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2022年短編3-1(没)

こちらは、「2022年短編3」の没バージョンです。完結しておりませんので、ご注意ください。

「お兄様、レイモンドお兄様! 一緒にお茶をしましょう!」

 朗らかに笑う少女が、並べられた茶器を前に手招きをする。

 晴れ渡る空、穏やかな風――、そしているだけでその場を明るくする、この世で最も大切な、大切な妹。

「お茶はいいけれど、兄様はちょっとそのお茶が苦手なんだ、アン」

「あら、甘くてとっても美味しいのに――」


 あの子が望むなら、何杯だって飲んであげればよかった。

 レイモンドはぐったりと地面に横たわるアンに手を伸ばした。やわらかな可愛い妹のその手。しかしそこから急速に熱を奪われていっている。

「アン……、だめだ、いかないで……」

 一体どうしてこんなことになっているんだろうと、その手を握りしめる。

 この子はまだたったの八歳なんだ。これからきっといろんなことを学んで、大きく――美しく、成長していくはずの女の子なんだ。

 アンは王都へ向かっていた。レイモンドは寂しいとなく彼女のために、途中まで一緒に送りに来ただけだった。

 それがどうしてこんなことになっているのだろう。

 突然止まった馬車の中から見知らぬ男たちに引きずり出され、気がつけばアンは意識を失っていた。レイモンドも、みぞおちを殴られてすぐに動くことが出来なくなった。

 身体が痛くてたまらなかった。

 そんな中でも、どうか神様と願う。

 僕はどうなってもいいから、どうか妹だけでも助けて――。

 しかし、レイモンド自身も十歳になったばかりの年端もいかぬ子供だ。どうすることもできずに、アンの手を握りしめたまま、レイモンドもまた意識を失った。


2022/06/07

2022年短編3-2-1(没)

こちらは、「2022年短編3」の没バージョンです。完結しておりませんので、ご注意ください。

また当記事は、「2022年短編3-2-2」の修正前のものになっております。

「ああ、聖女様……。ありがとうございます……」

 目の前にいた老女は、目に涙を浮かべながら跪いて祈るように感謝を示した。

「いいえ、わたくしには、これくらいのことしかできませんから」

 きらびやかな薄着を纏う女は、彼女の両手を包むように手を重ねて、にっこりと微笑んだ。

 王都の中心部にある大聖堂、そこには銀糸の髪と澄んだ青い瞳を持つ美しい女、そして彼女の慈悲を待つ大勢の人々がいた。

 彼女は、聖女と呼ばれる救いの象徴だった。

 ただそこにいるだけで世界が浄化されるのだと信じられている彼女たち「聖女」は、神から遣わされたとされ、その証として額に五枚花弁の赤い花の模様が刻まれている。

 これを授かった女たちは、神殿に引き取られ神の御使いとして人々の信仰となる。

 今日は、十日に一度聖女を自らが人々の前に姿を現し、彼らを慰問する日だった。

 会えるだけでもありがたいのだ、と多くの人々がこの場所に詰めかける。先ほどの老女もその一人だ。

 特に今代の聖女であるアンは、その美しい容姿と、深い慈悲を宿した清い心をもって、国中の人々に愛されていた。

「聖女様、そろそろお時間です」

 彼女の後ろにいた護衛の男が、そっと近寄って来てそう言った。

「セイル、まだこんなに人がいるわ。もう少しくらい、いいでしょう?」

 聖女は自身に会うために訪れながら、まだ言葉を交わしていない人々を見ながらそう言った。しかし男――セイルは、きっぱりと首を横に振る。

「そう……。仕方がないわね」

 聖女は名残惜しげに立ち上がって、その場を後にした。

 後ろから聞こえる、聖女が立ち去るの惜しむ声に後ろ髪を引かれるが、出入口の扉を閉めれば、その声も遠いものとなった。

 人々の姿が見えなくなり、もう誰も見ていないと思うと、急に足の力が抜けた。

「あ……」

 足がもつれて転びそうになったのをセイルに抱きとめられる。

「ありがとう、セイル」

 その腕のぬくもりに目を閉じて、息をつく。

「本当は、少し……立っているのがつらかったんだ」

「……構いませんよ、レイモンド。そのために、我々がいるのですから」

 そう言って己の「本当の名前」を呼ぶ彼に、聖女――レイモンドは微笑み返した。

 聖女アンとして人々の前に出ているのは、本物の聖女ではない。聖女でも、女ですらない。本物の彼女と、容姿がよく似ているというだけの別人だった。

「ねぇ、セイル。僕はしっかり、妹の代わりをできているだろうか」

 何度目かわからない問いを男にぶつける。

 これを問いかけると、セイルはいつも無言でレイモンドを抱きしめて、背を撫でてくれる。あえて慰めも気休めも言わない彼の優しさに、レイモンドは縋っている。

 この十年、不安になった時は、いつもこの優しい腕に救われてきたのだ。

 十年前、聖女となったアンが神殿へ向かう途中、何者かに襲われて呪いを受けた。その日から、レイモンドはレイモンドでなくなった。

 偽りの聖女となり、人々をだまし続けている。

 妹はいつまで生き続けて言ってくれるだろうか。そして、自分の嘘はいつ暴かれてしまうのか。そんな不安にずっと晒され続けてきた。

 レイモンドが正しくただのレイモンドでしかなかった頃を知っているこの男がいなければ、きっと耐え続けることはできなかったのではないかと思う。

「……ごめん、もう大丈夫。行こうか」

「そうですね」

 セイルが腕を解き、離れていく。

 それに少し寂しさを覚えながら、レイモンドは再び歩を進めた。


2022/06/18

2022年短編3-2-2(没)

こちらは、「2022年短編3」の没バージョンです。完結しておりませんので、ご注意ください。

 神聖なる大聖堂。そこにひとりの美しい少女がいた。

 薄絹を重ねたシンプルながらも壮麗な裾の長いドレスに身を包み、豊かな銀糸の髪を背に垂らす。その瞳は澄んだ青色に、深い慈悲と聡明さを湛えていた。

「よろしいですか、聖女様」

 傍に控えていた護衛の男が、聖女と呼ばれた少女の前にある扉に手をかけながらそう問いかける。

 聖女は自分の胸に手を当てて、一度深呼吸をする。そして、護衛の青年に頷き返した。

 それを見た青年は、ゆっくりとその扉を開ける。

 その途端に、ワッと歓声が聞こえた。

「聖女様!」

 そこに詰めかけるのは、麗しい聖女の姿を一目見ようと詰めかけた民衆の姿だった。

 聖女は微笑みを浮かべながら片手を上げて、その歓声に応える。それだけで、とてもありがたいものを見たかのように、ほぉと溜息をつくものもあった。

 本当の自分は、そんな存在ではないのに。

 自身が「聖女」と呼ばれるようになって早十年。

 こんな光景ももはや見慣れたものではあったが、図らずとも彼らを(たばか)っているという小さな罪悪感が胸を刺す。

 聖女とは、この国の「救いの象徴」として代々人々から信仰の対象のようなものとして慕われる存在だ。神から直々に選ばれた存在として、その額には五枚花弁の花模様が浮かぶ。そうして選ばれた聖女たちは、神の声を聞くことができるという。

 皆はそれを信じ、十日に一度聖女が大聖堂から姿を現す機会に集まってくるのだ。

「あぁ、聖女様……。なんとありがたいことでしょうか……」

 今自分が立っているところからほんの数段下がったところに、老女が目に涙を浮かべて、聖女を拝むようにして見つめていた。

「今日は遠いところからお越しですか、奥さま?」

 聖女はその老年の女にゆっくりと近寄ってその手を握った。

「えぇ、えぇ……、そうなんです。もう老い先が短いですから、冥土の土産に聖女様のお顔を一度でも見たくて……」

 聖女に手を握られたことでさらに感極まったのか、今度は涙をぽろぽろと零しながら頷いている。

「そうでしたか」

 こう言ってこの場所に来る者は初めてではない。いやむしろ、この王都近郊に住んでいる人々を除けば、こういった理由で聖女に会いに来るものはかなり多かった。

「『冥土の土産』などと言わずに、どうぞ長生きなさってください」

「ああ、聖女様……、ありがとうございます……!」

 聖女は彼女の手を最後にもう一度ぎゅっと握ってその手を離した。

 聖女が現れる入口の周囲に集まった、手の届く範囲の数人に同じように声をかけていく。

 そうして、五人ほどに声をかけ終わった頃、後ろからそっと近付いてきた護衛の青年に声をかけられる。

「聖女様、そろそろお時間です」

「……もう少し駄目かしら? まだこんなに来てくださった方々がいるわ」

 ここに集まった人々一人一人全てに声をかけられるわけではないのはわかっていたが、聖女はまだ声をかけられていない人々を見渡して眉を下げた。

「ご容赦ください」

「…………わかったわ」

 仕方がないと溜息をついて、聖女は人々から一歩距離を取った。

「それでは皆さまに、神の祝福がありますように」

 そう祈りを捧げて、聖女は踵を返した。

 名残惜しげの声を背中に聞きながら、護衛が再び開けてくれた扉の中に入っていく。そして、その扉が完全に閉じられると喧騒は一気に遠くなった。

 もうここには自分と護衛の青年しかいない。

 そう思うと、フッと足の力が抜ける。ぐらりと傾いた身体を青年が支えてくれた。

「ありがとう、セイル……」

 鍛えられた腕に掴まりながら、その胸に顔を伏せてほっと息をつく。

「それに今日は、早めに切り上げてくれただろう? 助かったよ、本当は少し立っているのが辛かったんだ……」

「礼を言う必要ありませんよ。そのために我々がいるのですから。そうでしょう、レイモンド?」

 囁くように耳をくすぐる自分の「本当の名前」に、レイモンドはこくりと頷いた。

 自分は聖女ではない。まして、女ですらなかった。その秘密を共有する数少ない協力者は、嘘で塗り固められた聖女の仮面を脱ぐことを許してくれる。

 女のフリを――偽物の聖女を演じはじめて十年が経った。セイルは長い間の中で見失いかける「自分」を呼び戻してくれる貴重な存在だった。

「ありがとう、もう大丈夫」

 レイモンドはセイルのぬくもりから距離をとった。

「……そうですね、身体の具合が悪いのなら、早くジェインに診てもらった方がいい」

「えぇ、そうします」

 レイモンドは再び聖女の仮面をかぶり直したのだった。


2022/06/19

2022年短編3-3(没)

こちらは、「2022年短編3」の没バージョンです。完結しておりませんので、ご注意ください。

「あら、おかえりなさぁい」

 レイモンドが自室の扉を開けると、侍女のお仕着せを着た女が手を振って出迎えてくれた。

 レイモンドは後ろに伴ったセイルと部屋へと入った。

「ただいま、ジェイン」

 彼女は聖女専属の侍女で、レイモンドの秘密を共有しているうちの一人でもある。

「今日は随分早かったのねぇ」

「そういう君こそ、今日は妹の……アンの往診じゃなかったの?」

「ちゃぁんと終わらせたわ。今帰った、と、こ」

 気だるげな話し方をするジェインは、表向きには侍女なのだが、その本当の役割はレイモンドの妹アン――本物の聖女の専属医である。

「様子はどうだった?」

「そうねぇ、いつも通り。……いつも通り、呼吸もなく鼓動もない。なのに身体はあたたかくて、不思議な力で生かされている」

 十年前。レイモンドとアンの乗る馬車を襲った何者かは、アンに呪いをかけた。その呪いは今も彼女の首元にぐるりと禍々しい印を刻んでいる。

 そしてそれが現れた日から、彼女は目覚めることなく眠り続けているのだ。もっとも、「眠っている」と言っていいのかは疑問の残るところだが。

 先にジェインが言った通り、アンの身体は、呼吸もしておらず心臓も動いていない。にもかかわらず、その肌は生きているかのごとくあたたかさがあり、死体のように腐り落ちることもなかった。

 まるで時を止めているかのようなその身体だが、不思議なことに年相応の成長を続けているのだ。

 素人目に見ても意味のわからない状況だった。

 そんな中で彼女を診る医者として白羽の矢が立ったのが、ジェインだった。

 正確には彼女は「医者」ではない。本来は森に住み、そこでとれる薬草などを使い薬を生成することを生業にしていた。そんな彼女は尊敬の念を込めて「薬師」と呼ばれることもあったが、多くの場合はその得体の知れなさゆえに「魔女」と呼ばれていた。

 彼女自身も「魔女」と呼ばれるのを嫌がってはおらず、むしろ「ミステリアスでいいじゃない」と、その呼び名を自称しているような人物だった。

「それよりも、今はあなたよねぇ、レイモンド」

 ジェインはおもむろにレイモンドの方へ近寄ってくると、その額に手を当てた。

「顔色が良くないわぁ。早く帰ってきたのもそのせいかしら」

「いや、その……」

「その通りです、ジェイン」

 ほんのりと怒気の混じるジェインの声音に視線を逸らすが、それまで黙っていたセイルはにべもなく首肯した。

「セイル!」

 ジェインの笑顔にさらに怒りが上乗せされたのを感じたレイモンドは、慌ててセイルの口を閉じさせようとする。だがその前にジェインはレイモンドの頬をわしっと、両手で挟み込んだ。

「あらぁ……。素人のセイルが気付くような不調を、このわたしに隠そうとするだなんて、いけない子ねぇ、レイモンド」

 ジェインの笑顔が怖い。レイモンドは逃げ出したい気持ちはあったものの、彼女に頬を挟まれて身動きが取れなかった。

「言い訳はあるかしらぁ?」

「…………ごめんなさい」

「素直でよろしい」

 ようやく手を離してくれたジェインは鷹揚に頷く。

「なら、少し待ってなさいねぇ、レイモンド」

 そう言って彼女は続き部屋に消えていった。そこには、彼女が作業をするための道具が取り揃えられている。おそらく薬湯か何かを作りに行ってくれたのだろう。

 ならばこの間に今着ている華美なドレスを脱いでしまおうと思い至る。

「着替えるよ。セイル、少し手伝ってくれ」

「分かりました」

 そう答えた彼は手慣れた様子でレイモンドが纏う装飾をはずしていく。そうして下着姿になれば、鏡の中に歳に似合わぬ未成熟な少年の身体が映った。

 レイモンドは今年で二十歳を迎える。しかしその身体は、到底大人の男のものとはいえなかった。よくで十五、六歳のまだ少年らしさが残る細い身体だった。

「――お薬、やめる気はないの」

 続き部屋から顔を出したジェインが不意にそう訊ねてくる。

 レイモンドは自分の身体を複雑な気持ちで見つめた後、その問いに首を横に振った。

「やめれば、『聖女』はできなくなる」

「……そうね」

 十年前、大切な妹を守ることができなかった。その不甲斐なさで、当時十歳だったレイモンドは瓜二つの容姿をしたアンの身代わりになることを決めた。

 まだ身体に男女差が現れる前の話だ。髪を伸ばして、きらびやかな長い衣を纏えば、「少女」となるのは容易なことだった。

 しかし、一年、二年――と時が経つにつれ、どれだけ服で隠しても「女」のふりをするのは難しくなっていった。

 その時からレイモンドは、ジェインが作った身体の成長を止める薬を飲んでいる。

 セイルに渡された軽い女物の室内着に袖を通し、ソファに身を沈めた。

 それを見計らったように、ジェインが草の香りがする椀を手にこちらへやってきた。

「レイモンド」

「何?」

 静かに名前を呼ばれレイモンドはジェインを振り仰いだ。

「その体調不良は薬のせいだって、わかってるわよね」

 元々、「二、三年ならば」という条件で作られた薬だった。それを超えて服用していることが、どんどんとレイモンドの身体を蝕みはじめていた。

 ここ数年で何度言われたかわからない忠告を聞く。

 それでもレイモンドは、たとえ身体が壊れたとしても、薬を飲むのを止める気はなかった。

「アンが目覚めるまでは、何と言われようと止めることはできない」

「あなたって、なんて頑固なの」

 肩を竦めたジェインが薬湯を渡してくる。

 レイモンドはそれを受け取り、一気に飲み干した。

「苦い……」

「嫌だったら、薬を止めるのね。……言っても聞かないんでしょうけど」

 ジェインの言葉に今度はレイモンドが肩を竦めて、空になった椀を彼女に返した。

「……まぁ、もういいわぁ」

 椀を見つめて俯いていたジェインは溜息をつくと、すっかり普段の調子に戻ってそう言った。

「そんなことより、アンの様子を見てきたらどぉ? 今日はまだ顔を出してないでしょ」

「うん、そうする」

「戻ったら、しっかり寝て休むのよぉ」

 ジェインの指示を背に、レイモンドは一人で部屋を出て行った。


2022/06/21

2022年短編3-4(没)

こちらは、「2022年短編3」の没バージョンです。完結しておりませんので、ご注意ください。

「アン、入るね」

 返答がないのを知りながらレイモンドは、律儀にそう声をかけて薄暗い部屋へと足を踏み入れた。

 聖女としてのレイモンドの居室よりさらに奥、大聖堂の中でも殆ど人の近寄らない区画にその部屋はあった。

 扉を閉めて、さらに鍵もかける。何も知らない人間が勝手に入ってしまわないように、出入りの際以外は施錠しておくのが決まりとなっているためだ。

 扉を閉ざしてしまえば、もともと静かな建物のこと、自分の微かな呼吸を除いて音が消えてしまったように感じた。

「今日もいい子にしてた?」

 もうすぐ十八になる娘に対してかける言葉ではないというのは分かっていたが、レイモンドはそう問いかけながら、彼女の寝ているベッドの傍に置かれた椅子に腰を下ろした。

 首元に浮かぶ禍々しい痣に視線が吸い寄せられる。呪いを受けて以降、彼女の首をぐるりと囲むように痣が浮かんでいる。身じろぎひとつしない妹の、本物の聖女の証である花模様が額に浮かんだ頭を撫でる。

「今日も沢山の人が、おまえに会うために来てくれたよ」

 大聖堂の前に詰めかけていた人々の顔が思い浮かぶ。

 ありがたい、そう言って涙した老女の手のあたたかさを思い出して、胸がきしんだ。冥土の土産だと言って会いに来た彼女が、自身が見たのは焦がれた聖女ではないただ顔が似ているだけという男だと知れば、どんなに落胆するだろうと思った。

 しかしレイモンドは沈む心を無視して、あえて気丈に笑った。

「でもね、体調不良を隠していたからかジェインには怒られたよ。ああ……、これを言うとおまえにも怒られるかな」

 浮かぶのは八つの時の彼女の姿ばかりだ。今の彼女ならレイモンドにどのように言ってくれるのだろうと夢想してみるが、うまく想像ができなかった。

 お兄様、お兄様と後ろをついて回る小さな妹の姿が、今も目に浮かぶようだ。しかし、その幼い彼女を自分は守りきることができなかった。

 自分も幼かった、などというのはただの言い訳だ。あの時、アンが命を奪われなかったのは、大怪我を負いながらも身を挺して彼女をかばったセイルのおかげなのだから。

 アンが聖女となったと知れた時に、都から派遣されてきた、聖女の専属護衛候補が、セイルだった。彼自身も、当時は十三になるかならないかといった年頃だったのに、だ。

 あれ以来レイモンドは、彼への感謝と負い目、嫉妬と羨望、などといった相反する気持ちを抱き続けている。むしろ、聖女の身代わりというだけの男を護らせてしまっている現状を考えれば、「負い目」はさらに増しているかもしれない。

「早く目を覚まして、僕のかわいい妹アン」

 そうすればきっと、全てをあるべき状態に戻せるから。

 アンは国中の人々から愛される聖女に。

 セイルは本当に護るべき人を護る立場に。

 ジェインも、この国中を巻き込んだ詐欺行為に巻き込まれた人々も、あるべき場所に帰れるだろう。

 その時、カチャリと扉の鍵が開く音がした。

 この部屋の鍵を持っているのは、自分とアンの医師であるジェイン、身の回りの世話をする侍女一人、それから――

「ああ、ここにおられましたか、レイモンド」

 偽の聖女を立てるという決断をしたこの男、バルディア枢機卿だ。

「卿……。どうされました?」

「お部屋に伺ったら、ジェイン殿にこちらだと伺ったので」

「何かありました?」

「次の慰問日程が決まりましたので、ご報告に」

 聖女は定期的に国内の様々な所、例えば孤児院や救貧院といったところへ姿を見せ、そこの人々を労うと言う仕事をしている。

 神の御使いである聖女が、そういった困窮している人々のところへ現れることで、神も彼らを見捨ててはいないのだと示す、一種のパフォーマンスだ。

 それでも、先程の老女たちのように、聖女は心の救いになる。神殿の上層部がどう考えていようとも、その事実があるだけでレイモンドにとっては行く価値があるのだ。

「場所は?」

「エメリオの教会です」

「……昨年、水害があった場所…ですね」

 バルディアはこくりと頷いた。

 この王都から南へ二つほど貴族の領地を抜けた先にあるのが、その「エメリオ地区」である。山間にあるその町は王都に流れ込む川の水源がある場所だ。昨年は異常な大雨に見舞われ、川の氾濫や土砂崩れに苛まれた場所でもある。

 今回の慰問は、その災禍に巻き込まれた人々を労うためのものだろう。災害発生から約一年が経ち、落ち着いてきた頃合いを見計らってのことだろう。災害のあった場所にしばらく経ってから聖女が訪れるのは珍しいことではないため、いずれ行くことになるだろうと思っていたレイモンドに、さほど驚きはなかった。

 しかしバルディアの顔は少し曇っている。

「何か心配事ですか?」

「そうですね……。『聖女様』の遠出は、かなり久しぶりですから。何もなければいいなと思いまして」

 聖女と言う唯一無二のため、王都から長く離れる際は細心の注意が払われる。基本的に善良な民人たちにとっては、聖女はただただありがたい存在である。しかし、その「聖女」という存在を邪魔に思っている者も少なからずいるのは事実だ。

 例えば、その地位に娘を押し上げることで政治の中枢に食い込んでいきたい者などが挙げられる。

 現在、レイモンドが聖女の身代わりをできている以上、他の娘が同じことできないはずがない。

 そういった点から、「聖女」というのは、命を狙われる立場でもある。

 レイモンドは眠るアンにふと視線を映し、その頭を撫でた。

「この子も年頃ですからね……」

 ポツリとそう呟くと、バルディアは苦笑を浮かべた。

 その表情を見てレイモンドは、やはりそういう話が出ているのかと察しをつける。

 聖女はほぼ無条件に民から愛されてる存在だと言っても過言ではない。そのため、人々の愛を得るために――、人々に叛意を抱かせないようするために、国王ないし王太子が聖女を妃に迎えることは、今まで何度も行われてきている。

 もちろん、絶対にそうなってきたというわけではないが、アンと王太子の年頃は近く、その可能性を見越してか当の王太子には婚約者すらいないのだ。

 聖女と妃の地位を掠め撮りたい者にとっては、今回の慰問を最大かつ最後の機会と捉えていても不思議ではない。

「お気をつけを、レイモンド。狙われるとしたら、それはあなたなのですから」

 レイモンドは肩を竦めた。

「そんなの、今更でしょう?」

 命を狙われたことなど、今まで一度や二度ではない。

「これがアンに降りかかっているのでなければ、僕はそれで構いませんよ」

 肩代わりもいつまで出来るか、わからないけれど。

「さて、そろそろ行きましょうか。――また来るよ、アン」

 レイモンドはバルディアを伴ってアンの部屋を出た。そのまましばらく歩いていると、前方からセイルの姿が見えた。

「あら、どこかへ行っていたの?」

 てっきりジェインと共に部屋にいるとばかり思っていたレイモンドは、小首を傾げながらそう問いかけた。

「ああ、いえ……、はい」

 歯切れの悪い返答を不思議に思いつつ、レイモンドはバルディアに向き直った。

「では、バルディア卿。わたくしはこの辺りで」

「えぇ、それでは」

 バルディアは軽く頭を下げて、その場を去っていった。

「戻りましょうか、セイル。次の旅程が決まったのは聞きましたか?」

「はい。……その兼ね合いで、衛兵たちと話をして参りました」

 レイモンドは三歩後ろを歩くセイルの姿を横目で見上げた。

 何か隠しているような気がしたのは、気のせいだったのだろうか。

「ジェインとも、打ち合わせをしなければなりませんね」

「はい」

じっと見つめていると、その視線に気付いた彼が目を瞬かせる。

「……何か?」

「いや、なんでも」

 レイモンドはふるりと首を振ったのだった。


「ようこそおいでくださいました、聖女様」

 そう言って頭を下げたのは、エメリオにある一番大きな教会の司祭だった。

「歓迎痛み入ります」

 レイモンドはセイルの手を取って馬車を降りると、長衣の裾を広げて一礼した。

 エメリオへの慰問の話を聞いてから十日余り。聖女の側近であるセイル、ジェインをはじめとした者たちを引き連れて、この地へと辿り着いていた。

 司祭に促され、教会の中へと足を踏み入れる。水害の起こった当時は、この教会の中も避難民たちでごった返していたらしい。だが一年も経てば、表向きは日常を取り戻しているようであった。

「今日のところは、このままお休みください」

 被災者のもとを訪れたり、現場へと赴いたりという予定が組まれているのだが、それは明日からということだろう。

「ご配慮感謝いたします、司祭様」

 そして通されたのは、教会の裏手二階部分にある広々とした客間だった。

「隣部屋に護衛官様と侍女様のお部屋を用意してございます」

 事前の要望通りセイルとジェインにも個室が用意されたことに感謝を述べ、レイモンドは案内の司祭と別れた。

「へぇ、田舎町のわりには、けっこう広い部屋じゃなぁい」

 ジェインは、レイモンドに与えられた部屋を見渡して、機嫌よくそう言った。

「ジェイン、あまりそういうことを大声で言うのは……」

「あらぁ、いいじゃないの。わたしたち以外誰も聞いていないんだしぃ」

 悪びれもなくそう言う彼女にレイモンドはやれやれと肩を竦める。その時ふと、セイルが窓から景色を眺め、ぼんやりとしていることに気が付いた。

「セイル?」

 何かあったのかと、彼が見つめる先を見たものの、レイモンドの目には何も変哲もない街並みと山間の景色にしか見えなかった。

「いえ……、少しだけ懐かしいな、と」

「懐かしい?」

 目を細めて景色を見据える彼は、たしかにどこか郷愁に駆られているようであった。しかし、彼の故郷はこの町ではないはずだ。もっと北方にある、雪深い小さな領地を治める子爵家が生家であったはずだ。

 その町とどこか似ているところがあるのだろうか。レイモンドが不思議なこともあるものだと思っていると、後ろからジェインの明るい声が響いた。

「二人ともぉ? そんなところで黄昏てないで、夕食にしましょうよぉ。厨房借りてくるわぁ」

「あ、うん」

 ひらひらと手を振って部屋を出て行く彼女を、レイモンドはセイルとぼんやり見送る。

「……荷解きをしましょうか」

 そう言って微笑む彼に、先程の滲むような寂しい影は、もう見当たらなかった。


『ありがとうございます、聖女様!』

 川の氾濫で家を失った老夫婦、崖崩れで息子を失った母親、自分を助ける代わりに父親が流されてしまった娘――。

 心に傷を負った人々に声をかけ、励まし、彼らの涙を拭いて、レイモンドの「聖女」としての三日間に及ぶ役目は終わりを告げた。

 日も落ち、あと一晩を過ごせば明くる朝には、王都に向けて帰途につく予定となっていた。

 ジェインは夕食の手配に下階へ。セイルも明日の準備で、部屋にはレイモンドしかいなかった。

 ベッドの上に寝転がり、目を閉じて息をはく。

 大聖堂から出て過ごさねばならない時は、自分の正体がバレてしまわないように、いつも以上に気を使う。その上、今回出会った救いを求める人々は、その殆どが大切な誰かを亡くした者たちだ。

 知らぬうちに、思っていた以上に疲弊していたらしい。閉ざされた視界の中で、とろとろと眠りがやってくる。

 こんな誰がやってくるかもわからないような所で、無防備に寝るわけにはいかない。そう思いながらも、もう仕事もなく、すぐにジェインかセイルが帰ってくるだろうことを考えれば、眠ってしまってもいいような気もした。

 その時、コンコンと扉を叩く音がして、レイモンドは反射的にガバリと身を起こした。

「はい、なんでしょうか」

 返答しながら扉に手をかける。おそらくジェインが戻ってきたのだろう。

 レイモンドは外から返事がないのに気付かないまま、その扉を開けた。

「ジェイン?」

 しかしそこにいたのは、ジェインでも、セイルでもなかった。

 しまった、と思った時にはもう遅かった。扉の外に立っていたフードを目深にかぶった男は、レイモンドが扉を閉める前に部屋へと押し入ってくる。

「誰かっ……、ぅ……」

 そして、助けを求める声を上げるより早く、腕をとられ、口を布で塞がれる。

 妙な臭いがした。

 無理やり成長止めた非力な身体では、腕を振り払うこともできない。

「っ…………」

 足の力が抜ける。だが床に崩れ落ちる前に、男の腕に論法に抱え上げられた。

 ぞわりと背筋が震え、その腕から逃れようとしたが、もう既に指一本動かすことはできなかった。

 そうしているうちに視界までもが、暗くなっていく。

 ここで意識を失ってはいけない。

 その決意も虚しく、レイモンドの意識は闇に閉ざされた。


「ん……」

「よぉ、お目覚めか、聖女サマ?」

 聞き慣れぬ声に、レイモンドはハッとして目を開けた。

 しかし、起き上がろうとした身体は酷い倦怠感でいうことを聞いてくれず、すぐに転がされていた床にまた崩れ落ちた。

 その様に、小馬鹿にしたような笑い声が降ってくる。

 その声がした方向へ、レイモンドは睨むように視線を向けた。

「おぉ、こわ。慈愛の聖女サマも形無しだな」

 大仰に肩を竦めて見せるその男は、鉄格子越しにその姿があった。どうやら自分は牢に閉じ込められているらしい。

「あなたは誰ですか。わたくしを、どうするつもりです?」

 着衣が乱されていないのに、ほっとしながら、だるい身体に鞭を打って見苦しくない程度に身を起こす。

「さて。俺達は指示されたことに従うだけさ」

「指示?」

「そう。アンタを殺せって言う、な」

 男はニヤニヤと笑う。しかしレイモンドが反応を返さないでいると、つまらなさげにフンッと鼻を鳴らした。

 おそらくは、「聖女」が泣いて怯えたり、命乞いをするのを見たかったのだろう。

 だがそんな男の期待に応えてやる筋合いはない。今のレイモンドにとっては、ここからいかに抜け出すかの方が重要だった。

 先程この男は「俺達」と言った。つまりは、仲間は複数いるということだ。たった一人の男相手にも遅れを取ったレイモンドが、その中から独力で逃げ出せる可能性は限りなく低いとみてよいだろう。

 ならば、ここで助けが来るまで時間稼ぎをするほかない。

「殺せという指示ですか。ならばどうして、わたくしは今生きているのでしょうか?」

「ああん?」

「だってそうでしょう? 誘拐などという面倒な手はとらずに、あの場で殺してしまえばよかったのに」

 殺すだけならば、あの時部屋の中で、薬品を嗅がせたりなどせずその場で手にかけばよかったのだ。それをしなかったということは、本当の目的が「殺す」ことではない。もしくは、あの場で死なれては困る事情があったかだ。

「ハッ。アンタには事故死してもらわなきゃ困るんだとよ」

 実にペラペラ喋るものだと内心思いながらも、レイモンドは「純粋の聖女」という仮面が剥がれてしまわないように注意して、首を傾げた。

「事故死……?」

「アンタは『聖女の役目が嫌になって、逃げ出した先で野盗に襲われて死ぬ』のさ」

 なるほどそういう筋書きか。

 レイモンドは困惑したような表情を浮かべつつ、内心は男の言葉を冷静に分析していた。

 この男の雇い主が誰かはわからないが、出発前にバルディアと話したような「聖女を邪魔に思う誰か」が裏にいるのならば、この筋書きは納得がいく。

 聖女が「殺されて」すぐ、自分の息のかかった者が聖女として名乗りを上げたならば、疑われるのは必至だからだ。

「まあ、そんなわけだからな……」

 男がおもむろに立ち上がる。そして、ズボンのポケットから細い鍵を取り出して、それを弄びながらこちらへと近寄ってくる。

「『野盗に襲われた』らしく、してもらわねぇとなぁ」

 下卑た笑みを浮かべながら、男はその鍵を錠前の穴に差し込む。カチリと軽い音がしてあっさりとその扉は開いた。

「あなた、何を……」

 鍵を開けはしたものの、男の表情を見ればレイモンドを逃がす気がないのは明らかだった。薬の影響でまだ身体が動かない。五体満足であればこの隙をついて逃げられたものを、と内心歯噛みする。

 動けないのをわかっているからだろう。男は鍵をかけ直すこともせず、レイモンドの方へとにじり寄ってくる。

「アンタみたいなお綺麗な女が、『野盗に遭って』無事のはずないだろ?」

 それを聞けば、男がこれから何をしようとしているのか思い当たる。それを証明するように、男の粘つくような視線が、レイモンドの下半身から胸にかけて注がれていた。

 もし自分が本当に「女」であったならば、おそらくこれから何の抵抗もできずに、純潔を散らされていたことだろう。

 レイモンドは男の視線から逃れるように俯く。男はそれを怯えと、とったらしく更に嗜虐的に笑う。そしてじりじりと近寄りながら、今度は鍵が入っていた方とは反対のポケットから折りたたみナイフを取り出し、それをパチンと音を立てて開いた。

 そしてこちらが抵抗できないのをいいことに、男はレイモンドの胸ぐらを掴みあげ、その服をナイフで引き裂いた。

 レイモンドは男から顔を背けて、肩を震わせる。

「おいおい、これしきのことで泣いてんのかぁ? これだから箱入りは――」

「……ふ」

「あ?」

「ふふ、っはは、ははははは……――」

「な、てめぇ、何笑ってやがる!」

 レイモンドが涙を流すどころか、堪えきれないほど笑っているのに気付き、男は不機嫌そうに怒鳴って、レイモンドの身体を持ち上げていた手を離した。

 床に叩きつけられて一瞬息が詰まる。だがそれを見破られないように平静を装う。

「――が、泣くだって?」

 レイモンドは顔を上げて男を見据えると、皮肉まじりに口角を上げた。

「そうだね、『聖女様』なら、君の望む反応を返してくれたかもね?」

「な……」

「でもお生憎さま――」

 レイモンドは聖女の証である花模様に、親指を当てて思いっきり擦った。顔料で描かれた偽の模様でしかないそれは、かすれて滲み、擦れた線だけを残して消えてしまう。

「本物の『聖女様』は、ここにはいないよ。今頃もう、安全な場所へ逃げおおせておられることだろう」

 男を馬鹿にするように、わざと挑発的に笑う。さらに腕を動かしたことで、服の破れた箇所が露わになる。

 隠していたものが全て暴かれる。もちろんここにいる「聖女」が男であるということも。

「てめぇ……!」

 目論見通り、男は怒りで顔を赤く染めた。ナイフを持つ手も怒りで握りしめたのか、ギリリと音がする。

 それを見ながらレイモンドは、僕の命運もここまでだろうか、と他人事のように考えていた。

 できれば、ここで「攫われた聖女」として、助けを待ちたかった。

 しかし裸にされては、「聖女」であると言い切るのも、不可能だ。それならば余計な勘ぐりを入れられる前に、自ら己が身代わりであることを告げる。まるで今回限りの身代わりであるかのような印象を持たせる方が得策だと思ったのだ。

 だがそれによって、男が逆上するのも想定の範囲だった。そして逆上した男によって、「聖女でもなんでもないただの男」が、簡単に殺されてしまうだろうことも、分かっていた。

 ここまでか……。

 そう思ったレイモンドは、男がナイフを振り上げるのを見ながらも、抵抗することなく目を閉じた。

 せめて、苦しまずに殺して欲しいものだと願う。

 だが、男のナイフがレイモンドの身体に届く前に、外がにわかに騒がしくなった。

 レイモンドが目を開くと、男は撮り下ろしかけたナイフを止めて背後を振り返っていた。そしてどんどんと、騒ぎ声が大きくなってくる。そして――

「聖女様……!!」

 扉を開け放ち現れたのはセイルだった。

「な、何者だ、てめぇ!?」

 セイルは誰何(すいか)の声に答えることなく、レイモンドを見た。一瞬安堵するように目元が緩んだが、その視線が裂かれた衣服に留まると、一転して視線が鋭くなる。

「貴様……」

 低い声でそう呟いたかと思うと、セイルはあっという間にレイモンドを襲わんとしていた男を制圧したのだった。


2022/06/23

2022年短編3-5(没)

こちらは、「2022年短編3」の没バージョンです。完結しておりませんので、ご注意ください。

「レイモンド、身体も辛くないですか」

「大丈夫」

 十年ぶりに袖を通す男物の衣服に妙な感慨を覚えながら、レイモンドはセイルの体温を背中に感じながら馬上の人となっていた。


 話は遡ること半日前。

 セイルの手によって救出されたレイモンドは、彼と共に誘拐先――ならず者のアジトのような場所から逃げ出した。

 当初はすぐに元いた教会に戻るつもりだったレイモンドだったが、セイル以外の捜索隊がいないことを不審に思い、彼を問いただしたところ、セイルは単独で動いていることが判明した。

 なんでも、レイモンドが誘拐された際に近くにいたらしく、その時発した微かな悲鳴を聞いて部屋に急行したそうだ。しかしその時には、もうそこには誰もおらず、開け放たれた窓から誰かが逃げたことだけが明らかだった。それを見たセイルは、今から追いかければ間に合うかもしれないと、他の誰に知らせることもなくレイモンドたちの後を追ったらしい。

「申し訳ありません、軽率でした」

 セイルに殊勝な表情で謝罪されては、レイモンドも彼の行いを一方的に責めることはできなかった。そもそも、自分は油断して扉を開けなければ、誘拐辞退されていなかったはずなのだから。

「……いい、それよりこれからのことだよ」

「教会にお戻りになるのでは?」

「いや……」

 破かれた服を隠すように、ならず者たちのアジトからくすねてきた外套の前をレイモンドは掻き合わせながら、二人が行方知れずになった教会の現状を思い描いた。

 レイモンドとセイルが姿を消していると気付くのは、一体誰だろう。一番可能性が高いのは――

「ジェイン、かな……」

 レイモンドが「本物の聖女」ではないと知っている彼女なら、この時どう立ち回るだろう。

 レイモンドは白みはじめた空を見上げる。

 時刻は夜明け過ぎ。攫われた時間からもう何時間かが経過している。

「セイル、教会に聖女がまだ『逗留』しているか、確認してきてほしい」

「どういうことですか……?」

 本来の予定ならば、午前のもう少し遅い時間に、教会を出発する予定だった。

 もし、聖女が攫われたことが公になり、総出で捜索しているならば、一刻も早くジェインと連絡を取り、姿を現すべきだろう。

 だが万が一、レイモンドの予想が当たっていれば――

「もし既に聖女が『出発』しているなら、僕たちも別の手順で帰らなければならない」

「は……?」

 そしてレイモンドのその予想は当たっていたのだ。


 長い髪を後ろでまとめ、裕福の家の子息に見えるような格好に装いを改めたレイモンドは、エメリオと王都の間にある、とある貴族の屋敷へ向かっていた。

 傍目には貴族の子息とその従者が、お忍びで出かけているように見えるだろう。

 今のレイモンドは、「聖女」として姿を現すわけにはいかない。そのための処置だった。

 あの時、教会の様子を探ったセイルが戻ってきてこう言った。

『ジェインは、本当に貴方を置いて出発したようです』

 彼は納得がいかなかったのか、不満げな顔をして説明を求めてきた。

 レイモンドが考えていたのはこうだ。

 教会から誰にも知られず二人が姿を消したことを知ったジェインは、きっと聖女が攫われたことを公にはせず、騒ぎが起こることを避けるだろう。

 何故ならいまだ災禍の跡の残るエメリオで、聖女が失踪したとなれば人心が揺れるのは、想像するまでもないことだ。

 もしレイモンドが彼女の立場だったのならば、秘密裏に捜索隊を残しつつ、表面上は聖女が体調不良により先に出発した、とでも説明するだろう。

 彼女は今外に出ている「聖女」がレイモンドだと知っている。つまり、万が一のことがあっても、問題はないのを知っているのだ。

 もちろん、ジェインが簡単にレイモンドを切り捨てるような人物だと思っているわけではないが、これは優先順位の問題である。

 良くも悪くも真っ直ぐなセイルは、その判断に釈然としない顔をしていたが、それを宥めて今こうしている。

「侯爵邸……、レニール枢機卿の邸宅にはいつ頃着きそう?」

 馬を走らせ、日が少し陰ってきた頃、レイモンドは馬を操るセイルにそう問いかけた。

「夜になる前には、着くと思います」

 今向かっているのは、神殿の一番上に立っている三人の枢機卿のうちの一人であるレニール枢機卿の邸宅である。侯爵位を持った貴族でもあり、妻と五人の子供がいるが、その全員が今は王都邸におり、今から向かう領地の方には、管理人と使用人たちしかいないらしい。

 レイモンドが大聖堂に戻るには、そちらから迎えをよこしてもらう必要がある。そのため、神殿関係の人物や馬車が出入りしても不思議ではない場所に、一旦身を寄せることにしたのだ。

「レイモンド……、本当に大丈夫でしょうか」

 頭上から聞こえてきた、心配の滲む声にレイモンドは肩を竦めた。

「大丈夫。堂々としてれば案外、誰も気付かないものだよ」

 十年もの間、大勢の人々騙してきた自分が言うのだから、間違いがないと自嘲する。

 これからレイモンドとセイルは、枢機卿の邸宅で一芝居打つことになっていた。

 レニール枢機卿は、レイモンドがアンの身代わりをしていることを知らない。そのため、「聖女とよく似た容姿の少年」が彼女の代わりに危険な目にあったので、その礼を尽くしたいと言った聖女のため、少年は王都に馳せ参じるところなのだ――、と言う名目で、迎えを待つためにしばし枢機卿の邸宅に身を寄せたいと説明することになった。

 誘拐事件を都合よく利用し、単独で助けに来たセイルのことも、それっぽく説明するような形だ。

 先行して枢機卿邸への先触れと、王都にいる枢機卿本人への説明のため大聖堂の方にも手紙を出している。あちらはジェインがどうにかしてくれるだろう。

 あとはこちらが、いかに本当らしく振る舞うかだけだ。

「レイモンド、見えてきました」

 小高い丘の上、塀に囲まれた邸宅が二人の前に現れていた。


2022/06/24

2022年短編3-6(没)

こちらは、「2022年短編3」の没バージョンです。完結しておりませんので、ご注意ください。

「ようこそおいでくださいました」

 出迎えに現れたのは、壮年の男だった。

 おそらく領地を任されているという管理人だろう。

 男は頭を下げながらも、検分するような視線をレイモンドに向ける。

「そちらが聖女様のお客人ですか?」

「はい、レイモンドと言います」

 探るような視線に気付かないふりをして、あえて平民のようにぺこりと頭を下げると、彼は多少警戒心が和らいだのか、眼光の鋭さは和らぎ代わりにセイルへと目線を移した。

「聖女様の護衛官殿が、わざわざお迎えに行かれるとは驚きました」

「ええ、聖女様も彼に会うのを楽しみにしていらっしゃいます。ですので、ご無礼のないようにお願い致します」

「心得ております。滞在中はこちらの侍女をつけますので、なんなりとお申し付けください」

 男の後ろにいた若い娘が一歩前に出て、頭を下げる。

「ファナと申します」

「……ファナ?」

 彼女の姿を見て声をあげたのはセイルだった。顔を上げたファナも、セイルの顔をじっと見た後、一拍遅れて目を丸くした。

「あら……、あなたセイルね? 懐かしいわ、いつぶりかしら」

「知りあい?」

 レイモンドがそう訊ねると、セイルは何故か少し視線を泳がせた後、頷いた。

「昔の……、古馴染みです」

「えぇ、そうです。こんな年の頃の」

 ファナはそう言いながら、自分の腰の下あたりに手を持ってきて、幼い子供の身長を指し示した。

 それを見ていた管理人の男は、「それはいい」と笑いながら、ファナの肩に手を置いた。

「お二人も馴染みの者がいれば安心でしょう。さあ、ファナ。いつまで客人を立ち話させておくつもりだ? 中にお通ししなさい」

「はい」

 頷いたファナは、「こちらへ」と言って、レイモンドとセイルを促して屋敷の中へと入っていった。


2022/06/25

2022年短編3-1

「お兄さま、それに触っちゃダメ!!」

 幼い妹の叫び声が聞こえた時には、全てが遅かった。

 ああ、なんて迂闊なことをしたのだろう。

 動きの鈍い身体を引きずるように床を這って、倒れたまま動かない妹の手を僕は掴んだ。

「アン……」

 部屋のテーブルの上に置かれていた壮麗な装飾の施された箱は、なにか良くないものだったらしい。

 それに触れようとしていた僕の手を、彼女は叩き落として箱に触れてしまった。

「アン、目を覚まして……」

 きっと僕もその「良くないもの」の影響を受けているのだろう。身体を蝕むような、だるさが襲ってくる。

 意識を保っている僕でさえこうなのだから、妹はこのままでは死んでしまうのではないだろうか。

 ピクリとも動かぬ彼女の手を握りしめる。

 どうか神様、僕はどうなったっていいから、妹だけでも助けて――。

 その願いは届いたのか、それとも届かなかったのか。

 その真偽はわからぬまま、僕は意識を失った。


2022/06/29

2022年短編3-2

 神聖なる大聖堂。そこにひとりの美しい少女がいた。

 薄絹を重ねたシンプルながらも壮麗な裾の長いドレスに身を包み、豊かな銀糸の髪を背に垂らす。その瞳は澄んだ青色に、深い慈悲と聡明さを湛えていた。

「よろしいですか、聖女様」

 傍に控えていた護衛の男が、聖女と呼ばれた少女の前にある扉に手をかけながらそう問いかける。

 聖女は自分の胸に手を当てて、一度深呼吸をする。そして、護衛の青年に頷き返した。

 それを見た青年は、ゆっくりとその扉を開ける。

 その途端に、ワッと歓声が聞こえた。

「聖女様!」

 そこに詰めかけるのは、麗しい聖女の姿を一目見ようと詰めかけた民衆の姿だった。

 聖女は微笑みを浮かべながら片手を上げて、その歓声に応える。それだけで、とてもありがたいものを見たかのように、ほぉと溜息をつくものもあった。

 本当の自分は、そんな存在ではないのに。

 自身が「聖女」と呼ばれるようになって早十年。

 こんな光景ももはや見慣れたものではあったが、図らずとも彼らを(たばか)っているという小さな罪悪感が胸を刺す。

 聖女とは、この国の「救いの象徴」として代々人々から信仰の対象のようなものとして慕われる存在だ。神から直々に選ばれた存在として、その額には五枚花弁の花模様が浮かぶ。そうして選ばれた聖女たちは、神の声を聞くことができるという。

 皆はそれを信じ、十日に一度聖女が大聖堂から姿を現す機会に集まってくるのだ。

「あぁ、聖女様……。なんとありがたいことでしょうか……」

 今自分が立っているところからほんの数段下がったところに、老女が目に涙を浮かべて、聖女を拝むようにして見つめていた。

「今日は遠いところからお越しですか、奥さま?」

 聖女はその老年の女にゆっくりと近寄ってその手を握った。

「えぇ、えぇ……、そうなんです。もう老い先が短いですから、冥土の土産に聖女様のお顔を一度でも見たくて……」

 聖女に手を握られたことでさらに感極まったのか、今度は涙をぽろぽろと零しながら頷いている。

「そうでしたか」

 こう言ってこの場所に来る者は初めてではない。いやむしろ、この王都近郊に住んでいる人々を除けば、こういった理由で聖女に会いに来るものはかなり多かった。

「『冥土の土産』などと言わずに、どうぞ長生きなさってください」

「ああ、聖女様……、ありがとうございます……!」

 聖女は彼女の手を最後にもう一度ぎゅっと握ってその手を離した。

 聖女が現れる入口の周囲に集まった、手の届く範囲の数人に同じように声をかけていく。

 そうして、五人ほどに声をかけ終わった頃、後ろからそっと近付いてきた護衛の青年に声をかけられる。

「聖女様、そろそろお時間です」

「……もう少し駄目かしら? まだこんなに来てくださった方々がいるわ」

 ここに集まった人々一人一人全てに声をかけられるわけではないのはわかっていたが、聖女はまだ声をかけられていない人々を見渡して眉を下げた。

「ご容赦ください」

「…………わかったわ」

 仕方がないと溜息をついて、聖女は人々から一歩距離を取った。

「それでは皆さまに、神の祝福がありますように」

 そう祈りを捧げて、聖女は踵を返した。

 名残惜しげの声を背中に聞きながら、護衛が再び開けてくれた扉の中に入っていく。そして、その扉が完全に閉じられると喧騒は一気に遠くなった。

 もうここには自分と護衛の青年しかいない。

 そう思うと、フッと足の力が抜ける。ぐらりと傾いた身体を青年が支えてくれた。

「ありがとう、セイル……」

 鍛えられた腕に掴まりながら、その胸に顔を伏せてほっと息をつく。

「それに今日は、早めに切り上げてくれただろう? 助かったよ、本当は少し立っているのが辛かったんだ……」

「あまり無理をしないでください」

「……ありがとう」

 やわく微笑んでみせると、セイルはいっそう心配げな顔でレイモンドの額に手を当てた。

「今日は一段と顔色が悪いですね……。やはり一度、別の医師に診てもらっては?」

「そう、だね……」

 事情を知る医師は一人宛がわれているが、彼には原因がわからないと言われている。しかし、一国を巻き込んだ重大な隠し事を持つ身としては、手当たり次第に診てもらうということもできない。

 口が固く、信頼できて、できるならば国や聖女と関わりのない人間――、その中でも腕のいい者を探すのは、中々に難しかった。

「いい人材がいるといいんだけれど」

 レイモンドはセイルの手を取って、自分の足でしっかり立つと、大聖堂の奥に向けて歩き出した。


2022/07/01

2022年短編3-3

「アン、入るね」

 返答がないのを知りながらレイモンドは、律儀にそう声をかけて薄暗い部屋へと足を踏み入れた。

 大聖堂の最奥。人の立ち入りが厳しく制限されたその区画に、愛する妹アンがいる。

 部屋の中には広いベッドが置かれており、その真ん中で彼女は人形のように身を横たえている。

 真っ白な肌に輝く銀色の髪、そして今は閉ざされて見えないが澄んだ青色の瞳をした、レイモンドに瓜二つの少女だ。

 呪いを受けた十年前から、彼女は呼吸も鼓動さえも止めて――、それでありながらも、いまだに命を繋ぎ眠っている。触れればあたたかく、幼い少女だった彼女が今や妙齢の女となっているが、それでも目を覚ましはしないのだ。

「今日もいい子にしてた?」

 ついてきていたセイルが持ってきてくれた椅子に腰を据え、本物の聖女の証である花模様が額に浮かんだアンの頭を撫でる。

 もうすぐ十八になる娘に対してかける言葉ではないというのは分かっていたが、成長する彼女の姿を見てもなお、レイモンドの中では彼女はまだ幼い子供のように感じていた。

 たとえ、見た目の年齢が逆転してしまっていても。

 レイモンドは幼さの残る己の手に苦笑する。今年二十歳を迎えるレイモンドだが、その見目は精々一五、六歳で止まってしまっている。

 聖女を名乗った時、十歳だったレイモンドも時が経てば、服装で身体の変化を隠すのに無理が出てくる。そこで数年前からレイモンドは、協力者の一人であるレニール枢機卿が持ってきた薬を飲むようになった。

 それは「男」の身体になりつつあったレイモンドの成長止め、今もどうにか「聖女」を名乗り続けることを可能としている。

「今日も沢山の人が、おまえに会うために来てくれたよ」

 近いうちに「本当の限界」が来る。

 それに気付かないふりをしながら、レイモンドは日々聖女を演じていた。

 一体いつアンは目を覚ましてくれるのだろう。

 彼女の纏う夜着の隙間から、禍々しい紋様が浮かぶ首元が見える。まるで喉を締めようとするかのように首にぐるりと現れるそれは、呪われた証であり、迂闊だった自分を責めるもののようにも感じた。

 解呪方法も探している。だがそれを見た解呪師たちは、皆一様に「手に負えない」と首を振った。

 何か呪術とは別の大きな力が絡まりあっており、それを解くのは困難なのだという。

 そんなわけのわからない状況に手を出しあぐねている。

「アン……」

 その時、部屋の扉が控えめに叩かれた。

 セイルがすぐさまそちらに近寄って、扉を細く開ける。

「……お入り下さい」

 周囲に人がいないの確認した後、彼は部屋の中に訪ねてきたその誰かを招き入れた。

「バルディア卿?」

「良かった。ここにおられましたか、レイモンド」

 入ってきたのは、白髪の交じり出した金髪を撫で付けた壮年の美丈夫だ。彼――バルディア枢機卿は、聖女を戴く国教、それを取り仕切る司教の一人である。また、聖女の補佐官という名目ながら実質、国の宗教機構を牛耳っている三人の枢機卿の一人でもある。

「何かありましたか?」

 もうあまり呼ぶ者のいなくなった、己の本来の名前を口にされるのを、くすぐったく思いながらレイモンドはバルディアに問いかけた。

「ええ、この間お申し付けいただいたものを」

 そう言って彼は手に持っていた数枚の書類を差し出した。

「ああそうだった。ありがとう、卿」

「それは?」

 受け取ったそれに目を通していると、セイルが不思議そうに訊ねてくる。

 ああそういえば、これを頼んだ時、彼はいなかったかと思い出しつつ、レイモンドは顔を上げた。

「君も言ってたでしょ? 『別の医者に診てもらった方がいい』って。その当てにできそうな人物の一覧だよ」

「そう、ですか……」

 一覧を捲りながら、何度かバルディアに質問しつつ候補を絞り込んでいく。

「――あれ、これは?」

 残りの数人になったところで、最後のページに小さな走り書きのようなものがあることに気が付いた。

「あ、それは――、医師ではないのですが……」

 その走り書きには、女性と思しき名前が記されている。

「『ジェイン』……。姓は?」

 この国の民には全員、姓が存在する。何代か前の聖女が「戸籍」を作り全国民の出生死亡が記録されるようになってから、いかな貧民でもこの国の民である以上はそれを持っている。

 しかし問われたバルディアは渋面をつくる。

「――……わかりません」

「わからない?」

「はい。そもそもその『ジェイン』という名前自体、本名かどうかすらわからないのです」

「……どういうこと?」

 そんなことあるのかと、呆れ交じりに言うとバルディアもますます困った顔をする。

「彼女は王都郊外の森に住む薬師なのです。腕がよく、彼女の薬を求める客は後を絶たないとか。……ですがなにぶん、正体が分かりかねますので」

 本名かどうかも分からない名前、森の中に住むという怪しさ。この名前を見つけた時のバルディアの焦るような困った顔も、得体の知れない人間に「聖女」を近付けられないと思ったがゆえだったのだろう。

 レイモンドはアンの穏やかの寝顔をちらりと見た。

「――彼女にするよ」

「は!?」

 バルディアだけでなく、セイルも驚きの表情を浮かべている。何か言い募りたそうな二人を制して、レイモンドはにっこりと微笑んだ。

「決めたから」

 確かに情報だけみれば、「ジェイン」はとても怪しい。

 しかしその「怪しさ」が、何か現状を変えてくれるのではないかと、期待する気持ちがあったのだ。


2022/07/02

2022年短編3-4

「ふぅ……」

「本当にこんな場所に人が住んでいるんでしょうか……」

 レイモンドのついた溜息にセイルがポツリと零す。

 今レイモンドたちは、鬱蒼と木々の生い茂る森の中にいた。上を見上げても空すら見えない場所だ。道とも言えぬような獣道を辿り、ジェインの住むという家を目指していた。

 木々が行く手を阻むだけで、凶暴な肉食獣などは存在しないこの森だが、女が一人で住んでいるとはにわかには信じがたかった。

 額に滲む汗を拭おうとして、慌てて手を止める。額の聖女の証は多少のことでは落ちない特殊な顔料で描かれているが、乱暴に擦れば当然滲んだり掠れたりしてしまう。なのでレイモンドは、懐から取り出したハンカチで、花模様に当たらないようにポンポンと押さえた。

「大丈夫ですか?」

「うん、心配な――、あっ」

 心配ないと言おうとした矢先に、何かに躓いて転びそうになった。

「っと……」

 しかし上体がぐらついた時には、セイルに強く腕を引かれその胸に収まっていた。

「あ、ありがとう……」

 転びかけたからか、心音が早い。それを早く落ち着けようと、彼の胸に顔を伏せたまま呼吸を整える。

 そうしているとセイルは、レイモンドのその様子を勘違いしたらしく、心配げな顔でこちらを覗き込んできた。

「どうしました? もしかして、足を痛めましたか?」

「違うよ、大丈夫」

 いつまでも彼に縋りついていたのが急に恥ずかしくなり、慌てて首を横に振った。

 それよりも、何に躓いたのだろう。木の根などはなかったように思う。

 レイモンドが、自身が転んだ場所を覗き込もうとした時、セイルが「あ」と声をあげた。

「セイル、どうかした?」

「あれではないですか、『ジェインの家』は」

 そう言って彼が指差す先には、先程歩いていた時にはなかったはずの小さな家があった。

「いつのまに……」

 よく見れば、自分たちは先程とは違う場所にいるようだった。森の中なのは同じだが、家の周囲を中心にその森は明るく開けている。

 それを見てレイモンドは合点がいった。あの躓いた時に、この家を囲んでいる結界か何かを超えることができたのだろう。つまり――

「僕たちは、『魔女』のお眼鏡にかなったみたいだね」

 ジェインは、彼女を慕う人々から、畏怖と尊敬を込めて「森の魔女」と呼ばれているのだそうだ。

 その時、家の扉が開いた。

「あらぁ、いらっしゃい」

 黒く長い髪を背に垂らした彼女は、オリーブ色の瞳を細めてそういった。

「あなたが『ジェイン』?」

「そう呼ぶ人もいるわねぇ」

 どこか掴みどころのない雰囲気の彼女は、ゆったりとこちらに歩み寄ってくる。

「さあこっちへ、眠り姫のお兄様」

 ジェインがそう言った瞬間、レイモンドは思わず後ずさった。セイルも緊張感を漲らせている。

 彼女は確かにレイモンドの方を向いてそう呼びかけた。つまり、彼女はレイモンドが男であることも、その妹がいま動けないでいることも、知っていると言ったに等しい。

 セイルは腰に佩いていた剣の柄に手をかけ、レイモンドの前に一歩出た。

「貴様、何を知っている?」

 彼女の言葉に反応を返してしまった以上、何のことだととぼけるわけにもいかない。セイルの冷たい声は、場合によっては彼女を始末することも辞さないという気迫が見て取れた。

「警戒しないくていいわ。わたしは人よりほんのすこぉし、見えるものが多いというだけだもの」

「誰から何を聞いた」

「あらやだぁ……、話が通じないのねぇ。そっちのお姫様はどうかしら?」

 ジェインに微笑みかけられたレイモンドは、小さく溜息をついて、セイルの腕にそっと触れた。

「セイル」

「しかし……」

 後ろに下がっているように目線で伝えると、彼は渋りながらも一歩下がった。

 それを横目にレイモンドはジェインに向き直る。

「僕は『お姫様』なんですか?」

「だってあなたは『囚われのお姫様』。そうでしょう?」

「……たしかに」

 レイモンドは自嘲を浮かべながら、肩を竦めた。彼女の言うとおり自分は「聖女の地位」に囚われているとも言えるだろう。

「なら、あなたは何ですか?」

「さぁ……? お姫様を救う魔法使い、かしら」

 わたしは魔女だもの。

 そう言ってジェインは片目を瞑った。


 招き入れられた家の中は、小さいながらもやわらかな居心地のよい空間に纏められていた。

 入ってすぐの場所にあるリビングに足を向けたジェインは、セイルの方を見上げる。

「あなたは、ここにいてちょうだいねぇ。それから、お姫様はこっち」

「な……、待て!」

 それだけ言うとさっさと歩いて行こうとする彼女を、セイルが引き止めた。

「私はこの方の護衛だ。一人にはできない」

「もぅ……、随分と頭が固いのねぇ……。そこの部屋でお話しするだけよ」

 ジェインの顔にはうんざりとした表情が浮かんでいる。

「信用できるか」

「信用できないなら、どうしてここに来たっていうのぉ?」

 レイモンドは、二人の間にバチバチと火花のようなものが飛ぶのを幻視した。仕方がないと、溜息混じりに彼らを制止する。

「セイル、僕は大丈夫だから、ここで待っていてほしい。……それじゃあ行きましょう、ジェイン」

「貴方がそう仰るなら……」

「……そうねぇ。行きましょうか、お姫様」

 セイルの視線を受けながら、先程ジェインが指し示した部屋に入ると、ふわりと薬草の香りがした。

「ちょっと狭いから気を付けてねぇ」

 その言葉通り部屋は、作業台らしき机と周囲には壁一面を埋める棚と本棚があった。鉢植えや乱雑に積まれた本のがあり、人の通れる隙間は少なかった。

「ここ、座ってちょうだい」

 作業台の下から引っ張り出した小さな丸椅子を指差して、ジェインはその対面に置いた同じ椅子に腰をかけた。

「あの、どうして彼を遠ざけたのですか?」

「ん〜? 聞かれたくないこともあるかな、って思って。特にあなた…………、名前を聞いていなかったわねぇ」

「……レイモンド、です」

「そう、レイモンド」

 レイモンドは今日も聖女としての格好をしている。一瞬、妹の名前を言うべきかと悩んだが、本名を口にして正解だったらしい。ジェインは満足そうに頷いて微笑んだ。

「さぁ、教えて。今日はわたしに何をして欲しくて、ここまで来たの?」

「……体調不良の原因が知りたくて」

 そう告げると、ジェインはここに来て初めて驚いた顔をした。

「あらぁ、そっちなのねぇ?」

「『そっち』……?」

「それなら答えは簡単だわぁ」

 レイモンドの疑問を無視して、ジェインはそう言った。

「まぁ……。簡単というよりも、本当は自分でも理由が分かってるんでしょう?」

 ジェインの全てを見透かすような視線にドキリとする。

「なんの……」

「誤魔化さなくてもいいわよぉ? 飲んでいるんでしょう、薬」

 ズバリ言い当てられて、レイモンドは息を飲んだ。

 薬と言われて思いつくのは一つしかない。数年前から服用している、成長止める薬のことだ。

 本当はうっすらとその可能性に気付いていた。ただ、自分にはどうしても必要だったため、気付かないふりをしていただけだ。

 ただこれは誰にも――セイルにも、言っていないことだった。先程は「彼に聞かれて困ることなどない」と思っていたが、今はジェインと二人でよかったと思っていた。

 あの薬を手に入れてきたのは、枢機卿の一人であるレニールだ。それが原因で体調を崩していることセイルに言うのは少し――

「やっぱり飲んでいるのねぇ」

「……どうして、分かったのですか」

 レイモンドははっきりと答えたわけではなかったが、彼女の中ではもう決定事項らしい。それならばもう誤魔化しても意味がないと思った。

 しかし不思議なのは、彼女は別に診察も何もしていない。それなのにどうしてと訊ねると、彼女はこともなげに言った。

「あぁ、だって……。あれ、わたしが作ったんだもの」

「え?」

「正確には、レシピを作って渡してあげたんだけどねぇ……」

 触診のためだろう、少し触っていいかという問いに頷いて、レイモンドは服を少しはだけた。

 薬の影響で幼さの残る身体を見て、ジェインは眉根を寄せた。

 そして無言のまま、レイモンドの首筋、胸……と触れていく。

「あなた、何年薬を飲んでいたの」

 問われて、いつからだったかぱっと思い出せず答えに窮すると、、その意味するところがわかったのかジェインは項垂れて首を横に振った。

「もういいわ。覚えてないほど昔なのね。――注意事項は聞かなかった?」

「注意事項?」

 何のことかわからず問い返すと、ジェインは顔を覆ってしまう。

「伝えてないなんて、なんてことかしら……」

 ジェインは顔を覆ったまましばらく嘆いた後、一転して真剣な顔でレイモンドを見た。

「あのね、あの薬は『長期間服用してはいけない』って、最初にちゃんと伝えたはずなの。無理やり身体の成長を止めるのだから、身体に何の影響もないわけがないでしょう?」

 言われてみればその通りだった。必要に迫られて飲みはじめた薬だが、その服用を止めた時どうなるのか――。それを怖いと、はじめて思った。

「まだ飲んでいる?」

「……はい」

「今すぐやめなさい」

 作った本人がこれほど厳しい顔で言うのだから、きっと素直に頷くのが一番なのだということは分かっていた。しかしレイモンドは、それにどうしても同意することができない。

「無理です」

「……どうして?」

「ぼ――、私は『聖女』だからです」

 アンが目覚めるその時まで、その座を守らなければならない。それが彼女を犠牲にして今も生きながらえている自分の贖罪だと信じていた。

「このまま飲み続ければ……、死んでしまうかもしれなくても?」

 レイモンドはジェインの顔を見ていることができなくなって俯いた。それでも問いには、頷く。引くことなんてできないのだ。

「…………わかったわぁ」

 諦めたような困ったようなそんな声に、レイモンドはのろのろと顔を上げる。

「そこまで覚悟を決めた顔をされたんじゃあ、わたしからは何も言えないわぁ」

 代わりに、と言って立ち上がったジェインは、戸棚から薬と思わしき小瓶や薬包を取り出してくる。

「とりあえずこれだけねぇ。対処療法だけれど」

 今起こっている体調不良――体力の低下や胸の苦しさに、多少は効果のあるものなのだろう。それを向こう暫くは保ちそうな分量を包んでくれた。

 これがなくなる頃にまた来たらいいのか。そう思ったレイモンドは、包みを抱えて立ち上がる。

「ねぇ、本当に……根本解決しなくていいのぉ」

 立ち去ろうとしていた背中にジェインの声が追いかけてくる。

「根本と言っても……」

 レイモンドは振り返りながらも、そこで言葉を切る。薬をやめられない以上どうすればいいというのだ。そんな思いを込めて彼女を見つめるか、当のジェインは、素知らぬ顔で近くに落ちていた丸く平たい何かを弄んでいた。

 その表面には鏡がはめ込まれているようだが、その裏面の模様がレイモンドには何故か妙に引っかかった。

 一歩、二歩と戻ってその模様を観察する。

 そしてそれに気付いた時、レイモンドは息を飲んだ。

「それ、どこで……」

「もらい物」

 そう言ってこれみよがしに掲げられたそれを見て確信する。

 その模様はあまりにも似ていたのだ。

 アンと、そしてレイモンドの人生を狂わせた、あの呪いの刻まれた箱の模様に。

「あなたは、それに……詳しい?」

「まぁ、そうねぇ。贈られてきても、死なない程度には」


2022/07/03

2022年短編3-5

「腕、大丈夫か?」

「私はあの女を信用できません」

 ジェインの家を出たレイモンドは、足を止めたセイルの声に振り返る。

「セイル」

「二人になった時、一体何を吹き込まれたのです。聖女の貴方が、口にするものを何の躊躇いもなく受け取るなんて」

「……そういうこと言わないでほしい。彼女を腕のいい薬師だ」

「バルディア卿の調査で名前が挙がったからですか。……私はそもそも、卿自身、信用できないのです」

 セイルが、バルディアをあまり快く思っていないのは薄々感じていたレイモンドだが、それをはっきりと言葉にされたのは初めてだった。

「セイル、滅多なことを言うんじゃない。ここが森の中でなければ――」

「大聖堂に戻ってからでは、お伝えできないので今言っています」

「……っ」

 レイモンドは彼に自分の行動を納得してもらえるだけの言葉を考えつくことができなかった。ジェインを信じようと思った最大の理由は、言ってしまえば勘のようなものだ。

 聖女として沢山の人物を見てきた。「聖女」を敬う者、利用しようとする者、神の代弁者と崇める者、自分の手駒の一つと嘲る者――。

 目を見て、少し言葉を交わせば、相手がどのような気持ちでこちらを見ているのかはなんとなくはわかるようになった。

 そしてジェインは、そのどれでもなかった。

 それが理由だ。

 しかしレイモンドはそれをうまく説明できず、セイルから目を逸らした。

「……何を言われようと、僕は考えを変えるつもりはないよ」

 そう言って歩きだそうとする。だがセイルは、いつもならば不承不承ながらも黙ってついてきてくれるのだが、今回は違った。彼はレイモンドの前へと回り込み、その行く手を阻む。そして腕を掴んで、その足を止めさせた。

「説明をして下さい」

「っ……」

 掴まれた腕が痛い。顔をしかめて見せるが、それでもセイルは手を緩めようとはしなかった。

「さあ、説明を」

「――どうしてそこまで言わなきゃならない」

 腕の痛みが怒りに変わる。

「君の役目は『聖女を護ること』だろう。それとも、僕の行動の意味を問いただすことだったのか?」

 彼の顔を睨むように見上げると、それにたじろぐように腕の力が緩んだ。レイモンドは己の腕をもぎ取るように取り返す。掴まれた手首を、反対の手で撫でる。

 どうして説明したくないのだと、分かってくれない。

 それともやはり彼は――。

「私はただ、貴方が心配で……」

 目を泳がせていたセイルが、言い訳がましい歯切れの悪い言葉を呟く。

 その時、レイモンドの中で何かが切れた気がした。口元には自然と嘲笑が浮かぶ。

「心配? 僕のことを? 嘘は言わなくていい。君が――、いや、君た・ち・が心配なのは、『聖女の身代わり』だろう?」

「何を……」

 困惑するような彼の顔が妙に腹立たしい。

「それとも本当に『僕』のことを心配していたとでも? そんなわけないよね。もしそうなら、何故一度も――」

 君は僕の名前を呼ばないんだ。

 そう言い放ってしまおうと思った時、レイモンドの恨み言を黙って聞いていたセイルの顔を見て口を噤んだ。

 怒りが冷めていく。

 彼があまりにも、傷付いたような顔をしていたからだ。

 出会って十年余り、彼はレイモンドのことを「聖女様」や「貴方」と呼ぶばかりで、名前を呼んだことがないのは事実だった。しかし、わざわざ指摘するのも、今となっては馬鹿げたことのようにも思えた。レイモンドは少しバツの悪さを覚えながら、睨み据えていたセイルから目を逸らした。

「……そんなにジェインのことが信用ならないなら、君の後見人――レニール卿に聞くといい。身元は証明してくれると思うよ」

「それはどういう……」

 もうこれ以上ここで言い争う気にはなれず、レイモンドは何かを言い募ろうとするセイルに背を向けた。

「もう行こう。そろそろ森を歩くのに疲れた」

「――……はい」

 それ以降はどちらも口を開くことなく、森を出て大聖堂まで戻った。


「それでは本日もお疲れ様でした、聖女様」

「えぇ。おやすみなさい、セイル」

 何食わぬ顔をしてレイモンドは自室の扉を閉める。だが、その貼り付けた笑みを浮かべていられるのも、扉越しに聞こえるこの場を去るセイルの足音が聞こえなくなるまでだった。

「はぁ……」

 扉に手をつき項垂れて、大きく溜息をついた。

 ジェインの家からの帰りに、言い争いをして三日。ずっとぎこちない空気が続いていた。聖女と護衛という、一線引かれた関係。そもそもこうあるべきだったと、慰めのようなものを考えてみはするが、そんなものは気休めにもならずレイモンドの心をざわめかせている。

「やっぱり、こちらから謝るべきかな……」

 あの日の言葉に嘘偽りはないか、それでも怒りに任せた八つ当たりのようなものだったというのは、すっかり冷静になった今は理解している。

 ジェインからもらった薬が、驚くほどに効いて、そういった面でも余裕ができたために、一層セイルが心を占める面積が増えていた。

 あんなことを言うべきではなかった。

 あれらの言葉は、「聖女」というものを一種の装置としてしか見ていない輩とセイルを、同一視していると言ったに等しい。

 この十年でジェインが「聖女と関係のないレイモンド」と、言葉を交わしてくれた初めての人だった。それに気付いてしまったから、聖女というものを通してしか己を見ることのない周囲に苛立ちを覚えたのだろう。

 自分自身(レイモンド)を見てほしい。

 そんな気付いたばかりの欲求を、誰よりも身近にいると思っていた男に理解して欲しかったのだ。

「あらぁ、喧嘩してしまったのぉ? 悪いと思ってるなら、謝った方がいいんじゃなぁい?」

「そうだよね…………、――って、え!?」

 突然聞こえた声に慌てて後ろを振り返ると、そこにはソファーに腰掛けてこちらに手を振るジェインの姿があった。

「一体どこから……」

 もう時刻は夜も遅い時間だ。ついさっきまで、そこには誰もいなかったはず。目を丸くしていると、彼女は楽しそうに笑った。

「やだぁ、決まってるじゃない。窓からよぉ」

「決まってるじゃない、って……」

 普通人は窓から出入りはしないと思う。なのにそれを当然のように言われて、レイモンドは呆れと共に肩を落とした。

「それで、どうしてここへ?」

 思えば初めから掴めない人だった。これ以上の追求は無駄かと諦め、訪ねてきた理由を問う。

「もぅ、妹を診てほしい、って言ったのは誰だったかしらぁ?」

「ああ……」

 レイモンドは、あの日の会話を思い出す。呪術が込められた鏡を見せられた後、彼女とそんな約束をしたのだ。

「誰にも知られないように、ってなると……、こうするしかないじゃない?」

「確かにそう言ったけど……」

 レイモンドは、別の要件か違う人物になりすまして訪ねてくると思い込んでいたのだ。

「これの方が安全でしょう? 特に、あなたが怪しんでいる枢機卿様の目をかいくぐるにはねぇ」

「……そうだね」

 彼女のもとに送られてきたあの鏡は、件の成長を止める薬の対価として送られてきたものらしい。

『口封じしようと思ったのねぇ』

 ジェインは鏡を弄びながら、こともなげにそう言った。だがつまり、それはその鏡に人が死ぬような呪術が施されていたということだ。

 その鏡の紋様とよく似た十年前のあの箱。薬を持ってきたレニール枢機卿。

 二つの関係性を疑うには、十分だった。

 そもそも野心の強い男だ。そのくらいのことをしても特に不思議には思わない。しかし、同時にあの男は、セイルの後見人でもあった。彼はあの男を信頼している。だから疑いたくはなかったのだ。

 そしてその疑いを、セイルには告げられなかった。

「さぁ、レイモンド。悠長にしてていいのかしらぁ?」

「――そうだったね、アンのところへ行こう」

 レイモンドは考えるのは後だと頭を振って、部屋を慎重に出て行った。


2022/07/05

2022年短編3-6

 聖女を部屋に送り、一人になったセイルは、意図的ではなく溜息が漏れ出た。

 部屋の近くに与えられた自身の部屋に戻るが、その憂鬱な気分は晴れてくれそうにない。

 三日間のぎこちないやり取り、そして森で聞いた彼からの非難のような厳しい言葉が思い出される。

 自分も知らない間に、あの方のことをあんなにも追い詰めさせていたのだろうか。

 自分の言葉の何が気に触ったのかはよく分からなかったが、それでもあの時の彼が、どこか泣きそうな顔であれらの言葉を口にしていたのだけは分かっていた。

「『一度も』……、その後はなんだったんだろう」

 自分から距離を取った彼に、この三日間ずっと抱いていた疑問だ。聖女の顔を崩さない彼に、今更聞くのは難しかった。

「――失ってから気付く、って本当だったんだな」

 一線を引かれた態度に、どうしようもなく寂しさを感じていた。友人ではない、打ち解けた仲というわけでもきっとないだろう。それでも想像以上に、心を許していたのだと気付かされた。

 彼と話をしなければ。あんな感情的なやりとりではなく、彼が何に対して怒っていたのか理解したいと思った。そして今度は、あの言葉の続きを……。

 その時、遠くで扉の開く音がした。

「聖女様の部屋……?」

 この近くには、人のいる部屋は彼のものと、この自分の部屋しかない。人通りもほぼなく、夜はとても静かなためその音が妙に響いて聞こえたのだ。

 彼がこんな時間に出かけるなんて珍しいことだった。

「……様子を見てこよう」

 どことなく不安になり、セイルは部屋を出た。

 廊下をぐるりと見渡し、そこに人影を見つける。だがそれは探していた人物ではなく――

「レニール枢機卿……?」

「おや、こんな夜更けにどうしましたか、セイル」

「レニール様こそ……。私は、聖女様のお部屋から物音が聞こえたのが気になって」

「物音?」

「はい、おそらくお部屋を出られたのだと思うのです。そちらでは見かけておられませんか?」

 レニールは、顎に手を当てて少し考えた後首を横に振った。

「見ていませんね……。こちらには来ていないと思いますよ」

「そうですか……、ありがとうございます」

 セイルは、彼が来たのとは逆側に視線を奔らせ、そちらへ一歩足を踏み出そうとする。だが、レニールがそれを引き止める。

「お待ちなさい、セイル。随分と急いでいるようですね。何かありましたか?」

「何かあった、というわけではないのですが……」

 その時ふと、森の中で交わした言葉をふと思い出す。

 ――そんなにジェインのことが信用ならないなら、君の後見人――レニール卿に聞くといい。

「あの、レニール様。ジェインという薬師を知っていますか?」

「……その名を何処で?」

 空気が一瞬でピンと張り詰めたのが分かった。レニールは変わらず笑顔だが、その目の奥は笑っていない。

 まずい名前を口にしたのだと理解させられる。

「あ、いえ……。その、腕のいい薬師だと聞いたので、もし御存じなら意見を伺いたく……」

「意見……、どのような?」

「信用に、足るかどうか」

「――なるほどそうでしたか」

 張り詰めた空気が一瞬にして霧散した。理由は分からなかったか、ひとまずほっとする。レニールは腕を組み、少し考え込むような顔で口を開いた。

「たしかに、彼女は腕の良い薬師だと思いますよ。人智を超えた薬を生み出すこともできる。ですがそれゆえに、危険です」

 セイルは息を飲んだ。その様子を目ざとく見つけたレニールは、目を眇めてセイルを見た。

「まさかもう、聖女様に会わせてしまったのですか?」

「……は、はい」

 セイルが頷くと、レニールは難しい顔をした。

「それは良くない。ジェインなる女は、聖女様を利用しようとしている」

「利用……?」

「ええ、そうです。そもそも私はここまで来たのは、聖女様の部屋のバルコニーに人がいるようだと知らせを受けたからのです。部屋の中へ入っていく後ろ姿を見たとのことだったので、聖女様御本人か確かめに来たのですよ」

「――もしその人影が、聖女様でなかったなら……」

 セイルは本物の聖女が眠っている部屋の方角を振り仰いだ。

「レニール様。聖女の眠る部屋へ参りましょう」

「……私もそれが良いと思います」

 セイルは足早に歩きはじめる。その後ろでレニールが、ニヤリと笑っていたことには気が付かなかった。


2022/07/06

2022年短編3-7

 アンの部屋に辿り着いたレイモンドは、小さな燭台に火を灯した。

「暗くて悪いけれど……」

 ここに人がいると気付かれてはならない。そのため夜の今は特に、明かりを取ることが難しかった。

「かまわないわよぉ、呪術に顔色は関係ないもの」

 さっそく、とアンの枕元に寄ったジェインは、その首元にある呪術の痕を見て眉根を寄せた。

「これは……」

「何かわかった?」

「なんていうかぁ……、この子が『聖女』じゃなかったら、たぶん今ごろ死んでたわよ」

「そんなに……、酷いものなの?」

 ジェインは肩を竦めて頷いた。軽い調子で言われた言葉だったが、冗談であるような雰囲気は欠片もない。

 自分があの時あのまま箱に触れていたならば、と考えれば、アンはまさしく己の命を救ってくれたのだと感謝の念が湧く。少しそれと同時に、やはり彼女を犠牲にしてしまったという罪悪感が胸を刺した。

「それで、ジェイン。この呪いは解けるの?」

「正直、かなり難しいわねぇ。この子が救った『聖女の力』が、呪いをより複雑にしているの」

 かつて解呪に失敗してきた者たちが言っていた、「解呪を阻む大きな力」というのが、ジェインの言う「聖女の力」同等のものだろう。

「ほとんど無理、と言っても過言じゃないわ。ただし、わたし以外ならねぇ」

 パチンと片目を瞑るジェインに、レイモンドは俯きかけていた顔を上げた。

「それって……」

「――――っう、く」

「アン!?」

 その時突然、アンが呻き声を上げた。

 十年ぶりの声だった。しかし喜ぶことはできない。ベッドを覗き込めば彼女の表情は苦しみに歪み、脂汗が浮かんでいる。手はギュッとシーツを握りしめていた。

 何かしたのかとジェインを見るが、彼女も困惑の表情を浮かべて、何もしていないと首を振った。

「よくわからないけれど、呪術の力が強まっているみたい。見て、文様が光っているでしょう?」

 ジェインの言葉通り、彼女の指差す先では、アンの首元の痣が赤黒さを増し、うっすらと光を帯びている。

「どうしたら……」

「今すぐ解呪しなければ。鞄を取ってくれる?」

 レイモンドは、ジェインの持参していた鞄を彼女に渡した。その中には何かの器具や、薬草、液体の入った小瓶など、様々なものが詰められていた。

「これとこれ……、それから……」

 ジェインは幾何学模様の描かれた小さな紙をアンの胸元に置いた。その上に薬草の葉を散らす。次に彼女は黄色味を帯びた少し粘性のある液体を取り出し、それをアンの額に塗る。

「それは?」

「聖油よぉ。呪術に絡まった聖女の力を抑えるために使うわ」

「それって、大丈夫なの?」

 アンは聖女の力によって命を繋ぎ止めていると、ジェイン自身が言っていたはずだ。不安になって訊ねると、ジェインは少し困った顔した。

「……本当のことを言うと、少し危ないわねぇ。でも、それをしないと解けないの」

「――わかった、ジェインを信じるよ」

 大丈夫だと安請け合いするよりも、彼女もその返答は信用できる気がした。

 信じるという言葉に安堵したのか、少し表情を緩めたジェインは、頷き返すと表情を引き締めた。

「はじめるわ」

「あの、さ。アンの手を握ってもいい?」

 レイモンドの問いに一瞬ぽかんとしたジェインだったが、ふっと笑って頷いた。

「えぇ、握っていてあげて」

 レイモンドがアンの細い手を包み込む。呪いの影響で苦しいのだろう。握り返してきたその手の力は、痛みを感じるほど強かった。

 ジェインがアンの上に置いた紙に手をかざす。そして、彼女が目を閉じた時、どこからともなくぶわりと風が吹いた。その風はジェインの服をはためかせ、髪を巻き上げる。それからアンにかざした手を中心に、淡い光が灯る。その光はアンの身体全体を包むように広がっていった。

「っ……」

 ジェインの額から汗が滑り落ちる。

「もぅ、すこし……」

 反発するようにアンの首元の痣が赤黒い光を放つ。レイモンドの手を握るアンの力も強まった。

「――ッ」

 アンが苦しげに息をついて、ギュッとレイモンドの手を強く握りしめる。その瞬間、ジェインの手から放たれていた光も、目を開けていられないほど眩しいものとなった。

 その光が治まるのと同じように、アンの手からも力が抜けていく。レイモンドは目をこすってアンの顔を覗き込んだ。

「あ……」

 顔で首元の痣が消えている。そして、アンは何事もなかったかのようなやわらかな表情で、寝息を立てていた。

「ああ、アン……」

 レイモンドはアンの頬に手を滑らせる。

 この子が眠っている。今までのような、生きているのかもわからないような眠りではなく、ただ本当にすやすやと眠っている。握っていた手を手首に移動させれば、脈まで感じられた。

「もうしばらくしたら、目も覚めると思うわぁ」

 ジェインは紙や薬草を片付け、額の聖油を布で拭いながらそう言った。

「ありがとう、ジェイン……。本当に、ありが――」

 彼女には何度お礼を言っても言い足りない。そう思いながら感謝の気持ちを口にしていた時だった。

 それ以上声が出ない。何かが上がってくるような嫌な感じガがした。口元を手で押さえ、アンから顔を背ける。

「レイモンド……!?」

 酷い咳き込み方をした。身体を折り曲げて、その発作が治まるのを待つ。

「――ここにいるのですか!? 今の光は……、――!!」

 その時、部屋へと入ってきたセイルが瞠目する。

 レイモンドは、何をそんなに驚いているのだろうと、彼をぼんやり見上げながら、ふと己の手のひらを見た。

「あ……」

 その手は真っ赤な血で染まっていた。受け止めきれなかった鮮血は、腕と胸や足まで、血に染めている。

「まさか、呪詛返し……!? どうして……」

 レイモンドの傍に膝をついたジェインは、レイモンドの顔を覗き込んで青ざめている。

「――これではっきりしましたな」

 セイルの後ろから現れたレニールが、愉悦と侮蔑の混じった笑みを浮かべながら現れる。

「我らが聖女様を呪ったのは、妹君の地位を奪おうとした貴様であると」

 何か反論しなければ。

 しかし血を失いすぎたのか、視界がぐらぐらして、もう頭がまともに動かない。

「…………けて、」

 レイモンドは重い頭を必死で上げた。そこには、顔色を失ったまま動けないでいるセイルの姿がある。

「セイル……」

「――――、ッ!」

 視界が急に反転して暗くなる。

 レイモンドは意識を失った。


2022/07/07

2022年短編3-8

「あの、レニール様……」

 レニールは後ろをついてきたセイルの弱々しい声に振り返った。

「なんだね、セイル」

 彼の表情は暗い。長年支えてきた「聖女様の裏切り」に、思う所でもあるのだろうかと、その顔を見下ろした。

 当時、十を数えたばかりの子供にそんなことができるわけがないと、少し考えればわかりそうなものなのにと心の中で嘲笑する。

 だが、レニールの言うことを、決して疑わないようにと注意深く育ててきた結果だと思えば、彼のその反応は非常に満足のいくものだった。

 セイルはレニールが己の手駒とするため、幼少期に孤児院から引き取り、自身を崇拝するように育ててきた駒の一つだった。

「聖女様をどうするおつもり、なのですか……」

 ぼそぼそと疑問を口にしたセイルに、嘲るような気持ちを押し隠したまま、いかにも優しげな笑顔を浮かべた。

「おかしなことを聞くのだな? 聖女様はじきにお目覚めになる。これまでと変わらず、お仕えするだけだよ」

 そう、今までとやることは変わらない。

 レニールの本来の計画では十年前の時点で聖女アンを殺害し、その後釜として自身の娘を聖女に押し上げる予定だった。

 だが何故か用意した呪いがうまく働かず、聖女は昏睡状態となった。

 ならばとその兄を懐柔する方向に方針を転換してみたものの、信頼を勝ち得ることはできなかった。

 何のために方々まで手を回して、聖女の護衛に内定させたのかと、一時期はセイルを疎ましく思ったものだった。

 しかし、やっとツキが回ってきたらしい。

「……いえ、レニール様。アン様の、ことではなく」

「ああ、あの聖女を騙り害した男のことかね?」

 セイルは己の計画を殆ど知らない。レニールが野心を強く持っている、ということには気付いているのだろうが、それだけだ。

「そうだな、お前に一つ働いてもらいたい」

 セイルが顔を上げる。

「一体何を……」

「それは――」

 その時、外の廊下を走る足音が聞こえた

「失礼いたします!」

「どうした」

 慌てた表情で部屋を訪ねてきた足音の主は、レニール子飼いの神官だ。

「聖女の兄と薬師が姿を消しました」

「――!?」

 驚いたのか息を呑んだのはセイルだった。

 レニールは、ニィッと笑う。

「これは丁度いい。セイル、お前に仕事を与えよう」

「レニール様、今は――」

 レニールは、彼の言葉を制して懐から短剣を取り出した。その柄には呪術が刻み込まれている。

「これを使って、始末してくるんだ」

「なに、を……」

「言わなくてもわかるだろう?」

 レニールは、その短剣をセイルに押し付けるようにして渡す。

「レイモンド・アーデルハイン――。聖女の兄を、殺してきなさい」

 あの兄妹を亡きものとすれば、後は全て自分の思い通りになるのだから。


「ジェイン、ごめ……、ちょっと、待って……」

 レイモンドはジェインに手を引かれ、王都の路地裏を走っていた。

「もうちょっとだけ、がんばるのよぉ」

 レイモンドが血を吐いて倒れてから半日ほどが経っていた。

 ジェインの手引きで大正堂から抜け出し、彼女の家を目指す。

 あのままあそこにいれば殺されてしまうことは想像に難くない。そのため、結界が張られたジェインの家がある森へと向かうことに決めたのだ。しかし、 元からの体調不良に加え、吐血したせいでさらに体力が奪われていた。ほんの少し走っただけでも、酷く息が上がる。視界もぐらついて、おそらくジェインに手を引かれていなければ、ただ走ることさえもできなかっただろう。

 レイモンドの状態はジェインも理解している。それでも歩みを止められないのは、いつ追っ手がかかるか分からないからだ。

 王都の中心街を外れその外縁部にある森まで辿り着ければ、もうここまで焦る必要はない。そう遠い距離ではないのに、悲鳴をあげる身体にはあまりにも過酷な道のりだった。

 民家がまばらになり、目的の森が近くに見えはじめる。

「レイモンド、もう少しよ」

「…………うん」

 もう少しすればこの苦しさから解放される。

 そう思って必死に足を前へ進める。

 木立をすり抜け森の中に入るが、結界の範囲はもう少し先だ。

 もう少し、もう少し――。

 けれど、その後は――?

「っ、あ!」

 レイモンドは足を縺れさせて、地面に転がった。

「レイモンド!」

 ジェインが傍に膝をついたのを気配で感じる。だが,、顔を上げるのも難しかった。

 あそこから逃げて、何になるのだろう。

 アンを助けることができた。もう身代わりは必要ない。

 ならは、逃げて一体何になるのか。

 ケホと咳き込めば、地面に赤黒い血が散った。

 一度目の吐血は呪詛返し――呪いを解いたことによって、術者にその反動が返るという現象――が、何故かレイモンドに現れたものだった。

 しかしそれは一度きりのものだ。

 ならば今のこれは何だ。

 呪詛返しの影響がまだ残っていたのか、それとも――

 レイモンドは、身体の節々が痛むことに気付く。走ったから、ではない。そんなものでは説明がつかない全身の痛みがあった。

「ジェイン、僕はもう――」

「黙って」

 ジェインは強い口調でレイモンドの言葉を遮った。

 そして、レイモンドの身体の下に腕を差し入れ、その身体を持ち上げようとする。

「ジェイン……」

「しっかり立つの。もう少しなんだから……」

 レイモンドは彼女に体重をかけているのが申し訳なくなって、ふらつく足に力を込めた。それによってジェインはどうにか立ち上がる。

 しかし、一度萎えてしまったレイモンドの足は、なかなか言うことを聞いてくれず、結局ジェインに半ば引きずられるような形で、また足を踏み出す。

「ぜったい、死なせてなんかあげないわ」

 ジェインは決意のこもった声でそう呟いた。


 セイルは森を抜け辿り着いたジェインの家を、睨み据えるように見つめていた。

 辿り着いた――、着いてしまった、と言うべきか。

 懐にしまったあれを、服の上からぎゅっと掴む。

 彼がジェインと逃げたとなれば、どこに行くかなど考えるまでもない。人を寄せ付けない結界が張られているのならば尚更だ。

 しかしセイルは、再びこの地に足を踏み入れられてしまった。二度目からは誰でも入れるのだろうかと訝しむ。

 動く人の気配はない。そのことを確認しながら、セイルはその家へと歩を進める。

「……開いてる」

 扉には鍵がかかっていなかったのか、何の抵抗もなく開いた。中へと足を踏み入れるが、やはり誰もいない。

「……ぅ」

「ッ!?」

 微かな呻き声にセイルは、バッと振り返る。

「あ……」

 そこには、ソファの上で仰向けに寝転がる人影があった。

「…………、」

 酷い顔色をしている。口の端には乾いた血がこびりついていた。

 離れていた時間は一日にも満たない。にもかかわらず、彼はあまりにも変わり果てていると感じた。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 セイルは血のついた頬に手を伸ばしかける。だが、そこに触れる寸前で手を止めた。

 自分にはやらねばならないことがある。

「どうか、お許しを……」

 セイルは、懐に隠し持ったものに手を伸ばした。


2022/07/14

2022年短編3-9

 レイモンドが意識を保っていられたのは、ジェインの家の扉をくぐるまでだった。

 身体が痛くて、痛くて、もう立っていることもできなかったのだ。

 身体の内部から侵食してくる痛み。まるで肉体が作り変えられているような――。

 それに気付いた時、不意に痛みの正体が分かった。

 毎日、朝夕と飲んでいた成長を止める薬。それを最後に飲んでから、一日が経とうとしている。つまり――、レイモンドの身体は、これまで無理に止めていた成長がはじまっているのだろう。

 ジェインの手によってソファへと寝かされたレイモンドは、これからどうなってしまうのだろうと、ぼんやりと思った。

「レイモンド、これを飲んで」

 作業部屋の方へ向かったジェインは、慌ただしく戻ってきて薬の入った瓶を、レイモンドの口元に傾けた。

「……これは?」

「ただの痛み止め……」

 レイモンドが薬を飲みきるのを見届けるとジェインは、休む暇もなく立ち上がった。

 驚くべき早さで効きはじめた痛み止めは、レイモンドの呼吸を楽にしてくれる。

「どこへ、ジェイン……?」

 少しだけ上体を起こして、家を出て行こうとするジェインの姿を目で追った。

「解毒薬を作るための薬草を取ってくるわ。今ある分じゃ作れないから」

「解毒?」

「あなたがずっと飲んでいた薬。その効果を打ち消すの」

 行ってくるわ、と言ったジェインが扉を閉めると、レイモンドは薄暗い部屋の中で一人きりになった。

 痛みはましになったが、体力が消耗していることには変わりない。黙って目を閉じれば、眠気が忍び寄ってくる。

 ジェインは随分と焦っていた。このまま放っておけば命が危ないのだろうと察せられた。

 だが――。

「…………つかれた」

 レイモンドはソファに深く身を沈めて、ぽつりと呟いた。

 もう、いいのではないだろうか。もう頑張らなくていいのでは。

 十年間、張りつめ続けていた糸が切れてしまった気がする。

 もうこのまま眠って、二度と目覚めなければどんなにか楽だろう――。

 その時、キィと扉の開く音が聞こえた。ジェインが戻ってきたのかと思ったが、それにしては静かすぎる。

「――――、」

 入って来た「誰か」は、レイモンドのすぐ傍までやってきて、こちらをじっと見下ろしているような視線を感じた。

 うっすらと目を開く。ぼやけた視界は、なかなか焦点を結んでくれない。だが、そこに立つのが、やはりジェインではないのは分かった。

 …………セイル?

 一瞬そんなことを思うが、ここにいるわけがないと思い直す。

 ――いや……、僕を殺しに来たのなら、ありうるか。

 目の前の男は夢の見せた幻か、それとも現実なのだろうか。

 彼がレイモンドの頬へ手を伸ばすが、触れる寸前でその手を止めた。

「…………、」

 目の前の彼が、夢か幻かなどそんなことはどちらでもよかった。ただ、死ぬ間際に見る夢のようなものなのならば、悪くない夢だと思った。

 ただほんの少しだけ、その手がこれ以上近付いてこないのを残念に感じる。

 これが夢ならば、この十年間を最も近くで見ていたこの男に、「頑張った」とただ一言、褒めて欲しかった。

 しかし、そんな都合のいい夢など存在しなかったのだろう。

 彼が己の懐に手を差し入れるのを見て、レイモンドは微かなの諦念と共に目を閉じた。

 他の誰とも知れぬ相手よりは、自分を殺す相手がこの男でよかったと思う。きっと彼ならば、長くを苦しませることはしないだろう。

 そうしてレイモンドは、襲い来るであろう痛みを待つ。

 しかし、不意にあたたかな手が、レイモンドの頬に触れた。

「――ぅ……?」

 そして、それに驚く間もなく、やわらかな感触がレイモンドの唇を塞いだ。

 目を開ければ、整った男の相貌が目の前にあった。

 ああ、これはやはり夢だ。

 そうでなければ、この男が自分に口付けをするわけがない。

 彼とはそんな関係ではなかった。だが、不思議と嫌ではない。レイモンドは、大人しく目を閉じる。

「ん……」

 男が舌でレイモンドの唇を割るのも、そのまま受け入れた。合わさった唇の隙間から水のようなさらさらとした液体が流れ込んでくる。

「っ、……ぁ」

 それを嚥下すると、彼の唇が離れていった。

 それが何故だかとても寂しくなる。

「まって……、もっと」

 レイモンドが手を伸ばせば、相手が驚いたような気配を感じた。しかし、彼はその手を優しく掴んでくれる。

「……んっ」

 そして、再び唇が重なった。

 戸惑いのようなぎこちなさが混じる。だがそれも次第に熱に浮かされるような甘さへと転じていく。

 口付けの合間に、男の手がレイモンドの耳の後ろをなぞった。背筋を上るような背徳感に震え――、レイモンドははたと気付いた。

 先程まで感じていた身体の不快感が、綺麗さっぱり消えている。

 驚きにぱちりと目を開くと、こちらの異変を感じ取ったらしい男と目が合った。

「あ……? セイル、ほんとに……?」

「……レイモンド?」

 妙に艶っぽいセイルの囁きに、頬がぶわりと熱くなる。

 口元を押さえ、目の前にいる彼をぽかんとしたまま凝視する。

 夢じゃなかったのか!? と混乱が頭を占め、何を言うことも出来ない。

 それになにより――

「な…で、名前……」

 今更、どうしてそんな甘やかな声で、自分の名を呼ぶのか。

「――名前?」

「い、いままで、一度も……、名前を呼ばなかった、じゃないか……」

 なにをそんなネチネチとした嫌味のようなことを言っているのだろうと、レイモンドはセイルから視線を背ける。

「ああ……、それは……」

 セイルがレイモンドの髪の一房を持ち上げて、そこに口付ける。

「私は……、憶病だったのです」

「――臆病?」

 レイモンドの髪に視線を落としたままのセイルは呟く。

「『聖女』の貴方をそう呼んでしまえば……、貴方かそれともあの方か、選ばなければならないと、知っていたので」

 あの方――。セイルがそう呼ぶ相手に、心当たりは一人しかいない。レニール枢機卿だ。

「貴方を、職務を超えて――恩人を裏切ってまで、守りたい人に……したくなかったのですよ、レイモンド」

 顔を上げたセイルは、困ったような笑顔を浮かべた。レイモンドは彼のはじめて見るそんな表情に、ぎゅっと胸を掴まれるような心地がした。

「それなら、どうしてここに……」

「さあ……。でも、血を吐く貴方を見た時、心はもう決まっていた気がします」

 セイルが再び身をかがめ、レイモンドも自然と目を閉じる。

 昨日まで聖女と護衛、ただそれだけの関係だったはずなのに。だが、その変化を不思議に思いこそすれ、疎んではいない自分にレイモンドは気付く。

 クスと笑いを漏らせば、唇が触れ合いそうなほど間近で、セイルが動きを止める。

「レイモンド?」

「いや、何でもない」

 ただ君に名前を呼ばれるだけで、こんなにも嬉しいのだとは、口にするのは恥ずかしくて首を振る。その代わりに、続きをねだるようにレイモンドは、セイルの方へ手を伸ばした。

 だが、唇が重なり合う寸前、バンッと扉の開く大きな音が聞こえ、二人は動きを止めた。

 おそるおそる起き上がると、そこには急いで帰ってきたのだろうジェインの姿がある。

「あ……、ジェイン、その、おかえり……」

 レイモンドが声をかけると、どこかでブチッと何かが千切れるような音を聞いた気がした。

「あなたたち……、一体そこで病人相手に何してるのか、よぉく聞かせてもらえるかしらぁ……?」

 満面の笑みを浮かべるジェインの目は、全く笑っていなかった。


2022/07/18

2022年短編3-10

「身体は大丈夫ですか、レイモンド?」

 風で舞い上がりそうになる外套のフードを押さえつけながら、レイモンドはセイルの問いにこくりと頷いた。

「君にもらった聖水のおかげか、ここ暫くで一番元気だよ」

「そう、ですか。それは良かった」

 後ろにいるセイルの顔をこっそりと見上げれば、その顔はほんのりと赤い。レイモンドもそれを見て、つられるように頬に熱が灯る。

 聖水――、苦しさで夢現のレイモンドが、セイルに口移しで飲まされた液体がそれだった。

 聖女の力が籠められた水を聖水と呼ぶらしいが、アンの作ったそれは、類稀な治癒力を持っていた。それによって今のレイモンドの身体には、何の不調も無い。

 ジェインによると、これから先急激に起こるであろう身体の成長により、痛みが出るかもしれない、とのことだったが、今のところそれもなかった。

 聖水のことを思い出せば。自然とあの日の口付けまで想起させられる。レイモンドはなんと言えば良いのか分からず、無言になる。

 事故、というには、その記憶はあまりに鮮明で、「もっと」と自分からねだった事まではっきりと記憶にあった。

 お互い無言になれば、馬の足音だけがはっきりと聞こえる。

 今レイモンドは、セイルと共に、大聖堂を目指して馬上の人となっていた。

 一度は逃げてきてしまった。だが、あの場所に愛する妹を独りきりで置いておくなど、レイモンドにはとてもできることではなかった。そして何よりも――

「決着を、つけなければ」

 レイモンドの囁くような声が聞こえたのか、そうではなかったのか、セイルの手綱を握る手にも力が籠る。

「レイモンド、もうすぐです」

 目指すは大聖堂前の広場。その前にはもう既に人だかりができている。

 その中でも一段高い場所に経っているのはレニールは、聴衆を前に口を開く。

「――ここに今、新たな聖女が降臨された」

 手を広げ、謳うように告げるレニールの傍には見知らぬ少女がいる。その額には聖女の証である花模様が刻まれている。

「――っ」

 レイモンドが反射的に反論を口にしようとした時、ふとレニールと視線が合った気がした。彼はニヤリと笑う。

「いや、真なる聖女は長きに渡り妨害を受け、顕現できなかったのである。その障害こそ――」

 レニールがスッとレイモンドを指差した。その指に人々の視線がこちらへと向く。その瞬間、風のいたずらか、強い風が吹いて、フードが隠していたレイモンドの顔が露わになり、長い銀髪が空に舞う。

「そこの男――、十年に渡り聖女を騙った罪人である!」

「っ!」

 長い銀髪に青い瞳。それは誰もが知っている、今代の聖女が持つ色である。

 それが露わになった以上、もう決して言い訳はできない。

 さあどうする。

 そう言いたげに、レニールが嘲笑を浮かべた。


2022/07/19

2022年短編3-11

「っ……」

 目の前にいるレイモンドが、緊張で身体を固くしたのがセイルにはわかった。

 今彼を糾弾したのは枢機卿。枢機卿という身分も、国民から深い信頼を得ている。そんな人間が聖女を貶めた存在としてレイモンドの名を挙げれば、当然彼らの怒りはこちらへ向かう。

 レイモンドの髪と目の色により、人々も半信半疑であるようだが、次第に疑念の方が大きいあるのを感じる。

 当然といえば当然だ。

 今のレイモンドは、薬が抜けた影響により、急速に少年期を脱しようとしている。長い髪や纏う衣装は彼が大聖堂を抜け出した時のままのため、遠目には女のように見えるままだろう。だが、近くにいる者は分かるはずだ。彼の身体つきも相貌も最早、女のものではない。

「セイル、降ろしてくれ」

 レイモンドは静かな声でそう言った。

「……はい」

 先に地面へと降りたセイルは、彼は馬から降りるのに手を貸す。

「ありがとう」

 今まで彼を聖女として崇めていた者たちも、もし騙されたのだと判ずれば、いつ暴徒と化すか分からない。その状況で、彼も恐ろしさを感じないわけではないだろう。

 それでもレイモンドは穏やかに笑った。重ねられていた手を離し、凛と前を向く。

 その後ろ姿は、彼が聖女として振る舞ってきた姿と、なんら変わることはない。

 強い人だと思った。

 そんな貴方だからこそ、何をおいても守りたいのだと改めて思う。だが彼は決して、この腕の中に収まってくれている人ではない。

 今もそう。セイルの手を離し、守られてはくれない。

 それでももう傍を離れはしない。あの夜のように、倒れる貴方をただ見ているだけなどという無様な真似は、もう二度と。

 セイルはこの十年、いつもしていたように彼の後ろに控えた。レイモンドは一瞬だけ後ろを向いて、こちらに微笑みかけた後、また前を向いて口を開いた。

「――レニールの言う通り。私は聖女として、皆さんの前に立ってまいりました」

 少し低くなったレイモンドの声が響く。

 決して声を張り上げているわけではないのに、人々に届く――聴かせる、不思議な声は変わらない。聴衆は怒るでもなく、静かなざわめきが広がるに留まっている。

「私があなた方を『騙していた』というなら、その通りでしょう。その謗りは如何様にも受けるつもりです。ですが――」

 レイモンドはスッとレニールに視線を移した。

「私が何故、この十年もの間、聖女の――真なる聖女の身代わりを務めねばならなかったか。そして、本当に悪しき妨害者は誰なのか……。賢き聖女の民ならば、真実を見抜けるものと信じております。そうですね、レニール」

 同意を求めるようにレイモンドは薄く微笑んだ。

「さあ、答えてください。他の枢機卿はどうしました? 今日は新しい聖女の披露目の会なのでしょう? どうして貴方と……、その娘しかいないのですか?」

 枢機卿はレニールを含めて三人存在する。本当に新しい聖女が降臨したとなれば、当然あと二人の枢機卿この場にいなければおかしい。

 周囲に神官たちはいるものの、どの人物もレニール寄りの人物ばかりである。

 だが、レニールは余裕の表情で頷いた。

「我が娘――真なる聖女様の御意向によるものだ。謙虚なる我が娘は、盛大な場を好まれず、付き添いも父である私だけで良いと仰せになったのだ」

 しゃあしゃあと論理を述べるレニールだが、レイモンドもその返しを予想していたのか、にっこりと微笑む。

「そうですか。それは安心しました。てっきり、呪術で彼らを動けないようにしたのかと。……本物の聖女様にしたように」

 レニールが本物の聖女――つまりアンを害したと言ったも同然の言葉に、ざわりと群衆が動揺する。レニールが少しだけ動揺に目を泳がせるのを、セイルは見逃さなかった。

「狼狽えるな!」

 レニールが声を上げる。

「よもや罪人の戯言を信ずるわけではあるまいな? その者は私欲のため、聖女を騙り続けた者であるぞ!」

 レニールの言葉に、再び疑惑の目がこちらに向けられる。レイモンドが聖女を騙り続けていたというのは、紛れもない事実だ。それがある以上、場を完全にこちらにつけるのは非常に難しい。

 ここまでか。

 そう思ったセイルはレイモンドを守るべく、彼の前に出ようとする。だが、それをレイモンドが手を掴んで止められた。

「大丈夫、来たよ」

 レイモンドがレニールの後ろにある扉へ目を向ける。セイルもそちらへ視線を移した時、その扉が開いた。

「『罪人』は、一体どちらなのかしらねぇ」

 そこには、残り二人の枢機卿、そして本物の聖女であるアンを連れたジェインの姿があった。


2022/07/21

2022年短編3-12(終)

「『罪人』は、一体どちらなのかしらねぇ」

 その声が聞こえた時、レイモンドがどれほど安心したか知れない。

 セイルに「大丈夫」だと言ったのは、殆ど願いに近かったのだ。

 よかった間にあった、と安堵から力が抜けそうになる。だがまだへたり込んでいるわけにはいかない。レイモンドは握るセイルの手に力を込めた。

「……レイモンド」

 握った手が力強く握り返される。隣に彼がいる。こんな心強いことはなかった。

「大丈夫、ジェインなら、手筈通り上手くやってくれる」

 レイモンドの役目自体はもう終わったも同然なのだ。自分の役目は、ジェインがこうしてアンを救出するまでの時間稼ぎだったのだから。

「聖女様が二人……?」

 さざめきのような人々の呟きからそんな声を拾う。

 ああ、そんな風に見えるのかとレイモンドは、十年振りに見る立ち上がったアンを見つめた。

 つい先日まで、寝たきりだったと思えないほど、しっかりと地面を踏みしめる彼女の姿があった。長い銀髪、纏う服すら奇しくも似た形のものだ。

 聖女が二人いるように見えるのも、無理はない。

「――あそこにいらせられる方こそ、真実神より力を授けられた聖女様です」

「その通りよ」

 アンを示しながら言ったレイモンドの言葉をジェインが引き取る。

「この方こそ、十年ものあいだ苦しみが人々に撒き散らされることのないようにと、たった一人耐え続けてくれていた御方です」

 レニールの娘が怯えたように父の腕を掴むと、弾かれたようにレニールが口を開いた。

「デタラメを申すな! 彼らは我が娘が聖女となることを、妨害しようとしているのみである」

「あら、どうして?」

「……何?」

 ジェインが人差し指を顎に添え、こてんと首を傾げる。

「だって、『聖女様』がこの世にたった一人だなんて、誰が決めたわけでもないでしょう? その子が本当に聖女だというのなら、誰が止められるものでもないわ」

 そうよねと言うように、彼女はその背後にいるバルディア枢機卿を振り返る。彼はこくりと頷いて、それに同意した。

「それなのにそんなに焦っているのは、どういうことなのかしらねぇ……?」

 レニールはさすがに平静を装っているが、その隣にいる娘は今にも倒れそうな顔色をしている。レイモンドはジェインの背後に一瞬、獲物を弄ぶ蛇を幻視したような気がした。

 同じこと思ったのかバルディアが、少し疲れたような顔で口を挟む。

「……ジェイン。そろそろはっきりさせてはどうかな」

「それもそうねぇ」

 頷いたジェインに、バルディアが小さな瓶を差し出した。その中には透明な液体が入っており、太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。

 それを恭しく受け取ったジェインは、そのままアンに差し出した。

「さあ、聖女様」

 しかしアンはそれを受け取るのを渋っている。

「やはりわたくしは、気が進みません……。他に方法があるのでは?」

「いいえ、聖女様」

 ジェインは断固として首を振る。

「ここにいる人々は、この男の陰謀に巻き込まれた被害者……。真実を知る権利がありましょう。違いますか?」

「……わかりました。わたくしを救ってくれた、恩人であるあなたがそう言うのなら」

 アンは瓶を受け取ると、それを両手で握り込み、祈りを捧げるような姿を見せる。そしてそれを、ジェインに返す。

「さて、この水は聖女様の祈りによって聖なるものへと変化しました。聖なるもの……すなわち邪を滅するもの――」

 ジェインは、瓶の蓋を開けて半分を自分で飲み下す。そして、間髪入れずにそれをレニールに浴びせかけた。

「――このように」

「ぐわああああああああっっ!!」

 途端にレニールが頭を押さえて苦しみ出した。ジェインは、それを悲しさの混じる静かな目で見下ろす。

「これは、この十年間に彼が行った悪行の報いを受けているに過ぎません。同じものを飲んだわたしが、この通り元気なのを見ればお分かりでしょう」

 人々は緊張を滲ませてその様子を見守りながらも、納得が広がっていくのがわかる。だが、レイモンドとセイルには、それが本当の真実ではないことを、事前に知らされていた。

 悪行の報いというのは、本当ではあるが、聖水の効果はそこではない。聖水はジェインにかけられていた呪いの効果を打ち消し、その呪いをかけた術者であるレニールには、呪詛返しが起きているに過ぎないのだ。

「――もう良いでしょう、ジェイン」

 アンはレニールの傍に膝をつき、その額に手を当てる。すると、叫び声が不意に途切れ、レニールはどさりと地面に転がった。

「彼を連れていってください。――彼女も」

 アンはレニールの傍らにいた娘も指し示す。その額にあった「精女の証」は、先程聖水がかかったのか、顔料が流れ落ちはじめていた。

 レニールとその娘、それから彼に組した神官たちが捕らえられて、その場から消える。

「――さあ、これで誰が真実を口にしていたのか分かったでしょう」

 場が騒然とする中で、ジェインがアンを人々の前に押し出す。彼らが口々に「聖女様」と呟くのを見ながら、レイモンドはその光景に背を向けた。

「レイモンド、何処へ?」

 セイルに腕を掴まれて振り返る。

「もうアンは心配ないだろう? もう僕は必要ない。だから――」

「お兄様!」

 ハッとして声の方向を見ると、割れた人並みの中をこちらへ走ってくるアンの姿が見えた。そしてその勢いのまま、レイモンドの胸に飛び込んでくる。アンはぎゅうっとレイモンドを抱きしめる。暫くそうした後、ようやく身体を離したものの、手は離さずにこちらを真っすぐに見上げた。

「……十年もの長い間、わたしの身代わりを務めてくださって、本当に、本当にありがとうございました」

「アン、僕は……」

「わたし、知っているのです。お兄様がご自分の身体を痛めてでも、わたしの居場所を失わせないようにしてくださったこと。それに、決して本物の聖女にも劣らぬほど、民のために祈ってくださっていたことも」

「アン……」

「このままいなくなるおつもり、だったのでしょう」

 図星を刺され、レイモンドは黙り込む。これ以上は偽物の聖女が言い座り続け、混乱させるわけにはいかないと思っていた。

 だがアンは、決して手を離さずに、首を横に振った。

「いけません、お兄様。あなたのような真に尊き御方を、失うわけにはいきません。なにより……、十年ぶりに再会できた愛するお兄様と、もう離れたくないのです」

 決してどこにも行かせはしないという決意を表すように、アンが再びひしっとレイモンドの身体に腕をまわす。

「レイモンド、妹君の仰る通りではありませんか?」

 セイルに後ろから肩へ手を置かれる。

「そうよぉ、諦めなさいな、レイモンド」

 アンを追いかけてきたジェインも追い討ちをかける。

「…………仕方ないね」

 レイモンドが肩を竦めると、アンがぱあっと顔を輝かせた。

 その瞬間、周囲の人々もわっと歓声を上げる。どうやら、「聖女を騙った罪人」であるはずのレイモンドは、受け入れられたらしい。

 どうしてこうなったと、空を見上げるとそこには抜けるような青空があった。耳が痛いほどの歓声が、その空に吸い込まれて消えていく。

 血を吐いて倒れた時――、いや、「聖女」になると決めたあの日から、もう二度と堂々と明るい空の下を歩けると思っていなかった。

 だが今周囲を見渡せば、嬉しそうに笑う元気な妹と、自分を愛してくれる人に囲まれている。

 不思議な気分。

 だが、悪い気はしなかった。


「お兄様、たすけてぇ!」

 レニールの巻き起こした騒動から早半月。

 部屋に走り込んできたアンを抱きとめたレイモンドは、目を白黒させつつ、おいおいと泣きじゃくる彼女の頭を撫でた。

「どうしたの」

「アン〜? 逃げても許さないわよぉ?」

「ジェインがこわいのー!」

 レイモンドの問いにアンが答える前に、額に青筋を浮かべたジェインが現れる。その手には分厚い本が握られていた。

 レイモンドは、ああそういうことかと苦笑いした。

「アン……、僕にも出来たんだから大丈夫」

「お兄様のいじわる!!」

 アンを半ば強引に立たせると、ジェインが彼女の腕をむんずと掴み上げた。ぎゃあぎゃあと二人が喧嘩する様を見ていると、後ろにいたセイルが、そっとレイモンドに耳打ちする。

「あの、レイモンド。あれは?」

「聖女として振る舞うための勉強……、ってとこかな。ジェインの持ってる本は聖典で、僕も昔、随分苦労して覚えたよ」

「ああ、あれが……」

 レイモンドが説明するとセイルにも、アンとジェインのやり取りの意味が分かったのか、同情するような目線をアンに向けた。

「いいこと、アン? 先代聖女に教えを請えるなんて、破格の待遇なんだからね!」

「わ、わかってるけどぉ!」

「――あ、バルディア卿」

 二人の声が廊下まで聞こえていたのか、今度はバルディアが顔を覗かせる。

「ユリアナ、ここにいましたか」

「あら、バル」

 彼に気付いたジェインは、アンの腕を掴むのを止めて振り返る。

「もう……、ジェインと呼んで、って言ってるのに……」

 ジェイン――、本名はユリアナという彼女の正体は、十五年ほど前に夭折したとされていた先代聖女だった。

 彼女の聖女としての力は、アンとは逆の呪いの力。それを悪用しようとしたレニールによって、力を奪われ、これまで逃げ続けていたのだそうだ。

 レニールの使っていた力は彼女から奪われたものであり、残されたほんの少しの力を使って薬師ジェインとなり、成長を止める薬などといった、通常ではありえないような薬を作っていたのだった。

 長い間奪われていた力が、あの日に飲んだ聖水によって戻って来た。だから今の彼女の額には聖女の証があるはずなのだが、それは化粧によって巧妙に隠されている。

 いわく、「今更、聖女に戻るなんてやぁよ」とのことだ。

「それで、わたしに何か用なの、バル?」

「ああそうでした。レニールの被害者が現れまして」

「えぇ、またぁ……?」

 レニールが使っていた呪いの被害者を、今はジェインが見ている。予想以上に被害者はかなりの数に上り、こうして定期的に呼び出されている。

 いつのまにかレイモンドの後ろに隠れていたアンが、少しほっとしたような顔をしたが、ジェインもそれを見逃しはしない。

「それじゃあ行ってくるけどぉ……。アン、これ、読んでおきなさいね」

 そう言ってにっこりと笑い、分厚い聖典をアンの手に乗せた。

「うぅ……、わかりましたぁ……」

 めそめそしながらも頷いたアンに、ジェインは表情を緩めてアンの頭を撫でた。

「いいこね、がんばるのよ」

「はい」

 まんざらでもなさそうなアンの表情を見て、レイモンドは内心、ジェインは飴と鞭の使い分けが上手いと感心するのだった。

「さて、いきましょうか、バル」

「ええ」

 バルディアが差し出した手を、当然のようにジェインが握り、二人は手を繋いで部屋を出て行った。

「わたしも…部屋に戻ってお勉強しますね、お兄様」

「うん、おまえならできるよ」

「はい!」

 アンは満面の笑みで頷くと、来た時とは打って変わって軽い足取りで部屋を出て行った。

 三人が出て行くとあっという間に部屋の中は静かになる。

「賑やかでしたね」

「そうだね……、こんな日々が来るなんて、想像してなかった」

 一時は死さえも覚悟していた。それなのに、なんと今は幸福な日々だろう。

「それより君は良かったの?」

「……何がです?」

 まるで思い当たることがない、とでも言いたげなセイルのきょとんとした顔を見て、少し眉根を寄せた。

「何が、って……。護衛のことだよ。どうして、アンじゃなくて僕の護衛を続けようなんて……」

 レニールのあの事件以降、色々なものが変わった。

 枢機卿は一人欠員が出て、新任を選定中。神官もかなりの人数が入れ替えになった。アンは聖女として正式に立ち、ジェインはその教育係となった。

 そして今レイモンドだけが、聖女の兄というだけの微妙な立場に置かれている。何は身の振り方を考えなければならないだろう。

 そんな中でセイルは、何故かレイモンドの護衛を志願した。彼の元々の身分は「聖女の護衛」である。ならば、そのままアンの護衛につくのが筋であるはずなのに、だ。

「僕は、アンが何と言おうと、いずれここを出て行く身だ」

 あの時のように、「何も言わずに姿を消す」ということは、さすがにするつもりはないが、何者でもない自分が、このままここに居続けられると思えるほど楽観はしていない。

「――存じています、レイモンド」

「なら、なぜ――、っ!?」

 不意に唇を塞がれる。口付けられている。そう悟るのに、あまり時間はかからなかった。

 この半月、ジェインの家での出来事が夢だったのではないかと思うほど、セイルはこれまでとなんら変わらない態度をとってきた。

 レイモンドは、セイルの腕をぎゅっと掴む。

 甘い唇に、舌に、熱に浮かされながら、動きが鈍る頭で必死に考える。

 何故今更、こんな――。

「っ……」

 唇が離れ、レイモンドは息をついた。

「貴方が、ここを出て行くと言うなら……、共に参ります」

「なっ!?」

「貴方を守りたいのです。聖女でも誰でもない。レイモンド、貴方を。…………それ以上に、理由が必要ですか?」

 セイルの熱を帯びた瞳に射抜かれて、レイモンドは二の句が継げなくなる。

 何といえばよいのやら分からず、ぱくぱくと口を動かしていたレイモンドだったが、彼の決意が変わらないのを悟り、観念して溜息をついた。

「君も物好きだな」

「……先に『もっと』とねだったのは貴方では?」

 一番はじめは、聖水を飲ませるための口移しだった。それをただの口付けにしたのは、たしかに自分である。

 レイモンドは頬を真っ赤にして俯く。そして、やけくそ気味に真っ赤な顔のまま、セイルを睨み上げた。

「ああ、たしかに。その通りだ。だから……『もっと』だ」

 セイルはふっと笑って、レイモンドの頬に触れた。

「仰せのままに、私だけの聖女様」


Fin.


2022/07/22

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