ちされたのだと気付いたのは、鉄臭い水で全身が濡れたあとだ。
「いっ……」
倒れたラナリアの頭を、母の足が踏みつける。
「貴方なんて産まなければ良かったと、ずっと思っていたわ」
母が酷く優しい声で、まるで愛を囁くかのように言う。
「でもやっと、貴女でも役に立つ日が来たのよ」
「あ……」
踏みつけられた頭が痛い。
けれどそれ以上に、呼吸が出来ないほど、胸が痛かった。
痛い。痛い。いたいよ――。
けれど、これすらも愛おしく思えた。
だって、「本当に」これを聞いた時は、何も感じなかったのだもの。
「――けて」
ほろりと涙が零れる。
「たすけて! 旦那様……!!」
ラナリアは、あの時口に出せなかった助けを願った。
もう記憶の蓋が完全に開いていた。
母は父を振り向かせるために、何人もの若い女性を犠牲にして、若さを保とうとしていた。そしてその百人目――、永遠の若さを保つという「呪い」が完成するための生贄はラナリアだったのだ。
あの時は、もういいと全てを諦めようとした。疲れ切っていたからだ。
でも、今は違う。
今は、あの人と――
「――遅くなった」
その時響いた声に、ラナリアはハッと目を見開いた。
頭の圧迫がフッと消える。全身に纏わりついていた気持ち悪さも、嘘のように消えてしまった。
「……だんなさま」
光の中に、今一番会いたかった人がいた。
2023/03/13
2023年短編1-15
「さっきのは、なんだったんですか……?」
旦那様に抱き起されたラナリアは、ぼんやりと彼の顔を見上げながらそう訊ねた。
「お前を絡めとる過去の記憶だ」
「……はは、やっぱり」
ラナリアは両手で顔を覆って、大きな溜息をついた。
過去の記憶。おそらく、ラナリアの呪いを解くのを阻むもの。なら、その記憶を思い出した今、感傷に流されるよりもやるべきことがあった。
ラナリアは顔から手を外して、起き上がった。
「じゃあ、旦那様。あなたの後ろにおじいさまがいるのも、記憶が作り出したんですか?」
二年前、最後に見た姿のままの老魔導師に視線を向けつつ、ラナリアはこてんと首を傾げれた。
「ああ、いや……あれは……」
珍しく言い淀んだ彼は、後ろを振り返る。
「まだいたんですか」
「随分な言い方じゃの」
眉間に皺を寄せた老魔導師だったが、やれやれと肩を竦めるとラナリアの傍へ歩いて来て膝をついた。彼がラナリアの手を包み込む。
「お久しゅうございます、姫様。よくぞ生き延びられましたな」
「……おじいさまのおかげだわ」
二年前、母によって殺されそうになっていたラナリアは、寸でのところでこの老魔導師に助けられた。だが、ラナリアの犠牲で完成するはずだった術が、不完全な状態で発動してしまい、それは国を丸ごと吹き飛ばす結果となってしまった。
ラナリアが今こうして生きているのは、彼がラナリアを国内から魔法で転移させてくれたから。
被害を抑えてみせると、国に残ったこの老魔導師がどうなったのか、など考えるまでもない。
「もう、生きてはおられないのね」
己の手を包む皺の入った手は、とてもあたたかい。
だが、二年前と寸分変わらぬその姿が、彼のその後を物語っていた。
老魔導師は少し寂しさの混じる微笑を浮かべる。
「最期のお約束を違えてしまったのは心残りですが、姫様のお元気な姿がみれたことを誇りに思っていますよ」
最期の約束――被害を抑えてみせると、力強く微笑んだ姿が思い出された。
ラナリアはゆっくりと首を横に振る。
「いいの。貴方はよくやってくれました。それに――、母の過ちは娘が正さねば。そうでしょう、おじいさま?」
肩にぽんとあたたかい手の感触を感じた。
そっと仰ぎ見れば旦那様と目が合う。
ラナリアは彼と頷き合って、その場から立ち上がった。
2023/03/14
2023年短編1-16
「さて、姫様。私はここでお別れといたしましょう」
暗い星空の中をラナリアたちがしばらく歩いた後、老魔導師が唐突に言った。
彼は何の言語とも取れない呪文を唱え、スッと掲げた人差し指でくるりと円を描く。その指の軌跡を辿るように空間が歪んでいく。星空の黒は紫へ、その紫は白へ、と歪みに沿って渦巻くように色がなくなってゆき、光の穴が出現する。
「この先は幻影の外に繋がっています。そこでご決着をつけられませ」
「……おじいさまは」
やわらかな微笑を浮かべる老魔導師は、ゆるく首を振った。
「私は既に肉体を持たぬ身です。そちらまではご一緒できないこと、ご理解ください」
ラナリアは手をぎゅっと胸の前で握り合わせた。
「――もう、置いて行きたくないのに」
ぽそりと呟くと、老魔導師が軽く目を瞠る。
「ラナリア」
それまで黙っていた旦那様の声に、ラナリアは顔を上げた。
「お前が呪いを解けば、この空間に閉じ込められた者たちは解放される」
「それは、おじいさまも……?」
旦那様が頷く。確認するように老魔導師を見やれば、彼もまた首を縦に振った。
「……わかりました」
ラナリアはたっと地面を蹴って、老魔導師に抱きついた。
「いままで、たくさんたくさん、ありがとうございました」
彼が背中を優しく撫でてくれる。
そういえば幼い頃は、いつもこんな風に甘えていたと思い出す。
その優しい思い出と、抑えきれない切なさに、ラナリアはほろりと涙を零した。
2023/3/15
2023年短編1-17
光の通り道を抜ける。
一瞬だけ真っ白に染まった視界はすぐに戻ってきて、ラナリアは城の中庭にいることに気付く。
はじめに紫の膜を通った時と同じ景色。
だが違うのは、すぐ隣に旦那様がいることだ。
今度こそ逸れないようにと繋がれた手は、力強く握られている。
「旦那様、ここは……」
「もう幻影の外だ」
紫の膜を超えてすぐ、ラナリアも彼もこの空間が占める魔法に捕まって、ほんの一瞬の間に夢を見ていたような状態だったのだという。
「これからどうするんですか?」
「……お前が殺されそうになった場所へ行く」
こちらを伺うような視線を感じて、ラナリアは大丈夫だと頷いた。
二年前、母に連れて行かれたあの場所が、全てのはじまりの場所。決着をつけるなら、当然向き合わねばならない。
「ラナリア」
名を呼ばれて、ラナリアは目を瞬かせる。
「我々は幻影から抜け出せたが、まだ術中にいる。決して気を抜くな」
「は、はい」
ラナリアが頷くのを確認すると、彼は繋いでいた手を引いて歩き出した。
一歩、足を進めるごとに気分が悪くなっていく気がした。
あの時の母の声が反芻される。何度も何度も。
「……ラナリア」
「大丈夫です」
そっと話しかけてきた隣を歩く旦那様に、ラナリアは気丈な風をして笑い返す。
だが、酷く足が重い。
でもやらなくちゃ。全て終わらせて、おじいさまを助けるの。そうしたら、きっと幸せに――
――本当にそうかしら。
耳元で聞こえた声に、ぴくりと身体が震えた。
母の声のような、自分の声のような、誰のものでもないような。そんな不気味な声がする。
――本当にこの先へ進めば、幸せになれるとでも?
そうよ。わたしは幸せになれる。
――どうして? 呪いが解けたら、独りぼっちになってしまうのに。
ラナリアは思わず足を止めた。ドクドクと心臓が嫌な音を立てる。
この先を聞きたくない。
そう思うのに、声は黙ってはくれない。
――だってそうでしょう? 旦那様はあなたが外に出たら死んでしまうから傍においてくれているだけ。でも、そうではなくなったら?
わたしはもう、あそこにはいられない。
ラナリアは彼の手をぱっと振り払って、一歩後ずさった。
振り返った彼の顔を見上げる。
この人に捨てられたら、わたしはどこへ行けばいい。
故郷もない。家族もいない。この世界に独りぼっちのわたしは――
その時、ズズッと何かを引き摺るような音が足元から響いた。
そして次の瞬間には、ラナリアの周囲を囲むように黒い壁――いや、無数の黒い手が地面から生えてきていた。
「っ――!」
一瞬、怖いと思った。
けれど、心のどこか冷静な部分が言う。
――捕まったとして、何を失うものがあるの?
「あぁ……」
どうして、あんなにも必死に逃げていたのか分からなくなった。
どうして、消えることを怖いと思ったのか。
どうして、
身体を無数の触手が絡みついて覆ってゆく。足を、胸を、首を、と伝って、黒に覆われてゆく。
彼と最前まで繋いでいた手だけが白く浮くように見える。だがそれも、もう片目でしか確認できない。
でも、もう何も感じない。
感じないことに安堵する。
やっと休むことができる。やっと、この疲れきった世界から解放される。
ラナリアはゆっくりと世界を閉ざすように、瞼をおろしていった。
2023/3/16
2023年短編1-18
はじめは穏やかな日々に訪れた、一時的な闖入者だと思っていた。
それが、「いて当たり前」の存在になったのは、一体いつからだったのだろう。
立ち止まり、手を離した彼女に気付いて振り返った時には、すでにその身体は大半を呪いの手に絡めとられていた。
何故こんな急に、と疑問が湧くが、今はそれを考えている場合ではなかった。早く彼女を呪いから引き離さなければ。
しかし――
「あぁ……」
彼女は息をもらした。いけない、と反射的に思った。呪いが活気づくのが肌でわかる。
吐息のようなそれは、絶望するような諦念が生み出した最期の――
「――ラナリアッ!」
そんなことはさせない。
もう、なす術なく立ち尽くす子供ではないのだ。
呪いに侵食されんとしていた彼女の手を掴む。酷く冷たい手は、まるで生を拒んでいるかに思える。
それでも。
「……諦めるな。戻ってきてくれ。もう私は……、君のいない日常など、思い出せないのだから」
呪いを解く。
もうそれしかない。
魔法使い――大切な人を救いたい一人の男は、目を閉じて魔法を発動した。
2023/3/18
2023年短編1-19
ラナリア、と旦那様の声が聞こえた。
そんなに必死な声を初めて聞いたと、ぼんやり思う。
――そんなの、自分の患者が死にかけてるの。必死にもなるわ。
そう。そうよね。
聞こえる声に、ラナリアは頷く。
彼にしてみれば、自分に縋ってきた憐れな少女を保護した――、そんなところ。きっと今、こうして親身になってくれるのだって、責任感のようなもの。
でも……。
その時、呪いから取り残された右手が、ほぅとあたたかくなる。
でも、これまでくれたあの人の優しさが、全て嘘だなんて思えないの。
わたしの抱く「好き」と、同じものじゃなかったかもしれないけれど、それでも。
《諦めるな》
その時、今までと違う声が聞こえた。
……旦那様?
《戻ってきてくれ。もう私は、君のいない日常など思い出せないのだから》
その言葉に、ラナリアはハッとする。そして、思い出した。彼が「我々はまだ術中にいる」と警告したこと。そして、ラナリアを絶望に落とそうとしているこの声は、その呪いが生み出したものだと。
抜け出さなければ。
そう思って目を開いても、辺りは真っ暗で何も見えない。
けれど、もう怖くはなかった。
このあたたかさは、きっと旦那様だ。
右手に感じるぬくもりに集中すれば、何も心配することはない。
だって、わたしの旦那様は、すごい魔法使いなの。
ラナリアはそのぬくもりを今度こそ離してしまわないように握り返した。
《ラナリア……》
はい、旦那様。
《お前と繋がり、この呪いを解く。だから私の名を呼んでくれ。私の名は――》
「――セリオン」
その瞬間、ラナリアは眩い光に包まれた。
2023/3/19
2023年短編1-20(終)
「――というわけで、外に出られるようになりました!」
「おお! やったねぇ!」
ラナリアが事の顛末を語ると、それを聞いていたエマが拍手をした後ラナリアの頭をわしゃわしゃと撫でる。
あたたかい彼女の手に、ラナリアはようやく帰ってこれたのだと実感しながら、その跡のことを思い起こし苦笑する。
旦那様の名前を呼び、光に包まれた後。そのまま綺麗に呪いが消えてしまえば良かったのだが――、実際のところそうではなかった。
人の命を使ったおぞましく強力な呪いは、大元をどうにか出来た後も残滓が無数に残っていた。
結果、ラナリアめがけて集まってくる残滓である黒い触手を、旦那様が三日三晩かけてちぎっては投げ、ちぎっては投げ――、と解呪する羽目になったのだ。
荒野の真ん中で。
そういったわけで、全てを終わらせた後も彼が魔力の枯渇で倒れ、どうにか近くの町へ辿り着いた後は一週間ほど目覚めず――、とラナリアは気が気でない日々を過ごしたのだった。
そういった諸々が片付き、ここまで戻ってきたのが昨夜のことだ。
「……でもそうかい。やっと問題事が片付いたなら――、ようやく夫婦として落ち着けるね」
「そ、そうでしょうか……」
エマのからかい混じりの笑顔に、ラナリアはぽっと赤らんだ頬を押さえた。
たしかに彼女の言う通り、二人の間に絡んでいた問題はなくなった。呪いがなくなりすっきりした頭で考えれば、彼が――自分のことを憎からず思ってくれている、ということも、もう分かっていた。
ならそろそろ、と願うくらいはいいのではないか。
ラナリアはもじもじとしながら、エマを見る。
「じ、じゃあ……。エマさんみたいに、たくさん子供もほしいです……」
過去を顧みて、ラナリアには思ったことがある。
自分が受けられなかった分の愛情を、子供にいっぱい味わわせてあげたい、と。
「まあ……、その辺りは旦那と相談だね」
「そうですよね。お願いしに行かなきゃ駄目ですもんね」
「ん……? あー、まあ、そうだね」
「あ、それか種を買いに行く方が先でしょうか?」
エマが飲んでいた茶を吹きだした。
「だ、大丈夫ですか!?」
「いや……、え、……え?」
信じられないものを見るような顔をしているエマに、ラナリアは意味が分からず首を傾げる。
その時、間が良いのか悪いのか、銀髪の魔法使いが廊下を通りがかる。
「あ、旦那様」
彼はラナリアに小さく頷いた後、未だ呆然としているエマに目を留めた。
「――……なんだ」
エマは彼の顔付近を彷徨っていた視線を、ゆっくりと下げていき下半身――股間の付近でそれを止めた。
「導師様……、あんた……、種無――」
「は?」
彼はゾッとするような絶対零度の視線で、エマを見下ろす。
「……『たね』?」
一方のラナリアはというと、二人のやりとりの意味が分からず、はてと首を傾げていた。それを見たエマが、ハッとして立ち上がると、ラナリアの傍まで近寄って肩に手を置いてきた。
「ねぇ、子供がどうやって生まれるのか、知ってるよね?」
「……? お母さんのお腹から、ですよね?」
「そこまでの経緯は」
「経緯……?」
あまり交流がなかったとはいえ、弟のいたラナリアは、彼が生まれる直前、母の腹が大きくなっていたことは知っている。
しかし、経緯とは?
何故あらためてそんなことを聞いてくるのだろう、とラナリアはますます首を傾げる。
「とりさんが運んでくる……。それか、葉野菜の中から出てくる、んですよね……?」
そこまで言って、ようやく知識と現実の乖離に気付く。
鳥や野菜が連れてきた子供は、どうやって母の腹の中に入るのだろう、と。
その時、エマが大きな溜息をついて、肩に置いていた手を背中に回す。
「え、エマさん?」
困惑して旦那様の方を見れば、何故か彼まで頭を抱えていた。
「ちょっと、おいで……」
エマは部屋の隅までラナリアを連れて行くと、耳元に口を寄せた。
「子供はね……――」
「――えっ……!?」
それまで知らなかった真実を聞いたラナリアは、頬が真っ赤になっているのを鏡を見ずともわかった。
子供は、鳥が持ってくるのでも、野菜の中にいるのでもない。子供は――
「……ラナリア」
「ぴゃあっ!!」
旦那様の手に跳び上がったラナリアは、脱兎のごとくその場から逃走する。
「……これは、先が長そうだねぇ」
「――……まったく」
後に残された二人は、呆れ半分微笑ましさ半分といった様子で、肩を竦めたのだった。
(完)
2023/3/20