2022年短編2-1
――私を助けて。
その声は彼が物心ついた時には既に聞こえていた。
私を助けて、助けて、助けて――
成長するごとにその声は大きくなり、夢では手を伸ばす人影が見えた。
そして十六歳――成人だと認められる年齢を迎えた誕生日の夜。
――あぁ、やっと逢えた、ルー。
声だけだった彼女はルー――ルシウスの手を握った。
――どうか私を助けて、ルー。そして迎えに来て。
優しげに微笑む美しい女に、ルシウスはその手を握り返す。
わかった。必ず君を迎えに行くよ、レイティア。
聞いたこともないはずの女の名が、なぜか口から滑り出した。
「冒険者になるだと!?」
ルシウスは頬に強い衝撃を受け、床に転がった後、父のそんな怒鳴り声を聞いた。その後ろでは母が「何も殴ることは……」と弱々しく制止の言葉を口にしているが、興奮した父の耳にはそんなものが入るわけがなかった。
ルシウスは腫れ上がっているであろう左頬に手を当てて、床に尻餅をついたまま顔を真っ赤にする父を見上げていた。
「宮廷魔導師になることが、どれほど名誉なことか分かっているのか!?」
ルシウスは類稀な強い光の力を持って生まれた。それは人々を救う力とされ、かつてには悪しき魔女を滅し、この国を興した建国の祖でもある「勇者」が持っていた力。ルシウスの持つ力も、
そんな力を持つルシウスを国が放っておくわけもない。成人の日を迎え、田舎の村を離れられる歳になったルシウスは間もなく王都へ向かうことが決まっていた。そこで高等教育を受けた後任官する。それはもうほとんど決まった話だった。
そしてそれをルシウス自身も、何の疑いも持たずに受け入れていたのだ。――昨夜までは。
ルシウスは俯いて、自身の手のひらを見つめた。それを握りしめる。
昨夜、夢とは思えぬほど鮮明に伝わったやわらかな手の感触と、まるで死体に触れているかのような冷たい温度を思い出す。
救わなければ。あんなにも冷たい手をしていた。きっと彼女はどこかで今も苦しんでいるのだ。
そこから解放してやれるのは自分だけ。そんな確信があった。
ルシウスは立ち上がる。そして父を真っ直ぐに見つめ返した。
「俺には使命があるんだ。それは、俺にしかできない」
そしてルシウスは父からもう一発、拳をもらった後家を出て行った。
「冒険者」と言えば聞こえはいいが、実際のところ彼らは何でも屋とそう大差はない。
薬草取り、屋根の葺き替え、迷子の猫探し……あとは時折町の郊外に現れる魔物――名前は大層だが野生動物がほんの少し凶暴になった程度の生物を駆除する、といった程度の仕事が主だ。
いや、「主だった」と言うべきだろうか。
ここ十数年の間に魔物達が少しずつ凶暴化――たとえば魔法を使うなどといったことを――するようになっていた。
そういった、人々の生活を脅かすものを退治してくれる存在として冒険者達の社会的地位は以前に比べれば向上していた。
しかし、宮廷魔導士とは当然比べ物にならないのも事実で、父が自身を殴りつけるのも仕方ないとルシウス自身納得している部分はあった。
家を飛び出してから早一ヶ月が経っていた。
殴られた左頬の痣はとっくの昔に消えていたが、こうして今静かな森に一人きりだと、色々と思い出すことも多かった。
もう痛くないはずの頬を撫でる。
ほんの少し頬の代わりに胸が痛んだ。だが後悔はしていない。
ルシウスの夢にはあの日から欠かさず美しい女――レイティアが現れる。ほんの短い間会話を交わすこともあれば、どこかの光景を見ることもある。
生身の彼女を見ることもあれば、満月のような色をした澄んだ石の像の姿の時もあった。
レイティアは言った。私は閉じ込められているのだ、と。
彼女の動きを封じ身動きができないようにしているのが、あの石の像なのだと直感した。
だからルシウスは――、その時、焚き火の火が音もなく消えた。
真っ暗な闇に沈んだなか、ルシウスはおもむろに立ち上がる。そして振り向きざまに手のひらを呼吸に向けた。
その手のひらに一瞬で光が集まり打ち出される。
それは今まさにルシウスへ飛びかかろうとしていた黒い狼――のような魔物に命中した。
「ギャウッ!!」
魔物は甲高い悲鳴を上げて、地面に叩きつけられた。それはほんの一瞬の出来事だった。
「……はぁ」
ルシウスは周囲から敵の気配がなくなったことを確認すると詰めていた息をはいた。
そして地面にしゃがみこみもう一度焚き火に火をつける。一帯が再び明るくなったが、もうそこに先ほどの魔物の姿はない。魔物は死ぬとその身体はニュースとなって消えてしまうのだ。その代わりに核のような黒い石が、魔物の横たわっていた場所に落ちている。
魔石と呼ばれるそれをルシウスは拾い上げ鞄にしまった。
「これで依頼は完了だな」
魔物が死する時、唯一残していくのがこの魔石である。
ルシウスは今回の依頼である森に棲みついた黒い狼を退治してほしいという依頼を達成できたと安堵した。
「はい。確かに魔石を受け取りました。依頼達成おめでとうございます。こちらが報酬になります」
冒険者ギルドの受付がそう言って報酬分の金銭が入った袋をルシウスに渡した。
「ありがとう。それより――」
「あ、はい。ご依頼いただいていた、女神像について、ですね」
ルシウスが冒険者になった一番の理由はこれだ。国中を回りながらこうしてレイティアが封じられている場所の情報を探る。
そのためにはこの職業がうってつけだったのだ。
しかし受付嬢は眉を曇らせる。
「石に彫られた女神像や壊れたものはいくつか存在します。かつては女神も信仰の対象でしたからね」
ルシウスは頷く。
この国が建国されるさらに以前は、女神信仰もあったらしい。だが「勇者」が後に興すと、その信仰は失われてしまった。そのため大昔の廃村や森の中に朽ちた女神像は残っているものの、ルシウスの探すような美しい女神像などほとんど存在しない。
受付嬢も同じこと思っているのか沈んだ声で続ける。
「お探しの女神像は水晶のような透明度のある石でできたもの、ということでしたので……」
後に続く言葉は想像に難くない。
見つからなかった、そう言われるのを覚悟してルシウスが落胆しかけた時不意に聞き慣れぬ男の声が割って入った。
「あんたが女神像を探してるって男か?」
振り向くとそこにはいかにも冒険慣れ風体の若い男が立っていた。年回りはルシウスよりも少し上だろうがそう大差ない年齢だ。赤みの強い短い茶髪が印象的な男だ。人懐っこい笑顔を浮かべている男だが、ルシウスは少々警戒して一歩後ずさった。
「……そうだけど、君は?」
「あんたが探しているもの――かは分からないが、水晶で出来た女神像がある場所をオレは知っている。どうだ? 興味はないか?」
反射的に頷きそうになって思い留まる。どうしてこの男はこんなにもルシウスに利のある話をわざわざ持って来たのだろう。
「どうして俺にその話を?」
そう訊ねると男はニッと笑った。
「話に飛びつかないのは良い判断だな。なに、その近くで依頼を受けたんだが、ちとばかり一人で荷が重くてな。後方支援を頼みたい。――あぁ、安心してくれ。報酬は山分けだ」
ルシウスはその話を受けるかどうか悩んだ。即断するには、依頼内容がわからないからだ。しかし、少しでも情報の欲しいルシウスにとっては、断ってしまうというのもまた気が引けた。
「……ひとまず話は聞こう。君の名前は?」
「アロンだ。お前は?」
「ルシウス」
ルシウスはアロンが差し出してきた手を握り返した。
アロンから聞かされた依頼内容はそう難しいものではなかった。
魔物を倒す。ただそれだけと言えば、それだけだ。だがその大変さに気がついたのは現場に着いてからのことだった。
その現場はある屋敷。何十年か前に打ち捨てられた元々貴族の屋敷だった場所だ。かつては美しかったであろうその屋敷も長年の風雨に晒され、蔦は屋敷中を覆い尽くしている。周囲の塀も崩れており廃墟然としていた。
「と言うか、完璧廃墟だろこれ」
アロンが木の陰に身を隠しながらそうぼやいた。
なんでも依頼主はここに住み着いた魔物を排除した後、この屋敷を修繕し住むつもりだという。ルシウスの目から見てもそれは、なかなか骨の折れる作業だろうと言うことは言葉にするまでもなかった。
アロンの事前情報によると、この屋敷に潜んでいる魔物はたったの一体だという。
手を組むにあたってアロンの経歴を聞いたところ、彼はそれなりに長く冒険者を続けており実績も確かであった。また潜んでいる魔物自身も、そう強い個体ではないという。彼の実力からすれば何の問題もない相手のはずだった。
ならば何が難しいのかと言うと――
「なあ、本当に屋敷の中に入れないのか?」
実力も申し分なく魔物も大して強くはない。だというのに彼が「荷が重い」なおというのは普通考えればありえないことだった。だが今ルシウスが訊ねた通り、そもそも中に入れないというのならば話は別だ。
アロンは魔物の持つ魔力によって屋敷内部が一種の異空間のようになっているところまでは突き止めたらしい。だがそこに入るには例えば神官などといった、ルシウスほどではないにせよ光の魔力を持つ人間なければ入れないという。
そのためマロンはそういった力を持つ人間を探していたらしい。その中でもっとも都合が良かったのがルシウスだったということだ。
アロンはルシウスの問いに肩を竦めた。
「オレは入れない。何度試しても駄目だった。だがきっと、お前ならいけるだろうさ」
「ふうん」
ルシウスは茂みの中から立ち上がり屋敷に一歩近づいた。あまり良くない気配がする。
魔物の多くが持っている、光と相反する力――闇の力のせいだろう。
一歩近づくごとにその気配を強くなるが、ルシウスはそれを無理矢理無視して近付いていった。
この中にレイティアに繋がる何かがあるのだと思えば、竦みそうになる足も前に進んだ。
朽ちた塀をすり抜けて、ルシウスは屋敷の扉の前にたどり着いた。扉に触れるパチリとほんの少し反発のようなものがあったが、それを無視してノブを握った。
それを回す。最初だけ錆のせいだろうか、ギギッと嫌な音がしたが、それでもアロンの言うように動かないなどということはなく想像以上にあっさりとその扉は開いた。
「よくやった。これで中に入れるぞ」
アロンは意気揚々と出てきてルシウスの肩をポンと叩いた。
二人は並んで屋敷の中に入った。
「これは……」
一歩足を踏み入れた瞬間、アロンが屋敷の中は異空間だと言っていた意味が分かった。空気が重い。屋敷全体が魔物の領域なのだろうと察せられた。
「……これを一人で倒そうとしていたのか?」
「オレぐらいになれば、これくらい朝飯前なのさ」
アロンは飄々と言っているがどこか緊張しているのも、ルシウスは感じ取っていた。もしかすると彼も想像していた以上に強い魔物だったのかもしれない。
「ここからどうするんだ?」
「二手に……と言いたかったんだがな。こいつはちょっと厄介かもしれない。別れて行動するのは下策だな……。仕方がない、奴さんの居所をしらみつぶしに探すしかなさそうだ。気配が大きすぎて特定も難しい」
「わかった、君に従うよ」
ルシウスがそう言うと、マロンは意外そうに目を丸くした。
「へぇ、随分素直だな。お前みたいな新人は向こう見ずな奴が多いんだがな」
アロンいわく、周囲の助言を聞かずに突っ走った結果早死にする新人多いらしい。ルシウスとてその気持ちがわからないわけではない。だが――
「そんな危険なことしないよ。俺は……死ぬわけにはいかないんだ」
「へぇ。ま、その方が賢明だな」
アロンはルシウスの背中をバシッと叩くと、「さあ行くぞ」と笑って暗い廊下を進んでいった。
「ここにもいないな……」
二階建ての屋敷を上から順に見て回っていたルシウス達だったが、こっちの主寝室や子供部屋などの各部屋を見て回り、一階へと戻っていた。
一階にある部屋も粗方見て回り、それでもいるはずの魔物は姿を現さない。
気配だけがする。その状況に苛立ちを抑えきれなくなったのか、アロンは自分の頭をガリガリと乱暴に掻きむしった。
彼は魔法を使うルシウスとは違い、主に剣術で立ち回るタイプの冒険者だった。要するに敵が現れてくれなければ何もできないに等しい。それが彼の苛立ちをさらに増幅させているのだろう。
ルシウスも早くこのどこか気味が悪い屋敷から出て行きたい気持ちは同じだ。だが二人がかりでこれだけ念入りに探しても見つからないのだから、相手はよほど巧妙に姿を隠しているのだろう。
このままでは埒があかない。ルシウスもそう思いはじめていた。
「アロン。いっそのこと俺の力で敵を炙り出してみようか?」
ルシウスがそう提案すると彼は驚いた顔をする。
「炙り出す、ってな……。この屋敷がどれだけ広いかお前も分かってるだろ? せめてどの部屋にいるのかくらい確定できないと、だな……」
「広いって言っても、たかだか屋敷一つだろう? 一番嫌な感じがするところを中心に屋敷全体に魔法をかければ多分当たるよ」
「は……?」
呆然とするアロンを横目にルシウスはこれまで見回ってきた部屋を思い出し、どこが一番魔の力が濃かったか考えを巡らせる。
正直、どこもかしこも魔物の気配で満ちていて特定するのは難しい。だがその中でもとりわけ気にかかるのは――
「主寝室……」
二階にあった、かつての屋敷の主人の寝室と思しき広い部屋。そこはどうにも気にかかる。
「アロン、主寝室の方へ行ってみないか?」
「それは構わないが……。本当に屋敷全体に光の魔法をかけるなんてできるのか?」
アロンはいまだ不審げな目をしている。だが、ルシウスから言わせてみれば、どうしてそこまで疑うのかがわからなかった。
「……当然、だろ?」
ルシウスが首を傾げつつ、そう問い返すとアロンはますます驚いた顔をした。
「――……本当に…………なんだな」
アロンの言葉はあまりに小さく、ルシウスにはうまく聞き取れなかった。
「アロン?」
先に歩きだそうとしていたルシウスだったが、足を止めて後ろを振り返る。名を呼ばれたアロンは、首をふるりと横に振るとルシウスの隣に並んで歩きはじめた。
2022/04/24
2022年短編2-2
早速二階に辿り着いたルシウスは、広い主寝室の中央に立って目を閉じた。
冒険者をするようになってから、やはり王都できちんと教育を受けるべきだったのではないかと思うことが増えた。村にいた時も力の使い方を学んでいなかったわけではないが、主に書物と時折派遣されてくる魔導師の教えのみでは、不十分に感じることもあった。
一刻も早くレイティアを探したかったが故の選択だったが、力の使い方の面においてはやはり人より劣る面があるのは自覚していた。
とはいえルシウスの力は人並み外れている。そのため力押しでなんとかなるのも事実であった。
今も本当はもっと効率の良い方法はあるのかもしれない。だが今のルシウスにできることは、ただ己の力で屋敷全体を包み込むように力を放出することだけだ。
しかし今回に限ってはそれで良かったのかもしれない。
ルシウスの周囲が仄かに明るくなり、次第に眩しいほどの光に包まれていく。アロンがその光に目を細めた時、黒い影が断末魔と共に浮かび上がった。
「本当にやりやがった……!」
眩い光に目を細めながらアロンは叫んだ。
ここまでやってしまえば、後はアロンの仕事だ。ルシウスは飛び退るように、アロンの後ろ側へと回った。アロンが腰に佩いていた長剣を抜く。
「アロン!」
「後は任せろ!」
強く地面を蹴ったアロンは、光に照らされ苦しんでいる魔物の頭上へと飛び上がった。そして握っていた剣を大きく振りかぶる。
「あばよ!」
アロンはそう捨て台詞を吐きながら、黒い靄のような魔物を両断した。
魔物は叫び声をあげる。しかしその叫び声が消えるとその身体は、解けるように分解していき塵のような粒子となって消えていった。
その魔物の核がコロンと音を立てて床に転がった。着地したアロンがそれを拾い上げる
「よし、これで依頼達成だな」
魔物がいなくなったせいか、息をするのがフッと軽くなる。
「さて、帰るか」
「あ、待って。まだ女神像のことを――」
――まだよ、ルー。
その時、アロンの足元にフッと黒い影のようなものが現れたのに、ルシウスは気付いた。
「アロン!」
ルシウスは部屋を出ようとしていたアロンの腕を掴み、自分の方へ無理やりに引き寄せた。
驚いたアロンは「何しやがる」とでも言いたげな顔でこちらを振り返ったが、その時には彼がいた場所の床は消失していた。
それに気付いたアロンは、たたらを踏みその勢いのまま尻餅をついた。
「悪い……、助かったよ……」
素早く立ち上がったアロンはピリリとした緊張感を滲ませながら、周囲を警戒している。
「まさか、もう一匹いやがったのか……?」
「みたいだね……」
ルシウスは慎重に消失した床の方へ近付いていった。
まるで初めから存在しなかったかのように、その床は綺麗な断面で消えてしまっている。もしまだアロンがそこにいたとしたら、どうなっていたかなど想像するだけで怖ろしい。
ルシウスはその断面に指先で触れた。
「微かに魔の気配を感じる……。さっきのやつの仲間――、
「あぁ……、そうかもしれない。
アロンの言う通り、ルシウスにも今は全く魔物のものらしき気配を感じることはできなかった。どこかに身を潜めて、こちらの様子を伺っていると考えるのが妥当だろう。だが心当たりは全くない。
屋敷の中はほとんど調べ終わっている。それでも見つからなかったからこそ、今ここにいるのだから。
それともまだ調べきれていないところがあるのだろうか。
――屋根裏は見たかしら、ルー。
ルシウスはふと天井を見上げた。外から見た景色の様子を思い出す。そして今度は窓辺に近寄って外を見渡した。
「どうしたんだ、ルシウス?」
「この屋敷、まだ上があるんじゃないか?」
「え?」
アロンはルシウスの隣から同じように窓の外を見た。そして屋根の方を見上げる。
「……調べてみる価値はありそうだな」
二人は顔を見合わせて頷き合い、上へ続く道がないか探すことにした。
「……ない」
アロンが苛立ちまぎれに言う言葉にルシウスも力なく頷いて同意した。隠し通路か何かがあるのではないかと思い、暖炉の中にまで入り込んで調べてみたが結果としては、服がはいと埃まみれになるだけでしかなかった。
完全なる徒労である。
「うーん……。外からよじ登っててみるかい?」
なすすべなしと座り込んだルシウスは天井を仰ぎながら、力なくそう言った。
「できればそれをしたくなかったんだがなぁ……。窓がある保証もないし、壁がぶち破れるかどうかも分からないからな……」
隠し通路を探す過程で結果として屋敷の中をもう一度探すはめになったが、やはり敵は気配も何も感じられない。
最早、既に死んだ魔物の最期の悪あがきというか、デストラップとでも言うべきだろうか、そんなものだったのではないかという気さえしてきていた。
「あれ……?」
その時ふとルシウスは、天井が一部剥がれ落ちているのに気付いた。いや、剥がれ落ちているだけというならば、こんな廃墟ともいうべき屋敷の中のこと故、さほど珍しいことではない。
だが何かが妙に引っかかりを覚えた。
「どうした、ルシウス?」
「ちょっと……」
立ち上がったルシウスは、その剥がれた天井の真下まで近付く。だが天井の位置が高すぎて、いまひとつよく見えない。
きょろりと辺りを見渡したルシウスは、手近にあった椅子を引き寄せ、それが傷んでいないのを確かめた後その上に昇った。
「何かあるのか?」
興味深そうに近付いてきたアロンが、下からそう訊ねてきた。
「うーん……」
ルシウスはじっくりとそれを眺めてみるが、やはり何に違いを覚えたのかよくわからなかった。なので試しにそれを指でコンと叩いてみる。
「うわっ」
ほんの中の様子を確かめるだけのつもりだったその行為は、ルシウスの予想に反して天井板を外れさせ、それはルシウスの頭上へと降ってきた。それに驚いたルシウスは、立っていた椅子から足を踏み外し、その椅子ごと床に転倒する。
ルシウスの隣に外れた天井板が落下して、床の上でパリンと音を立てて割れた。だが上から降ってきたのはそれだけではなかった。
「いてて……、――っだ!?」
ぶつけた臀部をさすっていたルシウスの頭に、天井板と別の何か硬いものがぶつかった。それはジャララと音を立ててルシウスの背後に垂れ下がる。
「おい、これ……」
はじめはルシウスを心配そうに見ていたアロンも、ルシウスの後ろに垂れ下がったそれを見て目を丸くした。
「何……? ちょっとくらい、心配してくれたって……」
痛がるルシウスをそっちのけで何かに驚くアロンに、少々ぼやいていたルシウスだが、自分の頭に降ってきたものが何なのか確かめようと後ろを振り返ると、気が付けばアロンと同じ反応をしていた。
「これ、梯子……?」
ルシウスは呆然と呟く。その言葉の通り、そこには先ほど外れた天井板のあった穴から垂れ下がる縄梯子のようなものがあった。ただ縄梯子といっても、金属の棒と鎖でできているため、劣化や損傷は少なそうだ。多少錆ついてはいるようだが、登るのには遜色なさそうな程度だ。
「どうやらこれがオレ達の探していたブツらしいな」
アロンはまだ見ぬ敵に期待をしているのか、ワクワク――というよりは爛々と目を輝かせている。
「まあ、この先に本当に敵がいるかは分からないけどね」
ルシウスが冷静にそう言うと、アロンは白けた目をして肩を竦めた。
「そういう気の削がれるようなこと言うんじゃねえよ、まったく……。まあいい、行くぞ!」
そうしてアロンは実に楽しそうに、そしてルシウスは少し神経質に、梯子の一段目に足をかけた。
2022/04/26
2022年短編2-3
梯子を上った先は、期待していたものとは違い、言わば何の変哲もないただの屋根裏部屋だった。
物置として使われていたようで、年代ものの古いアンティーク家具などが、埃をかぶって置かれていた。
「なんだこりゃ、ただの物置じゃねぇかよ……」
アロンは落胆の色を隠せない様子でそうぼやいているが、そんな風なことを言いながらも警戒を解いていなかった。
そもそもどこに潜んでいるか分からない敵のことだ。ほんの少しの油断が命取りになることを、彼もわかっているのだろう。
「……アロンは今までこういう敵と、戦ったことはなかったの?」
「こういう、って?」
「だから何て言うか……、隠れるのが上手くて、巧妙な敵?」
「そうだなぁ……。いないことはなかったな。森の木々に上手く擬態するやつとか。あとは――」
アロンはそこで言葉を途切れさせ、真剣な顔で何かを考え込みはじめた。
「……アロン?」
「――……そうか、そういうことかもしれない」
彼はぼそりと呟いた。
「何? どういうこと?」
「ルシウス、近くに鏡か何かはないか?」
「鏡?」
ルシウスは彼に言われた通り周囲を見渡す。だがそれらしいものはないように見えた。
――本当にそうかしら、ルー?
ふとルシウスの目に、布を被せられた家具のようなものが映った。それに近付いて、その埃まみれになった大きな布を、ひっぺがした。
「――げほっ、っおい、ルシウス!?」
大きく舞い上がった埃を吸い込んだのか、アロンは後ろでゲホゲホと咳き込んでいる。ルシウスも腕で口元を覆いながらその埃が落ち着くのを待つ。
「……あった」
「何?」
「鏡だよ」
ルシウスの目の前には立派な鏡台があった。埃避けの布のおかげか、鏡は曇りなく周囲を映し出している。
しかしおかしなところがあった。
はじめルシウスはそれに気がつかなかった。その家具の形状から見ても、それが鏡台なのは間違いがないし、その鏡台についているの名前の通り鏡であるはずだからだ。だが――
「……映ってない?」
鏡はその目の前のものを須らく映すはずのものだ。そこに何かの意思は存在しないはずであるし、実存している以上、それに映らないはずのものはないはずだ。
しかしそこにルシウスの姿はなかった。いや、ルシウスだけではない。アロンの姿もまた、そこには映っていない。
「やっぱりな」
驚くルシウスの後ろで、アロンはそれを当然のように受け入れていた。
「やっぱり?」
「前にこんな奴がいたんだ。魔物じゃなくて、魔導師だがな」
その魔導師は、幻影を作る魔法を得意としていた。幻影というより虚像と言った方が的確だったかもしれないと、アロンは言う。
「そいつが作った『偽物』は、本当に何もかもそっくりなんだ。人間を作れば、家族はもちろん、本人でさえ『鏡を見ているようだ』と言った」
もちろんただの幻影であるため、喋ることはできなかったらしい。だが仕草や歩き方、そういったものは本当に鏡写しのようだったという。
「でもそいつを見分ける方法がひとつだけあったのさ。――鏡、だよ」
「どういうこと?」
「その幻影は鏡には映らないのさ。『鏡を見ているようだ』とまで言わせたのに、笑えるだろ?」
「……それで、この状況とどういう関係が? 僕らがその幻影だとでも?」
「その逆だよ。オレたち以外が幻影なんだ」
「は?」
「本物の鏡には、本物の人間しか映らない。逆に考えれば、幻影でできた鏡には、幻影しか映らない……。そういうこともあるんじゃないかと思ったんだ」
「……つまりここは幻影の世界だと?」
「敵は現実にいる。でもオレたちは、現実にはいない。だから敵の気配も感じられないし、見つけることもできない。そう考えると辻褄が合うと思わないか?」
「……まあ、たしかに」
アロンの言っていることは、筋が通っているように思えた。
「でもそれってつまり、ここから出ない限りはどうすることもできないってことじゃないの?」
「……そうなんだよなぁ」
もしアロンの仮説が正しいとするならば、そもそも最初に倒した魔物でさえ本物だったかどうか怪しいと思われた。この屋敷の中自体が異空間のようになっているのは、入る前の時点でアロンが言っていたことだ。それならばもうこの中に足を踏み入れた時点で、敵の術中に嵌っていたのかもしれない。
「アロン、無策が過ぎたんじゃないのか?」
「どういうことだよ」
「だから、屋敷に入る前にもっと対策を練るべきじゃなかったのか、って言いたいんだ」
「オレが悪いっていうのか!?」
「そうは言ってないけど……」
「言ってるだろ!」
「言ってないってば!」
ルシウスはアロンとしばし睨み合いをした。だがこんなところで言い争っていても仕方がないというのはお互いわかっていたことだ。ルシウス達はどちらからともなく溜息をつき、怒りの矛先を納めた。
「そんなことより、ここからどうやって出るべきか、だよな」
「そうだね……。さっき言っていた魔術師に何か対策は聞いていないのかい?」
「あー……」
アロンは天井を仰いで、それから目を瞑り思考を巡らせる。
「とはいっても、あいつは異空間を操るタイプの魔術師じゃなかったからな……」
ルシウスもアロンに倣って、自分の持っている知識を総動員させて何か対策がないか考えた。時折村に来ていた魔導師たちはどんなことができただろう。一体何を言っていただろうか。
――魔物はどんなものだったかしら、ルー。
「なあ、アロン。ここにいる魔物はどんなやつだと思う?」
「はあ? なんだいきなり」
「いいから」
「んー……。野生動物が変化したタイプとはまた違うだろうな」
森に生息する魔物の多くは、何らかの突然変異のようなもので野生動物が凶暴化したようなものが多い。少し前にルシウスが倒した黒い狼もそれの一種だ。
「じゃあここにいるのはどんなのなんだ?」
「そうだな、魔物が死ぬときに粒子になることは知ってるだろ?」
「もちろん」
「その粒子と、お前みたいな魔導師が使う魔法が変に作用して、おかしな魔物ができるっていう研究があるらしい。特に、そこに人の負の感情とかそういったのが絡むと、魔物が発生しやすいって話だ」
「……ここにいるのもそういうやつだ、ってこと?」
「その可能性高いだろうな。……それで? その話がどうかしたのか?」
「うん、この魔物って、屋敷全体を支配しているようなものだろ? それを維持し続けるためには何か媒介がいると思うんだ。それを壊せば出られるんじゃないかと思って」
「媒介、か。なるほどな」
「それで、多分その媒介も、俺達と一緒で鏡が映らないと思うんだけど、しらみつぶしに探すには物が多すぎる。だからちょっとでも、当てを絞ろうかと思って」
「意図は分かった。それでその「当て」とやらに見当はついたのか?」
「はっきりと分かったわけではないけど……」
ルシウスの頭にある光景が浮かんだ。今いる屋根裏部屋の下、主寝室に来る前にアロンがしていた行動だ。
「日記帳、とかどう思う?」
使用人の部屋でアロンが捲っていた日記帳のことだ。
「……あぁ、確かに人の思念は集まりやすいかもしれない。……当たってみる価値はあるかもな」
よし、と言って立ち上がったアロンは、鏡台を見て動きを止めた。
「なあ、ルシウス」
「なに?」
「お前どうやって鏡を運ぶつもりだ?」
「……あ」
鏡はこの鏡台に取り付けられたものしか、今のところない。だがこれごと運ぶのは現実的ではないし、取り外すのも簡単ではなさそうだ。
「……割る、とか?」
苦笑いでルシウスがそう答えると、アロンは肩を竦めた。
「…………確か二階のどこかに令嬢の部屋があっただろ? そっちで手鏡か何かを探す方が早いんじゃないか?」
「……そうしよう」
ルシウスは少し項垂れながら、梯子を降りようとするアロンの後ろついて行った。
2022/04/27
2022年短編2-4
「あった」
二階にある若い娘の部屋と思しき部屋、その寝室にあるサイドテーブルの中に探していたものはあった。ルシウスはその小さな手鏡を手に振り返る。
「こっちもあったぞ」
ニヤリと笑ってアロンが手に持っているのは、革表紙の本――いやおそらく日記帳だ。
二人はうなづきあって、ルシウスの持つ鏡にその本を翳した。
「……読みも当たったらしいな」
その手鏡に、日記帳は映っていない。移るのは天井ばかりだ。
「これを壊せばいいのか?」
「まあ……、そうなんだけど。他にもいくつかあるはずだから、それを全部探してからにしよう。一気に壊さないと、修復されてしまうかもしれない」
「なるほどな。……って、もしかしてまた屋敷中を回らなければならないのか?」
「――……そうなるね」
うんざりしながらも二人は、手鏡と令嬢の日記帳を手に部屋を出て行った。
「これで全部か?」
「多分」
主寝室へ戻ってきていた二人は、屋敷の中から見つけ出した日記帳四冊をテーブルの上に並べた。
「で、どうやって壊すんだ?」
「壊さない。浄化する」
「は?」
「この日記帳が、魔物の核みたいなものになっていることは、アロンも気付いているだろう?」
「ま、まぁな……」
「なら、並大抵の力では壊せないのも、分かるんじゃない?」
魔物の核――つまり魔石は、かなり大きな力を加えなければ壊れる代物ではない。拳で砕いたり魔法で破壊なんてことは、基本出来ないと思っておいた方がいい。だが、例えば強い力を持った魔物の核は、置いておくだけで何かしらの悪影響を及ぼすものがある。それを無効化するために使われる方法が「浄化」だ。
それは一般常識の範囲なので、当然してるはずのアロンだが、それでも納得はしない。
「日記帳が核みたいなもんだからって、浄化するなんてバカ言うんじゃねぇよ! 核の浄化に何人の魔導師が必要だと思ってる!?」
通常、核の浄化のためには、力が強い魔導師――特にルシウスと同じ光の力を持つ神官たちの力が必要だ。だが、一人でできるというものではない。複数名、最低でも四人を欲しいところだ。
この日記帳は魔物の本体の核ではないため、そこまでの人員はいらないかもしれないが、一人でできるものではない――、というのが一般的な考えだ。アロンが怒るのも無理はない。
しかしルシウスは首を横に振った。
「俺ならできるよ」
「何言ってる! さっき魔物あぶり出したのとは、わけが違うんだぞ!?」
「知ってるよ。いいから下がってて」
ルシウスの意志が固いのを見て取ると、アロンは不服そうな顔をしながらも数歩下がった。これしか方法がないのを、アロンも分かっているからだろう。
彼が離れたのを見て、ルシウスは日記帳に視線を戻した。
並べられた四冊の上に手を翳す。
魔石の浄化は、自身の光の力で相手の魔力を上書きするようなイメージでやればいいらしい。村にいた頃、教師である魔導師がそう言っていた。彼がそう言って浄化してみせたのは、小石とも言えないような、砂粒のような魔石だったが。
実を言うとルシウスは実践したことはない。だがやらなければこのままここで死ぬだけだ。
「っ……」
日記帳に向かって自分の力を入り込ませようとする。しかし当然のことながら反発があるのかうまくいかない。それでも無理に力を込めると少しずつだが日記帳から魔物の力が抜け、自身の持つ光の力に置き換わっていくのが感じられた。だがその時――
「あっ……!!」
翳していた手、その腕に裂傷がはしった
「ルシウス!」
「いいから! 大丈夫だ、任せて……!!」
駆け寄ろうとしていたアロンを、無事の方の手で制止する。アロンは足を止め、緊張した面持ちのままその場に留まった。
彼が立ち止まったのを見て、ルシウスも再び日記帳に集中する。
もう少しで終わる。
そう思った時、視界が弾けるような衝撃がはしる。
ルシウスはそれに意識を飲み込まれた。
「……ん」
ルシウスはあたたかい抱擁の中で目を覚ました。
「目が覚めたのね」
その涼やかな声にハッとして身を起こす。
「レ、レイティア……?」
「ふふ、やっと応えてくれた」
「応えて……? ああ、もしかして……、何度か助けてくれていたかい?」
「そうよ、聞こえていたの?」
「聞こえていた、のかな。うん、多分聞こえてた」
「そう……。なんだこれからはもっと、私の声を聞いてね」
「うん。助けてくれてありがとう、レイティア」
「当然よ、私のルー。ああ、でもそろそろ目を覚まさなくてはいけないわ……」
「……どういう?」
そう尋ねながらも、ルシウスは急速に意識が遠のいていくのに気付いた。
ここにはレイティアとルシウスしか存在しない。きっといつもの夢の中なのだろう。
「ねぇ、レイティア。また、会えるよね……?」
「あなたが迎えに来てくれるなら」
「……必ず行くよ」
その言葉を最後にルシウスは現実の世界へと戻っていった。
「――ウス! ルシウスッ! 目を覚ませ、バカ!」
「いっ……、誰がバカだ……」
耳元で発せられた大声に頭を押さえながら目を開けると、目の前にアロンの顔があった。
「よかった……。このまま死なれたら目覚めが悪い……」
素直に生きててよかったとは言えないのかと思いつつ、ルシウスは起き上がろうと右手を床についた。
「いっ……!!」
「あ、このバカ! 傷だらけなの忘れたのか?」
アロンの言葉に右腕を見ると、日記帳の浄化の際についた裂傷がそのまま残っていた。
「傷は本物なのか……」
「みたいだな。死ななくて良かったな」
ルシウスは肩を竦めた。
「そういえばここは?」
「玄関先。入ってすぐ幻術にかけられたらしいな。ここで仲良く二人とも寝こけてたみたいだぜ」
たしかにアロンの言う通り、後ろを振り返れば初めに入ってきた扉があった。
「ここは現実?」
「……だと祈ろうか」
確かめようにも手持ちの鏡などあるはずもない。
「まあ、十中八九、現実だと思うがな。オレ達がこんなところにいるんだ。浄化は成功したとみて間違いないだろう。……問題はここからだな」
「敵をどうやって倒すかってこと?」
「そ。このまま突っ込んで行っても、さっきの二の舞だろうしな」
「媒介は無効化したのに?」
「媒介を用意するような巧妙な敵が、次善の策を用意してないと思うか?」
「……たしかに。でもどうする? それとも、尻尾を巻いて逃げる? そんなこと、まさかしないよね」
「そうなんだよなぁ……。前金、貰っちまったしなぁ……」
ルシウスとて女神像の情報があるから来たのだ。このまま逃げるわけにはいかない。
そう考えてルシウスはふと思った。
「前金? ……いやお金の事はいいんだ。それよりも、もしかして何か言ってない情報があるんじゃないのか」
いやそもそも、「言っていない情報」以前に、ルシウスはほとんど何も聞かされていないことを思い出す。ついて来いと言わんばかりに連れてこられてそのまま今ここにいる。
「アロン、次の手を考えるにしても、きちんと情報共有してくれないと困る」
「……悪かったよ。ここまでの敵だと思っていなかったんだ」
項垂れるアロンを見て、ルシウスはそれ以上の追及は控えた。今大事なのは彼を責めることではない。
「それで? 依頼主から聞いた情報は? 何かあるだろう?」
「……ある、とはいえそう多くはない。そもそも、この屋敷には誰も入れなかったんだ。そこで得られる情報なんて大したものじゃない」
「聞いた情報全部教えて」
「まず、一ヶ月前までは何の変哲もない廃屋だったらしい。ただ、盗賊か何かならず者が根城にしていたらしく、最初はそれを追い出すような依頼だったらしい。だがそれを引き受けた冒険者が、ならず者たちが慌てて出ていくのを見た」
「慌てて?」
「そう、何かに追われるみたいに。まあなんにせよその冒険者にとっては好都合だな。だがそれでも、一応中に誰も残っていないか確かめようとしたらしい。そうしたらもう扉は開かなかったそうだ」
「それから中に誰も入っていない?」
アロンは頷いた。
「そこで依頼主は、また別の人間を雇って、逃げ出していったならず者たちを探したらしい。捕まったならず者たちが言うには、地下にあった壺を壊してしまった、と。するとその壺から、黒い煙のようなものが出て仲間の一人を絞め殺したのだそうだ」
「その仲間を見捨てて逃げたってこと?」
「はじめは、助けようとしたらしいがな。その黒い煙とやらは、掴むことができなかったそうだ。だからなすすべなく逃げ出した、と言ったらしい」
「掴めなかったのに、人を絞め殺したのか?」
「ああ。不思議な話だろ」
「……それ以外に情報は?」
「ない」
そう言い切ったアロンに、ルシウスは溜息をついた。
「それだけの情報で、敵を『大したことない』と判断した理由は?」
そう尋ねると、アロンはバツが悪そうな顔をした。
「……正直、
しゅんとしているアロンを見ていると、ルシウスはそれ以上何か言う気にはなれなかった。
「アロン、落ち込んでても仕方ない。とりあえずその地下に行こうか。何か分かるかも」
「けど地下も、さっき散々行っただろ?」
「『幻影の中で』ならね。でも俺たちは、死体を見てないだろ? ならず者たちがその絞め殺されたという人を、助けられずに逃げたと言うなら、何か残っていないとおかしい」
「……そうだな。よしわかった、行こう」
ルシウスは立ち上がり、アロンに右手を差し出しかけてそれが傷だらけなのを思い出す。だから代わりに左手を差し出した。
アロンは、ちょっと困ったように笑って、その手を握り返した。
2022/04/29
2022年短編2-5
「腕、大丈夫か?」
地下への階段を先導しながらアロンはルシウスにそう訊ねた。
「まあちょっと痛むけど、平気」
「なら、とっとと終わらせて町に戻ろうぜ。早く手当てした方がいいしな」
ルシウスはアロンに頷き返す。
「それにしても……、何回、屋敷中を回らせれば気が済むんだよって話だよな……」
「まったくだね……」
幻影の中での出来事も含めると、二人がこの階段を降りるのは実に三回目だ。飽きもするというものだ。
「今のところ……、幻影の中の時と大して変わりなさそうだね」
「だから余計飽きるんだけどな……」
そうこうしているうちに、ルシウス達の目の前に地下室の扉が現れた。地下は倉庫になっている。この扉を抜ければ、あるのは小さな小部屋一つだ。
もっとも、幻影の時のままなら――ではあるが。
「よし、開けるぞ」
扉に手をかけたアロンがこちらを振り返ってそう言った。ルシウスも頷き返す。
アロンは慎重に、扉を細く開けた。
「何かある?」
ルシウスが小声で話しかけると、アロンは少し緊張した面持ちで頷いた。
「まあある意味、予想通りではあるけどな」
カロンが扉を開き中に入る。ルシウスもそれに続いた。
「あ……」
ルシウスはその床に白骨化した遺体が倒れているのに気付いた。
「さっき言ってたならず者かな」
「多分な」
骨に服が着せられたような状態で倒れている。少し汚れたいかにも平民が着ているような貫頭衣だ。
「これは……、魔物が食べた?」
「『食べた』にしては、キレイすぎやしないか?」
「たしかにそうだね。でもそれじゃあ……?」
死体の周囲には肉片のひとつも残っていない。閉め切られていたはずの部屋なのに腐った臭いのひとつもないところを考えると、腐り落ちて無くなったというわけでもなさそうだ。
「こいつはちょっと厄介かも知れないぞ……」
辺りを調べていたアロンが呟いた。
「どういうこと?」
「こいつが食ったのは、人の肉じゃなくて魔力の方かもしれない」
アロンが顔を上げてそう言う。だがルシウスには、ますます意味が分からない。
「魔力を食った?」
「そう。魔導師は人間にも多少……、本当に微量ではあるが魔力がある。やつはそれを取り込もうとして肉体ごとを取り入れたのかもしれない」
「それで骨が残ったって?」
「魔力は肉体の中に、血液みたいに流れてるからな。骨にはあんまり含まれてないらしい」
「………つまり、その人を殺した後、魔力だけを取り込んだから、骨と服が残ってるってこと?」
「そうだ。これは厄介だぞ……」
「どうして?」
「わからないか? 魔力を食うことは、魔法が効かない可能性が高い」
「あ」
「その上、ならず者たちの言うことを信じるなら、触れもしないらしいしな」
「……それって、どうやって倒すのさ」
「さぁて。二人で逃げるか?」
「その方が賢明かもね。……でも、前金、貰っちゃったんだろ?」
「……本当のこと言うなよぉ」
アロンは項垂れてシオシオしていたが、それでも目の輝きは消えておらず、ひとつも諦めていないことは明白だった。
「ん? ルシウス、袖口に虫がついてるぞ」
アロンの指摘通り、右袖の血の跡を辿るように、小さな虫が一匹ついていた。
「本当だ、気付かなかった」
アロンはサッと立ち上がると、ルシウスの右袖を掴んで、その虫をつまみ上げた。
「あんまり見たことない虫だな……」
アロンの指の間で、プチッと音を立てて虫が潰された。
だが、指を離してみるともうそこに虫の死骸すらなかった。
「え……」
代わりに黒い粒子が解けるように消えてゆき、小さな小さな石がコロリと床に落ちた。
「これ、魔石……!?」
ルシウスは、しゃがみこんで落ちた石を拾い上げた。
死んだ後死骸が残らず、黒い粒子になり、また、魔石を残して消えたあの虫は、明らかに魔物だと状況が証明していた。
アロンもしばらくは驚いたままルシウスの拾った魔石を見ていたが、しばらくしてニヤリと笑った。
「なるほど、そういうことか……」
「? 何か分かった?」
アロンはニヤニヤしたまま頷くと、サッと上階を指差した。
「さあ行こうぜ、魔物狩りだ!」
意気揚々と地下室を飛び出していくアロンを、ルシウスは頭をひねりながら慌ててついて行った。
2022/05/01
2022年短編2-6
「アロン、いい加減教えてよ。どこまで行くつもり?」
彼は、いいからいいからと言いながら、屋敷の外へと出て行く。一瞬出られないのではないかと心配したがそんなことはなく、特に何の障害もなく外に出ることができた。
「魔物を狩るんじゃなかったのか?」
「狩るさ。――あれ、見ろよ」
アロンが指し示したのは、屋敷の裏手にある小さな物置小屋だった。屋敷と同じように長い年月を感じさせる以外は何の変哲もない小屋だが、その入口である扉は少し異様だった。
「あれ、さっきの虫?」
「やっぱそう見えるよな」
小屋の扉の下は、先ほどルシウスの袖についていた虫がびっしりと蠢いていた。
「ちょっと気持ち悪い……」
「あぁ、オレもそう思って、前に一人で来た時は違うのをやめたんだ。でも、あの虫が魔物だとしたら話は変わってくるだろ?」
「……まさか、一匹一匹潰していくなんて言わないよな」
「そうじゃないことを願うが……。オレの見立てでは、中に親玉がいるんじゃないかと思ってるんだ」
「親玉?」
「そう、巣を統括する女王蜘蛛といったところかな」
「そいつを倒せばなんとかなる?」
「なる…と思いたいな」
ならなければ、さっき言ったように一匹一匹潰して回らなければならないのだろう。そう考えると少しうんざりした。
「でもやらなきゃ、だね……」
「その通り。行くぞ!」
アロンは物陰から飛び出すようにして虫たちの方へと近づいていった。
「待って、アロン。僕がやる」
「はあ? お前、怪我人なの忘れたのか?」
「その小さいの剣で倒そうとするほど、無謀な君に言われたくないよ」
「おっと、誰が剣であるなんて言った?」
そういったアロンは、不意に人差し指を立て虫たちの方へそれを振り下ろすような動きをした。それに呼応するように指先に炎が現れ、それが虫たちの方へ飛んでいく。それは瞬く間に虫たちを覆い、だが小屋の方は傷つけることなく全ての虫たちを魔石へと還した。
「魔法が使えたのか……」
「お前ほどじゃないけどな」
「いや僕は、この光の力以外は使えないから」
そういうとアロンは不思議そうな顔をした。
「そうなのか? なら練習不足か、教師が悪かったんだな。オレの見立てじゃ、きちんと学べばすぐに俺なんか追い抜くさ」
ルシウスはアロンの言うことがいまいち信じられず、肩を竦めるに留めた。
2022/05/02
2022年短編2-7
「まあ、そんなことより。早速中に入ってみるか」
ルシウスは頷くと、先行するアロンについていった。
「そらよっ!」
扉の前まで辿り着いたアロンは、小屋の扉を蹴破った。
古い木の扉だ。鍵も脆くなっていたのだろう。難なく扉は開いた。
「うわ……」
中は真っ暗だったが、その床には外にいた子蜘蛛のような魔物がびっしりと蠢いている。
量が尋常ではない。さっきのものに比べても、輪をかけた気色の悪さだ。
だがアロンの予想とは違い、親玉らしき魔物の存在は確認できなかった。
「あっれ……、ここだと思ったんだけどなぁ……」
アロンがそうぼやきながら小屋の中に足を一歩踏み入れる。その足の下で小蜘蛛がプチプチと音を立てて潰れる音がした。
「うぇ……」
それに気を取られたアロンが下を向いた時、ルシウスは何が嫌な予感を覚えた。その予感に突き動かされるようにルシウスは、アロンを自分の体ごと押し倒した。
「っ!!」
背中に鋭い痛みが走る。何かに切り裂かれたようだった。
「なっ、ルシウス!?」
ルシウスの下敷きになったアロンは、ゆっくりと起き上がり、そう叫んだ。
「一体、何が――、あ……」
ルシウスは痛みを堪えながら起き上がろうとする。その時はアロンが天井の方を見て、驚愕の表情を浮かべているのに気付いた。
「アロン……?」
「やっぱり、いやがったらしいな……」
ルシウスも痛みを堪えながら、アロンの視線の先へ振り返る。
「あ……、女王蜘蛛……」
そこには小蜘蛛とは比較にならないほど大きな、蜘蛛が天井に張り付いたままこちらを見ていた。その蜘蛛の足の内の一本に布が引っかかっている。先ほどルシウスの背中を裂いた足があれなのだろう。
「……下がってろ」
アロンはルシウスを引きずって壁際まで後退すると、剣を構えて蜘蛛と対峙した。
「アロン……」
どうするつもりなのだろう。痛む背中押さえながらルシウスはアロンの背中を見るしか出来ない。
その時ふと先ほど受けた怪我から流れた血で汚れた床に、子蜘蛛が群がっているのに気付いた。
地下の骨と服しか残っていない死体は、あの子蜘蛛が食べたものなのだと気付いた。あの小さいのが群がれば、肉片の一つも残るはずがない。
今その子蜘蛛は、アロンの足を伝って登ろうとしている。彼もそれに気付いてないはずはないと思うが、それを振り払っている余裕も無いのだろう。
先ほどの彼の表情から察するに、あの女王蜘蛛は決して弱い相手ではない。その上手負いのルシウスを庇いながらの戦いになる。いくら彼が強かろうとも、簡単な戦いにはならないだろうと予測された。
「なら……」
ルシウスは自身の体に鞭打って壁を背にどうにか立ち上がった。
そして、光の力を使って小蜘蛛を消し飛ばした。
「おい、下がってろって言っただろ、ルシウス!」
「このくらいできるよ。自分の身も守れる。それに、『後方支援を頼みたい』そう言ったのは君だろ」
「……お前」
アロンはルシウスの決意が変わらないのを見てとると、ニヤリと笑って女王蜘蛛の方へ向き直った。
「なら、小物は頼んだぜ相棒!」
そう叫んで、アロンは女王蜘蛛の方へと走っていった。
後ろを気にしなくて良くなったアロンの動きは、目覚ましいものだった。
正直こちらも支援などいるのかと、そう思わされるくらいだ。
「これならすぐ片がつきそうだな……」
――本当にそうかしら、ルー。
ふとレイティアの声が聞こえた気がして、ルシウスはハッとした。
相手は幻術を使う。今目の前にいる大きな蜘蛛も本物かどうかわからないことに、気が付いた。
「どうにかして確かめないと……」
周囲を見渡したルシウスは、小屋の窓にガラスがはめられているのに気づいた。鏡には遠く及ばないが、あれでも反射を利用して幻術を見破ることができるのではないか、ルシウスはそう考えてその窓に走り寄った。
そのまま殴って割ろうとして、右手が痛むのを思い出した。だが、それを我慢して拳を振り上げる。
「怪我は今更だ……!」
ガラスに拳を叩きつけると、バリンッと大きな音がしてガラスが割れた。その細かな破片が、ルシウスの腕をさらに傷つける。だがかまわなかった。
割れたうちの手頃の破片を拾い上げ、ルシウスは蜘蛛を見た。
「アロンッ!! 本体は足の方だ! 僕の服の切れっ端が引っかかってる足!」
「……ッ、了解だ!」
アロンは言うが早いか地面を蹴り、ルシウスが指定した足を切り落とした。だがまだ本体には傷がついていない。落とされた足の中に丸々残っているのだ。
ルシウスはその落ちてくる足の方に走り寄り、最後の力を振り絞って光の力を手のひらに集めた。
「これで、終わりだっ!」
その力を切り落とされた足に叩きつける。その足はビクリと一瞬はねた後、黒い粒子となって消えていった。
他の子蜘蛛たちも、それに呼応するように粒子となって消えていく。気がつけば辺りには魔石しか残っていなかった。
「っあ〜〜! やっと終わったのか!?」
アロンは横にどさりと腰を落とし、大きなため息をついた。
「多分、もういないよ」
「それは良かった。――っと、そんなことよりお前、腕の傷……、おい? ルシウス?」
何? と返事したつもりだったが、それは声にならなかった。
意識が急速に遠のいていく。切羽詰まった声で名前を呼ぶアロンを最後に、ルシウスは気を失った。
気が付くと、ルシウスは花咲き乱れる庭園にいた。
「……ここは?」
庭園の東屋に腰を下ろしていたルシウスは、隣にもたれかかるレイティアを見た。
「私の思い出の場所よ」
「思い出?」
「そう……。遠い、遠い昔の思い出……」
故郷の村の領主邸より、さらに大きな――城とでもいえばいいのだろうか、そんな建物が見える。
「どんな思い出があるの?」
「私が一番幸せだった頃、それが封じ込められた記憶の
「どうして?」
「はるか昔に打ち捨てられてしまったから。だから今はもう、こんな風に花も咲いていないし、美しくもない。ただ枯れ果てた草木と朽ちた廃墟があるだけの場所よ」
レイティアの言うとおり、この場所はあまりにも美しかった。彼女の想像も含まれているのだろう。
「ここに戻りたいの?」
レイティアは黙ったまま頷いた。
「でももう戻れない」
「僕がいても?」
レイティアはその問いに何も答えなかった。
「……迎えに来てね、ルー。それが私を救ってくれるから」
ルシウスは、もちろんという意味を込めて彼女を抱きしめた。
2022/05/03
2022年短編2-8
「ん……?」
「――お、目が覚めたか?」
レイティアの代わりにルシウスの目の前に現れたのはアロンの顔だった。
「アロン……? ここは、っ……」
「あ、おい無理すんなよ。自分がケガだらけなの忘れたのか?」
そう言われてようやくそれまでの事を思い出した。自分の右腕と背中の怪我のことだ。背中の痛みをこらえつつ、それまで寝ていた寝台に身を横たえる。
「それで、ここは?」
「病院だ。あの後のこと覚えてるか?」
「……いや、あんまり」
「お前の助言のお陰で蜘蛛を倒したとこまで覚えてるよな?」
アロンの問いかけに、ルシウスは頷いた。
「あの後ぶっ倒れたお前を、俺は担いで一番近くの町まで戻ってきた。そっからお前は病院にとりあえず預けて、依頼主に事の次第を報告したんだ」
「っ、そうだ、女神像は!?」
「まあ落ち着けよ。その女神像はあの屋敷にあると言われてる。だから俺様は気を利かせてたなぁ、『まだ小物が入るかもしれないから、もう一度調査をしてくる。それまで待ってくれ』そう言って依頼主を待たせてある。だからまあお前は、との傷を治して、それからゆっくり探しに行こうぜ」
「……嫌だ、もう行けるからすぐに行く」
「は? あ、おい!」
あっけにとられるアロンを尻目に、ルシウスはベッドから起き上がった。多少痛むが動けないほどではない。
慌てたアロンは、ルシウスの肩を掴んで引き留めようとする。
「安静にしてろ、って。まさか女神像が歩いて逃げるって言うわけじゃないだろ?」
「それでも早く確かめたいんだ……!」
ルシウスはアロンの手を振り払い病室を出ようとした。
「あ〜、もう! 持って、って! 分かったよ、俺も行く」
「え、けど……」
「俺が誘った依頼で怪我させたんだから、その後始末も俺の責任だろ。それに一人で行かせて何かあったらどうするつもりなんだ。……どうしても行くんだろ?」
ルシウスは、レイティアのことに関してアロンを巻き込むことを少し躊躇した。だがこのままここで食い下がっても、無理やり病室に縛り付けられるか黙ってついてくるかのどちらかだと思われた。
早くレイティアを救いたかった。
だから、ルシウスは頷いた。
「よし、となれば看護師に見つかる前に行くぞ」
そうしてこっそり病院を二人で抜け出した。
病院から抜け出した二人は、くだんの屋敷へと舞い戻っていた。
「それでお前はどんな女神像を探してるんだっけ」
「水晶……のように澄んだ石でできた女神像だ」
「んー……。あんまり聞かない話だな。でもここのは、水晶で出来てるって話だぜ」
「へぇ。それは誰からの話?」
「依頼主だ。依頼主が小さい頃にここへ忍び込んだことがあったらしい、その時にそんなのを見つけたとかいう話だったな」
「……何でまたその話を聞いたんだ?」
「女神像を探してるってお前の話は、ここ最近では有名になってたからな。その上強い光の力を持ってるという話だし、ぜひ力を借りたかったんだ。だからこの話なら食いついてくれるんじゃねぇかとな」
「じゃあ僕は、まんまとのせられたわけだ」
「お、怒るなよぉ。交渉材料はいくらあってもいいだろ?」
「まあね。――それで? どの辺りで見つけたとか聞いてないの?」
「ま、子供の行くところなんて、みんな一緒だろ」
「? どういうこと?」
「屋根裏さ」
ルシウスはなるほどとうなずきながら、アロンの後をついていった。
一度目の時とは違い今度はすんなり屋根裏への道を見つけることができた。
隠し方は幻術で見たときと同じだったため、鉄の棒に頭をぶつけるという愚を犯さなかった。
「よっと」
身軽にはしごを登っていくアロンの後ろをルシウスは追った。右手の怪我のせいで、少々を上るのに手こずったが、どうにか屋根裏へとたどり着く。中の様子は幻術で見た時とさほど変わりはない。
「どこにあるんだろうなぁ……」
そう言いながらアロンは、屋根裏の窓を開けた。長く閉じられていたためか錆び付いており開けるのに難儀していたが、最後はほぼ力ずくで開け放つことに成功した。
「よし、これでだいぶ中が見えやすいな」
その時、外からの陽の光を受けてきらりと何かが反射するに気づいた。その光の反射をたどり、部屋の奥へとルシウスは歩いて行った。
「あ……」
「あったな」
ルシウスの後ろからひょいと前をのぞきこんだアロンがそう言った。
確かに「あった」。女神像は存在した。だが――
「違う……」
ルシウスは暗い声で言った。
「おい、ルシウス?」
異変を感じ取ったアロンが心配げに、ルシウスの顔を覗き込むとする。だがそれより前にルシウスはその女神像を掴み上げた。
そう、つかみあげることができるのだ。
その女神像は確かに水晶で出来たような透明な像であった。しかしルシウスの求めているのはこんなものではない。
満月の光を落とし込んだような美しい月の色をした石、それでできた等身大の女神像だ。
「違う、彼女は、こんな矮小な存在じゃない……!!」
ルシウスは激情に駆られるままに、その女神像を床に叩きつけた。
ガシャンッ、とひどい音がして、女神像は粉々に砕け散った。それを見下ろしていても何の感情も、ルシウスの胸には浮かんで来なかった。
ただ胸に渦巻くのは、彼女ではなかったという激しい怒りだけだ。
「お、おい、ルシウス……」
アロンは怒るルシウスをなだめようとしているのか、ルシウスの肩に手を置いた。だがルシウスはそれを乱暴に振り払う。
「退いてくれ、僕は探さなきゃいけない。こんなものじゃない、もっと偉大な彼女を……」
アロンはルシウスの剣幕にしばし呆然としていた。だがはっとしたようにルシウスを追いかける。
「ま、待て、ルシウス!」
「のけと言ってるだろう!?」
激昂するルシウスにアロンは、それ以上言葉をかけるのを少し躊躇しているようだった。だが意を決したように、ルシウスをまっすぐ見つめた。
「もう一つだけ知ってる」
「……何を」
「女神像を」
ルシウスはアロンを睨むのを止め、少し話を聞く気になった。それにホッとしたのか、アロンの表情も多少和らぐ。
「オレも詳しいことは知らない。場所も大まかにしか知らないんだ。でも、お前がさっき壊した女神像を「矮小だ」と言えるような女神像を知ってる」
「どこにあるんだ」
「王都に。それ以上は知らない」
「……わかった」
ルシウスはそう言って身を翻す。
「おい! ルシウス、お前はまだ怪我人なんだぞ! どこへ行くつもりだ!?」
「決まってるだろ」
ルシウスはアロンの制止を振り切り屋敷を飛び出していった。
行き先など決まっている。
王都だ。
2022/05/04
2022年短編2-9
屋敷を飛び出していったルシウスを呆然と見送ってしまったアロンは、一人途方に暮れていた。
もしかして、とんでもなくまずいことを言ってしまったのではないかという後悔に苛まれていた。
ルシウスには、「場所は知らない」といったがそれは嘘だった。
ただ彼の狂気的な何かに、思わず口が滑って言ってしまったのだ。だからせめてもの抵抗として、場所は知らないと言ったものの、あの調子ではきっとすぐに見つけてしまうだろう。
女神信仰の廃れたこの国の王都で、女神像が――しかも荘厳な女神像がある場所など限られてくる。
「……くそっ」
自分のこの過ちが、ひどいことにならないことを祈りながら、アロンは屋敷を飛び出す。もちろんルシウスを追いかけるためだ。だが彼の姿はこの付近には無かった。
「行き先が分かっているのが、せめてもの救いか……」
アロンは焦燥を滲ませながら、ルシウスを追って王都へと向かった。
「レイティア、君は王都にいるの?」
王都への道をひた走りながら、ルシウスは頭の中に響く彼女の声に問いかけた。
――えぇ。そのとおりよ。
「どうして最初から教えてくれなかったの?」
――あなたが私のために必死になっているのを見ていたくて……。ごめんね?
そう言われるとルシウスも怒る気が失せた。愛する女のわがままだ多少のことなら何でも許せる気がした。
「王都に着いたら、君がどこにいるか教えてくれる?」
――えぇ。今度は意地悪なんかしないわ、ルー。
「よかった」
ひたすらに歩いてみれば王都はそう遠い場所ではなかった。ほぼ不眠不休で歩いたが、大して疲れを感じていない。右腕や、背中の傷も大したことなかっただろう。あの日以降ろくな手当てをしていないが、痛むことはなかった。
光の力の持ち主として有名になりつつあったルシウスは、王都へも冒険者としての証明証を見せれば難なく入ることができた。
門兵が何かを言っていたが、ルシウスには何と聞き取ることもできなかった。だが行く手を阻むわけではなかったので、それを無視してルシウスは王都へと入った。
「次はどこへ行けばいい、レイティア?」
――簡単なことだわ。私を隠しながら閉じ込めているの、そんなことができるのは限られているでしょう?
「……王宮?」
――いいえ、彼らは絶対に私をそこへは入れないわ。
「なら……?」
――もう分かるでしょう?
ルシウスは顔を上げた。王都で最も目立つ建物は当然のことながらこの国の王が住まう城だ。だがもう一つ、この都の中で存在感を放っている建造物がある。
「あれのこと?」
――その通りよ。でも誰でも入れる所じゃないの。
「……つまりどうしたらいいの?」
――私はあそこにとらわれてから空を見たことがないの。
「なら、地下に君はいるんだね」
――その通りよ、私のルー。助けに来てくれるわよね?
「もちろん」
ルシウスはふらふらと歩きながら、その建造物の地下への道を探すことにした。
レイティアの声がはっきり聞こえるようになると、それまで思い悩んでいた全てが些末なことに思えるようになった。
情報のない女神像を探していた頃に比べて、なんと気が楽なことだろう。
――こっちよ、ルー。
彼女の声に導かれるまま、ルシウスは王都の外れ、林の中に来ていた。
「随分建物から離れてしまったけれど、本当にこっちで合ってるのかい?」
――あら、私が信じられないの、ルー?
「そういうわけじゃないよ」
――じゃあ何も心配しなくていいわ。
彼女の声のまましばらく進むと、小さな小屋があった。何の変哲もない山小屋のように見えるが、その前には武装した神官が立っている。
明らかにただの山小屋ではない。
「まさかあれ?」
声を潜めてレイティアに問う。
――そうよ。あそこの中から地下に繋がる通路が続いてるわ。
なるほどと思ったルシウスは木々に身を隠しながら、神官たちを観察した。外套に忍ばせていた小さなナイフを取り出して構える。
「でもまあ、相手はこれを使うほどでもないけどね……」
ルシウスは木の陰から飛び出して、二人の神官たちに迫った。
「な、なんだお前は!?」
驚いた彼らの声も意に介さず、ルシウスは光の力で目くらましをした後、そのまま昏倒させた。
――殺せばよかったのに。
レイティアの声が響く。
「……血で汚れるのが嫌だっただけだよ」
――ふふ、そうね。
いかにも楽しそうにレイティアは笑った。
――さあ行きましょう。
ルシウスは小屋の扉を開ける。その中は下の見えないほど長い下り階段があった。
――ここを降りればもうすぐよ。
レイティアの言葉にルシウスは頷くと、その長い階段を一歩一歩降り始めた。
2022/05/05
2022年短編2-10
下り階段降りると、そこは薄暗い神殿のような場所だった。石造りの古びた地下施設、とでもいえばいいだろうか。
「この先?」
――えぇ、そうよ。でも邪魔者がいっぱいいるはず。全員倒してね?
レイティアの声が聞こえた時ちょうど、ルシウスの存在に気付いた男たちが慌ててちらに来た。
「何者だ!?」
ルシウスは騒がれる前に倒してしまおうと、地上にいた者たちと同じ要領で昏倒させた。だが、うち一人がまだ意識を保っていたらしく、懐から笛のようなものを取り出して思いっきりそれを吹いた。
警報装置のようなものなのだろう。向こうから慌てた様子の男たちはわらわらと現れる。
「女神像はどこだ」
手短に問うと、彼らにざわりと動揺が走った。
「こいつまさか、あれを狙って!?」
「お前、あれに何をするつもりだ!」
悲鳴のような声で問いかけられる。
「解放する」
「なっ!?」
再び男たちに動揺が走った。そこからいち早く立ち直った、中でも身分の高そうな男は慌てて周りに指示を飛ばす。
「その男をここから通すな!! 非戦闘員は××××に報告に行け!」
指示された者たちはバラバラと各方面走り、残った者たちはこちらへ向き直った。
「お前は何者だ!」
先ほど市場とはしていた男が、改めてルシウスに問うた。
「ルシウス。お前たちから、愛する女神を解放しに来た」
それだけ言うとルシウスは、一気に彼らに距離を詰めた。アロンとの短い旅路で、近近接戦も、多少は腕が上がっていた。ナイフと光の力で十人ほどいた敵を、片っ端から無力化していく。
「その、光の力……」
床に倒れ伏しうめき声をあげる一人が、驚きに満ちた顔でルシウスを見た。
「どうして……? その力を持つならばお前は×××××のはずなのに……」
「……何を言ってるのかわからない」
ルシウスは呻く男を見下ろす。本当に所々聞き取れないところがあった。正確に言うと声は音として拾っているのに、意味が理解できなかった。
「ねぇ、どうしてかな、レイティア」
――あなたに必要のないものだからよ。
「そう」
ルシウスは動けなくなった男たちに背を向けて、また再び歩き出した。
「レイティア、だって……?」
先ほど呻いていた男がそういった気がしたが、ルシウスの関心はもうそこにはなかった。
2022/05/07
2022年短編2-11
この地下空間は、レイティアを閉じ込めておくためだけの使節のようだ。
歩き出せばすぐにつきあたりにルシウスはたどり着く。
そこには大きな扉があった。それにそっと手を這わせる。
「この先に、君がいるんだね」
――えぇ、そうよ。だから早く助けて、ルー。
ルシウスは力を込めてその扉を押し開けた。
「きちまったのか……」
どこかで聞いたことのあるような声がした気がした。一番先頭に立つ男は鮮やかな赤毛をしており、これをまたどこかで見たことがあるような気がする。
だがそんな男への関心は、ルシウスの中からすぐに消し飛んでしまった。
そのずっと後ろに、探し求めていたものがあったからだ。
「あぁ、レイティア……。やっと君を見つけたよ」
ルシウスはもうそれしか見えていなかった。早く彼女に近づかなければ。そして彼女を解放してやるんだ。そのことしかもう頭にはない。
その前を取り囲む神官たちの集団など、もうルシウスの目にはほとんど映っていなかった。
だがルシウスを止めようとしているのは、こちらへ向けられる敵意によって理解していた。ルシウスは、ナイフを構えてその中に飛び込んでいく。
ほとんどの人間がすぐにやられていく中で、一人だけ――最初に何か懐かしいものを感じた男だけが、ルシウスと対等に切り結んでいた。
「もうやめろ、××××。お前の×××××××××、もう××××? なら××、×××××××!」
「うるさい、消えろ」
――そうよ、ルー。早くその男を殺しなさい。
「××××……!! ×××××××××!?」
「うるさい! 意味のわからないことを叫ぶな!」
ルシウスは男の持っていたナイフを弾き飛ばす。そして、そのまま自分の持っていたナイフを男の腹部に刺した。
「っぐ……」
男は崩れ落ちる。ルシウスはそれを意に介さずナイフから手を離し、ゆっくりと女神像の方へ近づいていった。
「ねぇ、ここまで来たよ、レイティア……。やっとだ、どうすればいい?」
――眠り姫を起こすには、どうすればいいのかしら? わかるわよね、ルー?
「あぁ、分かったよ……」
ルシウスは女神像の足元に跪く。夢にまで見た月の光の色を灯した荘厳な女神像を見上げる。
「×××……!! ××××ッ!!」
「君を愛しているよ、レイティア」
ルシウスは、女神像のつま先に口付けた。
その瞬間、女神像が強く光を放った。目を開けていられずにルシウスは腕で目元を覆う。
次に目を開けた時目の前にあったのは、石の像ではなかった。
そこには滑らかな女の足があった。視線を上げれば、夢で見た女の姿――ただ一つ違うのは、髪が真っ黒に染まっていた。
そして――
「ふふふ……、あぁ、やっと自由になれた」
そう言って、ルシウスの女神はひどく邪悪に口角を吊り上げた。
「ありがとう、あなたのおかげよ、ルー」
レイティア――、と思しき女は、その場でしゃがみこんでルシウスと目線を合わせた。
声は夢の中で聞いた通り優しいものなのに、身体が震えだす。本能が、この存在は危険だと訴えていた。
女は、細い指をルシウスの頬にそわせ、いかにも愛おしげに撫でた。
「あぁ……、なんて愚かで可愛らしいのかしら、私のルー」
「おろ、か」
「ふふふ、だってそうじゃない。私の言うことだけを信じて、私の言う通りに動いてくれた。ねえ知ってるかしら、ルー?」
女が笑う。いや、嘲笑っていると言った方が正しいかもしれない。
「この封印はね、今『勇者』と呼ばれている男が施したものなの。だから、これはあの男の生まれ変わりであるあなたにしか決して解けないものだったのよ」
「どうして、『勇者』は君を……」
「さあどうしてかしら。ただこれだけは言えるわ。私は、あの男の裏切りを絶対に許さない」
ルシウスは言葉の意味が分からず、ただ呆然と彼女の言葉を聞いていた。
彼女が立ち上がる。
「私はあの男のことを、とても憎んでいるの」
とても優しげな笑顔で彼女はそう言った。
「だから、あの男の興した、この国もいつか滅ぼしてやりたいと思っていたのよ。だからありがとう、ルー。これで念願が果たせるわ」
彼女はそう言って微笑むと、上機嫌に笑いながらまるで魔物が死ぬ時のように黒い粒子のようになった。そうしてルシウスをすり抜けて、部屋を出て行った。
一瞬の出来事だった。
「僕は……」
ルシウスは手のひらを見る。そこには先ほど男を刺した時の鮮血がまだこびりついていた。
その血を見ていると、それまで靄がかっていた視界が開けていくような気がした。そしてハッとして後ろを振り返る。
「……よぉ、正気に戻ったか?」
そこに倒れているのは、先ほど自分が刺した男――アロンだった。
そのことにようやく気づいたルシウスは、彼が叫んでいたことがもやっと意味を成して理解ができた。
『もうやめろ、ルシウス。お前の探していた女神像は、もう見ただろ? ならもう、充分じゃないか!』
『ルシウス……!! オレがわからないのか!?』
『やめろ……!! ルシウスッ!!』
彼は何度もルシウスの名前を呼んでくれていたのだ。それにあの時は何一つ気づくことができなかった。どれほど自分がおかしくなっていたかがよく分かった。
「ア、アロン! 僕は…なんてことを……」
這いつくばるようにして彼の元へ向かう。
「……ばーか。お前も怪我が治りきってないのに、無茶する……」
言われてみれば右手の血は、アロンのものだけではない。最初の治療以降ろくに手当もしていなかった右腕から再び出血が始まっていたのだ。
アロンの腹の傷は、未だに白い神官服を赤く染め続けている。このままでは彼が死んでしまう。そうわかっていたが、ルシウスにはどうすることもできなかった。
自分も血を流しすぎていたのだろう視界が暗くなっていくのを感じていた。
ルシウスは耐えきれなくなって、アロンのそばに倒れこむ。
「ごめん、ごめんな、アロン……」
今更になって自分のしでかしたことの大きさにおののいていた。何よりアロンを傷つけたことが苦しくて仕方がなかった。
「ばか、オレの怪我に関しては、お前は何も悪くねぇよ。オレの失態だ……」
「そんなこと……」
ルシウスはなおも反論したかったが、それ以上は意識を保っていられそうになかった。
その時周囲がにわかに騒がしくなる。微かにアロンを心配する声が聞こえた。
ルシウスは目を閉じて、アロンが助かるならこのまま自分は死んでもいいと思った。
そう思った時、アロンの声が聞こえた。
「そいつも、助けてやってくれ……。話も聞かなきゃならない。何より、オレのダチなんだ……」
ばかはそっちだ。
ルシウスはそう思ったが、声にはならなかった。
2022/05/09
2022年短編2-12
ルシウスは穏やかな鳥の鳴き声につられるように目を覚ました。
ぼんやりと何があったのだったかと考えながら、右手を持ち上げる。
「……右手がある」
包帯でぐるぐる巻きにされてはいたが、そこには五指が揃った己の指があった。
「そりゃ良かったな。うちの神官たちの腕が良いからだぞ」
「へぇ……。――っ!?」
聞き慣れた声に何の気なく返事を返して、数秒。その声の主に思い当たり、ルシウスは慌てて起き上がろうとして、背中の痛みに阻まれ失敗した。
「あ、おいおい……。寝てろよ、お前結構重症なんだぞ」
「アロン……」
そこには隣に置かれたベッドに腰かけて笑う、自分が殺しかけた男の姿があった。
「……腹、大丈夫なの」
少し気まずいものを感じながらも、ルシウスはそろりとそう聞いた。
「あぁ……。結構深かったんだけどな」
アロンはそう言いながら、上の服をぺらりとめくりあげる。そこには包帯の巻かれた。割れた腹筋がある。
「幸い、致命的なもんじゃなかったから、すぐ治るさ。ちょっと大げさに見えるけどな」
そう言ってからりと笑うアロンに、ルシウスは泣きたくなった。
「…………ごめん、僕は謝って許されるはずもないことをやってしまった」
握りしめた右手は痛かったが、そんなことは気にならないほどの後悔に苛まれていた。
アロンは黙って、ルシウスを見ていたが、しばらくして小さくため息をついた。
「そうだな。本来なら、今頃処刑台の上かもしれないぞ」
「『彼女』は、それほど悪しき存在……?」
今のルシウスにはあそこがどこで、また行く手を阻んできた男たちは何者だったのかもう理解していた。
あそこは王都にある大聖堂の地下だろう。そして、男達は神に仕える神官たちだ。
あの時には理解できなかった言葉が思い出される。
『その力を持つならばお前は「我らの同胞」のはずなのに』
ルシウスは光の力を使うといった男が発した言葉だった。聞き取れなかったはずの「我らの同胞」という言葉が、今更になって思い出される。
ルシアスほどの力を持つ人間はまれであったが、ささやかな光の力を持つ人間は多数存在する。彼らは皆、かつての勇者の血をどこかで継いだ者たちだと言われている。当時は勇者しか持ち得なかったその力は、王家から貴族へと広まり、時代の流れとともに次第に平民の中へも広がっていったのだろう。何十世代も遡れば、実は貴族や王家の血が混ざっていることなどそう珍しいことではない。
そうして生まれた光の力を持つ子供達は、力が強ければ魔導師に、弱ければ神官となる場合が多い。光の力は、その強さと使い方次第では癒しの力となり、それが神官となるためのひとつの条件だからである。
先ほどアロンが「うちの神官たちの腕が良いからだぞ」と言ったのも、それが理由だ。おそらくその神官たちの癒しの力がなければ、ルシウスは指を何本か、ヘタをすれば右腕ごとなくしていたかもしれないのだろう。あの時は気づかなかったが、腕の傷は開き血が流れ出していた。それを気付かず、ほぼ不眠不休で王都まで歩いた上、ナイフを握り戦闘までしたのだ。一番最初にした手当などもう意味をなしていなかっただろう。
その時ふと、ルシウスの中に疑問が湧いた。
「アロン、なぜ君は神官の格好をしていた?」
彼がルシウスに刺された時、その身にまとっていた服は神官たちと同じものだった。白い服が血で染まっていたのをよく覚えている。
問いかけると、アロンは気まずげに少し視線をそらして頬を掻いた。
「あー……。えっと、オレ、あれなんだよ。大司教様の息子、ってやつ」
「……は?」
ルシウスは一瞬彼が何を言ってるのかわからなかった。大司教といえば、ありていに言うと神官たちの中で最も偉い人間である。
「そんな人間が、どうして冒険者を……?」
「……その、反抗期?」
どうやら彼は父親の後を継ぐのが嫌だったらしい。その結果家を飛び出して冒険者に身をやつしていたと言う。ルシウスも家を飛び出したのは同じだがその責任の重さは段違いだ。
ルシウスがあっけに取られていると、アロンは照れを隠そうととしているのか少し怒ったような声で続けた。
「でも、だな! お前、オレがいたから、今ここにいられるんだぞ!」
「……どういうこと?」
先ほどの「処刑」と言う言葉が思い出される。ルシウスはレイティアを救いたい一心で起こした行動だったが、それはとても大変なことだったのだと今は理解している。どう問題なのかはまだよくわかっていなかったが、それでも解き放たれた彼女を前にした時のあの手の震え、恐怖は忘れられない。
「お前が解き放ったのは、『災厄の魔女』だ」
それを聞いたルシウスは目を開き、言葉が出なかった。「災厄の魔女」は、建国の勇者が出てくる物語では必ず出てくる存在だからだ。
勇者に倒される悪役として。
「でも、あれは……、物語、じゃ……」
「『勇者』が存在するなら『魔女』がいても不思議じゃないだろ」
アロンの言葉はもっともだった。
災厄の魔女は、世界を滅ぼそうとして勇者に封じられたとされている。勇者の持つ強い光の力、それによって封じられたものは、勇者本人かそれと同等の力を持つ人間の力でしか、その封印を解くことはできない。
「じゃあ、僕は……」
利用されたのか。
その言葉は最後まで出すことができなかった。アロンも察しはついていただろうが、何も言いはしなかった。
しばしの間沈黙が下りる。それを破ったのはアロンだった。
「お前の処刑――、可能性としてなくなった訳じゃない」
ルシウスは顔を上げた。
「処刑、になっても、文句は言えないな」
自嘲気味に笑うと、アロンは首を横に振って「まあ聞け」と言って続けた。
「解き放たれた魔女は、もう一度封じるか、できれば滅してしまいたい。だが、それは力のある者達が束になってもなかなか叶わない話だ。――だがお前は違う」
「……解いたものは、もう一度封じれるだろう、ってこと?」
アロンは頷いた。
「『魔女を殺せ。さすれば、処刑は撤回してやる』これが上の決定だ」
ルシウスはすぐに答えることができなかった。自分のやってしまったことの後始末はつけなければならない。それでも魔女――レイティアを殺すのにはためらいがあった。
利用されたと分かった今でさえ、ルシウスから彼女への想いが、消えてはいなかったからだ。
黙ったままのルシウスにアロンはため息をついた。
「……即決してくれるなら、これは言わないでおこうと思ったんだがな。でも、知らなかった、じゃ後悔させるだろうから、酷だろうが言うぞ」
アロンは意味のわからない前置きをしてルシウスにこう続けた。
「お前が引き受けなければ、オレもともに処刑される」
「な、なんで!?」
「女神像の場所を教えたのが、オレだからだ」
「でも、アロンは大司教の息子なんだろう!?」
「厳密には世襲制じゃないからな、特に俺は神官としての能力はあんまりだから、さほど問題じゃない」
「でも……!!」
言い募ろうとしたルシウスを、アロンは首を振って止めた。
「これが最大限の譲歩なんだ。お前はそれだけのことをしたし、オレもそのきっかけを与えてしまった。その点では同罪なんだ」
ルシウスは黙り込むしかなかった。
それを見てアロンも苦笑いをする。
「ごめんな、これじゃあ脅してるのと変わらないのにな……」
ルシウスは、ふるふると首を横に振った。
「行くよ。これは君の命を盾に脅されたからじゃない。僕もしたことの落とし前をつけるためだ」
ルシウスは彼の方を向いてしっかりとそう宣言する。アロンはただ無言で頷いた。
2022/05/12
2022年短編2-13
「最近っ、魔女の夢は見るのか!?」
アロンがルシウスに向かって剣を振りかぶりながら、そう問いかけた。
「いや、まったく、だっ!」
ルシウスも負けじとそれを剣で受け流しながらそう答えた。
魔女――レイティアを殺すと決めた日から、早ひと月が経っていた。腕や背中の傷もだいぶ良くなり、最近はアロンの指導のもと剣術や魔法の扱いについて学ぶことに精を出していた。
右腕の傷は動きに支障こそないわ、放置しすぎたためかうっすらと跡が残っている。自分が彼女に惑わされアロンを殺しかけたことを思えば、安く済んだ対価だと言えるだろう。
「っ、あ!」
アロンの攻撃にルシウスの剣が弾き飛ばされた。ルシウスの手を離れくるくると宙を舞ったその長剣は、背後の地面に深々と突き刺さる。
ルシウスは尻餅をついて両手を上げた。
「降、参……。ちょっと休憩させて……」
「……仕方がないな」
苦笑いのアロンは、持っていた剣を鞘に納めると、ルシウスと同じように地面にドカリと腰を下ろした。
ルシウスはぜーはーと肩で息をしているが、アロンは涼しい顔だ。剣術においては力の差がありすぎる上、長いこと病人として生活していたため筋力も落ちていた。それが理由だと言いたいルシウスであったが、同じく病人だったのはアロンも同じである。むしろ、彼の方が重症だったのだ。言い訳さえさせてくれない。
ルシウスは少し恨めしげに、流れる汗を袖で拭うアロンを見た。
「まったく上達した気がしないんだけど……」
「……はぁ?」
アロンは、全く心にもないこと言われたようで目を丸くして、しばしルシウスを見ていた。
「何言ってんだか……。この前までまともな訓練を受けたことがない人間とは思えない成長なんだぞ? 第一、魔法ありの戦闘だったら、正直お前の圧勝だろ?」
「……お世辞はいいよ」
ルシウスは肩を竦めた。
確かにアロンの言うとおり、ルシウスが元から持っている光の力を最大限使えば、「圧勝」なのかもしれない。だが、その力をうまく使いこなすことができていない現状では、アロンの方がはるかに、格上の相手であった。
「お世辞なんかじゃないぞ? 訓練を始めた頃に比べたら、かなり腕は上がってきてる。追い越されるのもすぐだ。オレが先輩面してられるのも今のうちだけだからなぁ」
アロンは後ろに両手をついて、空を見上げた。
今日はとてもいい天気だった。――魔女が解き放たれたとは思えないほどに。
レイティア、いや、「災厄の魔女」はこの国をひどく恨んでいるらしい。絵本に出てくるような魔女は、ただ国や勇者を脅かす「悪役」でしかなかったが、歴史書に記載されている彼女とは「ただの悪役」とは少し違う。
ルシウスも知っている「レイティア」の名前で記載されている彼女は、はるか昔は高名な魔導師だったらしい。それこそ世界中に名を轟かせるような。だが何の因果か勇者たちをひどく憎み、国を滅ぼさんとしていた。それゆえに勇者たちによって封印されてしまったのだという。
勇者たちが力を合わせても、殺すことができなかったからだ。
それ以降王都の地下深くで秘密裏に神官たちによって封印が施され続けてきた。初めに勇者が施した封印が溶けてしまわないように。
それでも
レイティアはそれを成すためにルシウスを利用した。それをもうルシウス自身もこのひと月の間で理解していた。
もう久しくレイティアが「助けを求める」夢は見ていない。だが――
「……魔女はいつ国を襲いに来るんだろうな」
アロンがぼんやりとそんなことを言った。
「魔女」は、この国を滅ぼさんとしている。今はどこかで全盛期の力を取り戻しつつ、機会を伺っているのだというのが、神官たちの総意であった。
ルシウスもそれを否定したいわけじゃない。しかし、素直に頷くにはいささか抵抗があった。
「本当に来るのかな……」
独り言のようにそうつぶやくと、アロンが少し痛ましげな目でルシウスを見た。
ルシウスはそれに苦笑を返し、視線をそらした。
「最近、少し変な夢を見るんだ」
「……どんな」
「勇者になって世界を旅しているんだ。魔物を倒しながら、いつか人々が安全で暮らせる場所を作れるように」
「魔女に『勇者の生まれ変わり』だって言われたこと、気にしてるのか?」
「……そうかもしれない」
そう返しながらも、真実はそうではないのだとルシウスはどこかで分かっていた。
夢でルシウスは「勇者」だった。勇者の視点でただ世界を見ていく。
そしてそれはきっと、過去に本当にあったことなのではないかと思い始めていた。
「――ただの夢さ。あんまり気にするなよ」
よほど思いつめた顔をしていたのだろうか。アロンはルシウスを慰めるように肩を叩いた。
「わかってるよ。……続きをしようか」
「そうこなくっちゃな」
ルシウスは立ち上がって、遠くへ飛んで行った剣を拾いに行った。
ああ、また夢の中だ。
ふわりと浮上してきた意識の中、ルシウスはそう思った。現実と見紛うような鮮明のその夢は、一人の男を視点にルシウスはただ傍観するだけの夢だった。
男の視点で夢は進んでいくが、こちらの意思ではしゃべることもできないし、動くこともできない。この身体を動かしているのは、後に「勇者」と呼ばれる男だと、何度かの夢を経て気づいていた。そして――
「ルー!」
いかにも嬉しそうな顔でこちらへ走り寄ってくる少女がいた。
「ティア、走ったらまた転ぶぞ」
ティアと呼ばれた少女は、ルシウスがずっとレイティアと呼んでいた女だった。
「大丈夫よ、それにほら」
少女は指にできた切り傷をこちらに見せて、にっこりと微笑む。するとその傷がたちまち消えてしまった。
「私は『人間』ではないもの。怪我なんてへっちゃらだわ」
「そう言って、怪我したのをごまかすんじゃない」
後に勇者と呼ばれるルーと呼ばれる男――ルドは、少女の頭を拳でグリグリとする。だが大して痛くはないのか、長女もキャッキャと嬉しそうに微笑んでいた。
仲睦まじい恋人同士。そんな言葉が似合う二人だった。
一度目に夢を見たのは、レイティアとの別れから半月ほどが経った日だった。その日の夢は、ルドと少女が出会う夢だった。
ルシウスにはすぐにその少女がレイティアだと分かったが、ルドは彼女を見てこう言った。
『月の精霊……?』
満月の夜、小さな湖で水遊びをしているところを見たのだ。
それからすぐ二人は仲良くなった。月の精霊に名前がないことを知ると、ルドは彼女に「レイティア」という名前をつけ、「ティア」と呼びかけるようになった。
「ルー」が、「ルド」の愛称だと気づくのにそう時間はかからなかった。
そして何度目かの夢でルドが成長した頃、彼は世界を脅かしつつあった魔物を、掃討する旅に出た。
彼は何の変哲もない青年だった。「勇者」の代名詞である光の力は、レイティア――いや、月の聖霊によってもたらされたものだったのだ。
レイティアは、ルドの旅に当然のごとくついていった。彼を助けたのも二度や三度ではない。旅に出た頃の「勇者」は、本当にただの凡庸な青年だったのだ。
月の精霊の加護を与えられたルドは。次第に自分でもその力を使えるようになっていった。その頃から彼は「勇者」と呼ばれるようになっていったのだ。
魔物を倒し、人々を救い、仲間を増やして強敵に立ち向かっていく――。まさに物語の勇者そのものだった。
元々は月の精霊のものであった力を、自身のものであるかのように振る舞うさまは、ルシウスには少々を解せないものがあったものの、彼の役に立つことが本当に嬉しそうなレイテは見ていれば、それは瑣末なことのように思えるのも事実だった。
そしてついに「勇者」は、当時最も力を持っていた魔物――魔王と言っても差し支えのない知能、魔物たちの統率力などを兼ね備えた人型の魔物を討ち果たした。
そしてその魔王が占領していた地域に、勇者は新たな国を興したのだ。それを称える人々の熱狂は凄まじいものだった。
ルドの目を通してその様を見ながら、ルシウスは疑問が膨らんでいくのを感じていた。
数年かけてなされたこの偉業の傍には、いつもレイティアがいた。彼女はルドの役に立つことを心から喜んでいるようであったし、ルドの方も、振る舞い見る限りはレイティアを大切にしているようであった。
『ねぇ、ルー。私、これからもこの国をずっと守っていきたいわ』
『そうしてくれると嬉しいね。どうしたって俺は、精霊である君より先にこの世を去るだろうから』
ルシウスは二人がそうやって国を守っていくものだと思えてならなかった。だが現実には、レイティアは、この国をひどく憎んでいる。その現実との乖離が不可解でならない。
『それなら私、少しだけあなたのそばを離れて旅に出ようと思うの』
レイティアは、ルドにそういった。
『どうして?』
『国を護る結界を張ろうと思うの。そのためには国の何箇所かに魔法陣を書く必要があるの。それは私にしかできないから』
『……分かったよ。それならば君が帰ってきたら、式をあげよう』
『え?』
『俺が死ぬ時まで、君にそばにいてもらわなければ困るから』
『……本当に?』
『ああ、俺が君に嘘をついたことがあった?』
レイティアは本当に嬉しそうに笑って、ルドの問いに首を振った。
『すぐに帰ってくるわ』
『待ってるよ』
将来の約束をした二人は本当に幸せそうだった。ルドはレイティアを抱きしめて、髪を撫でる。彼女もその手にうっとりと目を閉じていた。
幸せそのものだった。
これ以上見ていられない、そう思ってしまうほど。
この夢はシーンが途切れるように場面が移り変わることがある。ルシウスが似た二人の様子は、それほど多いものではない。
出会い、二人が交流を深め、勇者が旅立ち、魔物を倒し、仲間を集め、そうして魔王を倒す。
それらを断片的に眺めていた。ルドの視点でしか物事を見られないためか、見える部分が偏っているような気がした。主に見えたのはレイティアのことだ。
そして不思議なことに、視点人物であるルドの心はルシウスには伝わってこなかった。
だから、ルシウスは彼もまたレイティアを心から愛しているのだと信じて疑わなかった。だからこそ、彼に強い嫉妬心を覚えていた。
しかし――
『行ったか』
レイティアか国を守護する結界を張るための旅に出た後のことだ。
彼女が旅立つ寸前まで、その身を案じ無事を祈念して祈っていたはずの男が、うんざりしたような声音でそういった。
『はい、陛下』
後ろから近づいてきたのは純真そうな小柄な少女だ。魔王を倒した仲間であった男の妹だった。
『これから、どうなさるのですか?』
『さあ? 無事に帰ってくることを祈ろうじゃないか』
レイティアの無事を祈っているような言葉でありながら、どこかその言葉には嘲りの色が見える。
『陛下も人がお悪いわ』
少女もクスクスと小馬鹿にしたような笑い声を立てた。
ルドの突然の変わりように、ルシウスは戸惑いを覚えていた。何かこれから嫌なことが起こる――。そんな予感があった。
その疑念を払拭できぬまま、また場面は切り替わる。
執務をしていたルドの元に、レイティアの帰還が知らされたのだ。
『……そうか。ならば、手厚く迎えてやらねばな』
そうどこか冷たい声で言った彼は謁見の間へ場所を移した。
『……ルー!』
姿を現したルドに感激したようなレイティアの声が響いた。愛しい男に久方ぶりに会えたことが嬉しくてならないのだろう。
だが嬉しそうな彼女の表情も長くは続かなかった。
『……ルー? 私、やっと帰ってこれたの。喜んではくれないの?』
彼女の言うとおり、ルドは無言のまま玉座に腰掛けた。
『ルー? お願い、何か言って……』
不安げなレイティアの声に、ルシウスも不安になった。どうしてルドは何も言わないのだろう。
しばらくの沈黙の後、ルドはようやく立ち上がった。階段を下りレイティアの前に近づいて行く。
それにやっと不安が軽減されたのかレイティアの表情も多少柔らかいものになる。
『ルー、帰ったわ』
『ああ、ご苦労だった』
ここに来てはじめて発した彼の声は、「王」のそれだった。かつてのような恋人に呼びかけるような、柔らかさは微塵もなかった。
それに気付いたのだろう。レイティアの表情も再び不安に曇る。
『ルー……、ルド? どうしたの?』
不安に揺れるレイティアの瞳に、ルドの姿が映っていた。
ルシウスは息を飲んだ。
ルドのレイティアを見下ろす瞳が、あまりにも冷たいものだったからだ。
『ああ……、本当にご苦労だった、ティア。だから――』
その時何が起こったのかルシウスは一瞬分からなかった。ただ気が付くとレイティアが胸から血を流していた。そこには剣がふかぶかと突き刺さっている。
その柄を握っているのはルドだ。
『ど、どうして……?』
口からも血を流しながら、信じられないような顔をしてレイティアがルドを見上げていた。
『「どうして」? 分からないか?』
ルドは、何のためらいもなさげにリーティアに刺した剣を引き抜いた。血がそれまでの比ではなく流れ出す。その状態が見えているはずなのに、ルドは剣を一振りして血を払うとそれを鞘に収めた。
『お前が危険だからだよ、ティア。いや、「月の精霊」。平和な世に精霊の力は不要だ』
ルドの声はあまりにも冷たかった。ルシウスは信じられない思いでそれを聞いていたが、それも、その言葉を自分を愛していると思っていた男から言われたレイティアの比ではないだろう。
『だから、私を殺すの……?』
『そうだよ。俺が自ら手を下すのは恩情だと思ってくれ』
『おん、じょう……?』
その時、レイティアの目から一筋の涙がこぼれた。そしてそれを皮切りに狂ったように嗤い始めた。
『恩情!! これが!? これがあなたの恩情だというの!』
『愛している男に殺される。最高だろ?』
ルシウスはもう意味が分からなかった。レイティアは狂ったように嗤い続ける。
『ルー……、ルド!! 馬鹿にされたものね……!! 私はこの程度じゃ死なないわ!』
『ああ、知ってるとも。だから――』
ルドがレイティアに向かって手を広げた。
『なっ』
レイティアが、驚きに満ちた表情で足元を見た。ルシウスもつられるように下方を見ると、彼女の足が固まって言っているのがわかった。まさに以前、ルシウスが探していた女神像のような月の色をした石に変化していっていた。
『だから封印させてもらう。これから先、俺ほどの光の力の使い手は現れないだろうから、決してこれが解かれることはない。だから……、さよならだ、ティア』
そう言っている間にも、レイティアどんどん石になりつつあった。足首から太もも、腰、胸と順に固まっていく。
その頃にはレイティアの瞳には、もはや一片の愛情もない。そこにあるのは憎しみだけだった。
『……呪ってやる。 必ず、何年、何十年、何百年経とうとも、必ずここから抜け出して、この国を呪ってやる! 焦土に変えてやるわ!!』
それがレイティアの最後の言葉だった。
もうそこには生きたレイティアはいなかった。ただ女神像が一体存在するだけだ。
『呪う……? ばかばかしいことを……』
だがルシウスは、ルドの手が震えているのを見逃さなかった。
その後、ルドのもつ光の力は、彼の子供そのまた子供そのまた――と、受け継がれていく。そしてその子らに、ルドは女神像の監視を命じていた。
ばかばかしいと言いながら、この男はレイティアからの報復を恐れていたのだろう。
そしてレイティアは、この時の言葉の通りルシウスを見つけ出し、今この国を呪おうとしているのだろう……。
2022/05/16
2022年短編2-14
「……っ!」
ルシウスは急激に覚醒して身を起こした。
悪夢を見た時のように、身体は嫌な汗でぐっしょりと濡れていた。かぶっていたシーツをきつく握りしめ、項垂れた。
「――自業自得、じゃないか……」
かつて「勇者」と呼ばれた男は、自身を「勇者」たらしめた月の精霊――レイティアを裏切り、殺そうとした。
彼女はその報復をしようとしているだけだ。何もおかしなことなどない。当然の結果だった。
勇者、いやルドに出会った頃や、ルシウスの夢の中に出てきた彼女が、眩いばかりの金髪の髪を持っていたのに対し、解放された「魔女」が漆黒の髪をしていたのも納得がいく。
月の精霊は、憎しみで闇に堕ちた。
きっと、そういうことなのだ。
「レイティア、僕は……」
ルシウスはやるせない思いでいっぱいだった。
だが――、窓から差し込んできた朝日で夜が明けたことを知る。
「僕は、君を再び殺さなければならない……」
魔女が解放された日から三ヶ月。今日はアロンと共に「魔女討伐」へと出発する日だった。
2022/05/17
2022年短編2-15
レイティアは、その場所にゆっくりと足を踏み入れた。
「……ここは、本当に――」
その後の言葉は続かない。
見る影もなく変わってしまった。そう思いもしたし、全く変わらないとも思ったからだ。
この場所が打ち捨てられてからいったいどのくらいの時が経ったんだろう。
レイティアは、うっそうと生い茂る雑草のすきまに残る、枯れた花に触れた。かつては、この花にも生き生きと生命が宿り、この場所はそんな花々で溢れかえっていた。
長い時を放置されたこの庭は、その頃の面影は存在しない。しかし、振り仰いで残る建物を見れば、そこにはかつて過ごした日々が蘇るような気がした。
レイティアは解放された後、国中を回った。
その昔、ルー――ルドのためにと、国を守る魔法陣がある場所へと赴いていたのだ。それらは機能することなく、
だがそれのどれも、それ単体では動くことはない。要は別の場所にあった。あとはそれを国を「守護」するためではなく「崩壊」させるように書き換えるだけだった。
それを済ませて、一度起動してしまえばもうこの国は人の生きることもできる土地ではなくなる。
あとほんの少しで積年の恨みを晴らすことができる。そう思えば、嬉しいはずなのに、胸に湧き上がるのはなぜか苦しさばかりだった。
「……こんなもの、すぐ消えてしまう感傷だわ」
レイティアは触れていた花を、ぐしゃりと握り潰した。
今更こんなことをして何になるのか。そんな想いに蓋をするように。
「それで、探すあてはあるのか?」
王都を出発し、人気のない山道に入ったところで、ルシウスはアロンにそう問いかけられた。
「……絶対、ってわけじゃないけど」
ルシウスはこの数ヶ月で見た、レイティアとルドの過去を思い出す。
端的に場所だけ言おうかと思ったルシウスだが、少し考えた上でアロンに向き直った。
「答える前に、少し聞いてほしい話がある」
ルシウスはそう切り出して、夢で見た月の精霊と勇者が話をした。
「――これが本当にあったことなのかは、僕にも分からない。けれど……」
アロンは首を振ってルシウスのそれ以上の言葉を留めた。
「いや、わかった。……正直、信じがたい話だけどな。でもそれがもし本当なら、色々と辻褄は合う…と思う」
アロンもしばらくは頭を抱えていたが、しばらくすると意を決したように口を開いた。
「実は、お前のことがあってから、『災厄の魔女』について少し調べたことがある。ほら、オレは大司教の息子だろ? 検閲がかかってる本も多少は見る権限があるんだ」
「……そこで、何かを見た?」
アロンは黙って頷いた。
そういった話になるのが分かっていたからこそ、彼は人気のない山奥に入ってからこの話を始めたのだとルシウスは気づいた。
「あんまり褒められた話じゃないのは分かっていたんだけどな、禁書の類も見た」
「禁書?」
「そう、例えば……勇者――初代国王の側近が残した日記、とかな」
「日記が禁書に?」
「それだけ知られたらまずいことは書いてあるって事だろ。――その側近は、勇者が国王になる前から親交があった人物だった。もちろん、その時のことも書いてあった」
「つまり、勇者が魔王を倒したのそばで見てたってこと?」
「そういうことだ。ちゃんと言うと、その本は貴族や神官たちの中では広く読まれてる類のものでもあるんだ。けど、そのうちの一部分はこの長い時の中で散逸したと言われてたんだ。けど、オレが見たそれには、『無い』って言われてたはずの部分もしっかり存在した」
「隠したい部分を故意に消した……」
「そうだろうな。でも、誰かはそれに反対して隠したんだと思う」
「……それでその『隠したい部分』には、レイティアの記述があった、そう思っていいんだよね」
アロンは首肯した。
「少なくともその日記には、勇者のそばに常に魔導師がいた。その魔導師は特別な存在で、月の精霊の加護を受けている。……そういう風に書かれていた。そしてその二人がとても仲睦まじいとも」
「僕の見た夢と一致するね」
月の精霊本人だと言うよりも、「加護を受けている」と説明したほうが納得はしやすい。勇者――ルドは、周りにそのように説明していたのかもしれない。
「オレの読んだ日記では、その魔導師は国を守るために放浪の旅に出て以降、二度と戻らなかったと書いてあったよ」
「……そう」
魔王を倒し人々を救った勇者として、力の強すぎる月の精霊を切り捨てたなど、とても周囲には話せることではないだろう。その日記の主が真実を知っていたのかどうかはともかく、魔導師の存在を知っていた多くの者は、そう聞かされたのだろうと思った。
「正直な、ルシウス。その日記を見てから、『災厄の魔女』討伐するのが、本当に解決になるのか少し悩んでる」
「アロン……」
「わかってる、彼女が憎しみを捨てられない以上、やらなければならない。それに何より、オレが悩むことじゃないっていうのも」
アロンは悲しげな顔でルシウスを見た。ルシウスもこの度に、本心から納得しているのか自分でも分からなかった。ただやるせない思いを打ち消そうとするかのように、ぎゅっと手を握りしめた。
「――村に、」
「うん?」
「村に、教育係として神官が来てたんだ。僕は勇者の再来だからって」
月に何度か着ていたその神官は、光の力に固執していたように思う。
「その神官から、光の力をどう放出させるかとかを学んだけど、うまくできないと殴られた。その中で助けを求めるレイティアが支えだったんだ。いつかもっと成長したら、きっと彼女を助けに行こう、って……」
彼女がいなければ十六年もの間、あの村で「勇者の再来」と言われ続けることに我慢ならなかったのではないかと思った。
「そうか……」
アロンはそれだけ言った。へたな慰めやいたわりの言葉は、今のルシウスをかえって傷つけると分かっていたのだろう。
だがしばらく沈黙が落ちた後、ふとアロンが思い出したように声を上げた。
「そうだ、その神官だよ」
一体何事かとルシウスはアロン見た。
「そいつ、王都から派遣されてただろ? だからお前が最低限の知識すら身についていないことに気づいた上層部が、派遣されてた神官は誰だ、って大騒ぎになったんだよ」
「え……」
「まあその神官は、お前の出来が悪いからだーとか喚いてたらしいけど、お前を見たらあいつが嘘をついてるのは一目瞭然だろ?」
言われてみれば、勉学のようなことは何もしていなかったの思い出す。その点、アロンに学んだことは、魔法の基礎知識にはじまり、実践も含め、また光の力の最たる恩恵である傷を癒す力も学ぶことができた。よくよく考えればそれを全て、あの時の神官がするべき内容だったのだと今更ながらに気付いた。
ルシウスが神妙な顔で考え込んでいると、アロンはニカッと笑った。
「ま、だからな。お前を不当に扱ったやつは、今とんでもない僻地に左遷されたらしいぜ。もう二度と会うこともないだろうから安心していいぞ」
なんでもその僻地というのは、魔物出現率も多く、神官が毎日倒れるまで癒しの力を使わなければならないような場所だと言う。
「こんなことなら、もうちょっと罰を重くするんだったなぁ……」
アロンの独り言のようにそういった言葉に、ルシウスは気持ちが軽くなるのを感じた。
「あ! そういえば、結局これどこに向かってるんだ?」
本来を思い出したらしいアロンがそう訊ねてくる。ルシウスは静かに口を開いた。
「旧都。レイティアはそこにいる」
2022/05/18
2022年短編2-16
かつて勇者が国を興したのは、現在の王都とは別の場所だった。
彼の治世は安定した頃突如として遷都がなされ、今の場所が王都になった。
かつての都は、「旧都」と呼ばれ、かつてはきらびやかだったようだが今では廃墟と化している場所だ。周辺に小さな村がいくつかあるのみの場所となっている。当時の王族が住んでいた王城も、誰も管理する者がいなくなってからは廃墟のようになっているらしい。そもそも近隣住民すら、近づかないため、あまりいい噂は聞かない場所になってる。
その場所に近づくにつれ、ルシウス達も旧都の現場を聞き及ぶこととなっていた。
「荒れてるって話は聞いてたけど……。曲がりなりにも王都だった場所なのに、どうしてなんだろうね」
旧都に最も近い「街」と呼べる規模の市街にある宿屋で、ルシウスたちは夕食をとっていた。
元々の王都、それも初代王が国を興した場所ともなれば、観光地か何かになっていても不思議はない。
アーロンは目の前にある鳥のローストにフォークを刺しながら、さほど興味なさそうにルシウスの問いに答えた。
「詳しくはわかんねぇけど、勇者――あー、この場合『初代王』って言った方がいいか? まあそいつが、誰も近寄らないようにって、厳命したらしいぜ」
「ふぅん……」
「ま、大方『魔女』の呪いを怖れでもしたんだろ」
「……自分で殺しておいて」
「全く、勝手な話だな」
ふと話が途切れ、沈黙が落ちた。
そうしていると自然と周囲のざわめきが耳に入ってくる。不思議とうるさいと思わなかった。「穏やかな日常」、そんな風に思えた。
「なあ、ルシウス」
アロンの声にルシウスは顔を上げた。
「お前、どうするんだ」
ルシウスはその問いに、すぐに答えを返すことができなかった。
明日の朝この街を出発すれば、目的地である旧都までそう時間はかからない。ルシウスの予想通りにそこにレイティアがいれば、何がしかの「結論」は出さなければならなかった。
「……本当のことを言うと、あそこにレイティアがいなければいいって思ってる」
そうすれば彼女を探すという名目のもと、「結論」を先延ばしにできる。
封印するにしても殺すにしても、そう決断してしまえばルシウスはレイティアを切り捨てることになる。
かつてのルドのように。
だが、もしレイティアの手を取ってしまえば、それはすなわち国やアロンを捨てる決断になってしまう。そのことも分かっていた。
生まれ育った国に愛着がないわけがない。また、一度殺しかけた友を、もう一度殺すような真似もできるわけがなかった。
「『勇者』なんて、くそくらえだ……」
呻くようにそう言ったルシウスに、アロンは黙って温くなったエールを呷った。
結局、答えを出すことができないままその日の夜は更けていった。
2022/05/19
2022年短編2-17
「ここが旧都……」
寂れた村を超え、小高い丘の上にある城跡へとルシウスたちはたどり着いていた。
崩れかけた塀を抜けると、かつては立派な庭園であっただろう場所は、雑草がはびこり廃墟と化していた。
ルシウスはきょろきょろとあたりを見渡す。
「……間違いない」
「何かだ?」
「夢で見た場所だ。もっともこんな崩れた場所ではなかったけど」
夢の中で見た最盛期の美しい城の面影が、所々に見受けられる。レイティアとの夢、それからルドの記憶を交えて考えれば向かう場所は自ずと分かった。
「…………アロン」
「ん?」
「ここからは一人にしてくれないか」
「っ!?」
アロンは何か反射的に返そうとしたのか、口を開いたが言葉が出なかったらしく、不満げな顔で口を閉じた。
「僕が裏切るんじゃないかって、心配?」
「! そんなんじゃない!! ただ…今のお前を、一人にしたら――」
ルシウスは苦笑を返した。彼の言わんとすることが分かるような気がした。
一人でレイティアと会った時、彼女への情にほだされない自信があるとは確かに切れない。それでも、これは、自分だけで決着をつけなければならない問題だとルシウス思っていた。
「大丈夫。ちゃんと役目を果たすよ」
「……違う、そうじゃないんだ。今お前を一人にしたら、もう二度と戻ってこないんじゃないか、って……」
「っ――」
アロンは悔しそうに俯いた。
ルシウスは「そんなわけないだろ」と言おうとして、失敗した。
これから自分は生まれてからずっと心の拠り所にしてきた愛する人を殺す。彼女がいなくなった世界で本当にこれからも生きていられるのか――。
それにうまく返すことができなかった。
アロンは泣きそうな顔をして、ルシウスの胸を拳でドンと叩いた。
「……オレは、ここで待つ。お前が帰ってくるまで。だから絶対に、帰ってきてくれ」
「――……アロンを、こんなところで餓死させるわけにいかないな」
ルシウスはそう軽く笑って、アロンの胸を叩き返した。
そうして彼に背を向ける。
本当に帰ってこられるかは分からない。だが、待つ人がいるならば、きっとそれは希望になるだろう。
ルシウスは決意を固めて、旧王城の塀を潜り抜けた。
2022/05/20
2022年短編2-18
「やっと戻ってきた……。いえ、戻ってきてしまった、と言うべきなのかしら……」
レイティアは、かつて魔導師として愛した男――ルドのそばで生きた最期の瞬間を思い出す。
「ちょうど…この場所だった、わね」
最後の記憶よりも古び、年月の流れを感じさせる謁見の間にレイティアは膝をついた。
自分が最後に立っていた場所に、その手で触れた。。流れた血は当然残っていない。あの頃は人のふりをして生きていたため、血痕の一滴や二滴は落ちていたのだろうが、きっとすぐに誰かの手で綺麗に拭いさられたのだろう。
まるで元からそこに誰もいなかったかのように。
「あなたがとても憎いわ、ルー」
この国を焦土と変える魔法陣を、レイティアは書きはじめる。だがそれも、起動させるためだけのもののため図案はとても簡単だ。すぐに書き終わってしまう。
本当はこの国を守るためのものを、ルドのそばで仕上げるつもりだった。彼はきっと、その作業を全て終えて帰城したのだと思っていたはずだ。だから不要となった月の精霊を始末した。彼が早まったことに気づいたのは、レイティアが封印されてしばらくたってからのことだ。
動くことのできなくなったレイティアだったが、外の状況は多少なり把握できていた。だからこそ憎き己の敵であるルドの生まれ変わりをすぐに発見することもできたのだ。
「……、」
利用してしまった少年のことを思えば、ほんの少しだけ残った良心が痛む気がした。
しかし悲願は成就されようとしている。彼のことを考えてはならない。そう言い聞かせて思考に蓋をする。
だが気がつけば少年の笑顔が頭に思い浮かぶ。
彼は「魔女と結託した」として殺されてしまったのだろうか。それとも「利用されただけ」だと、恩情をかけてもらえたのだろうか。情報が統制されていたのか、彼の安否を知ることはできなかった。
「……いいえ、それは嘘だわ」
知ろうと思えば知ることができた。それをやらなかったのは、真実を知るのが怖かったからだ――。
「結局、ルー。私はあなたのことを――」
「レイティア!!」
思考を打ち切るように、少年の声が響いた。
聞き慣れた声。
その声の主は――。
「ルー……」
振り返ればそこに、「魔女に利用された哀れな少年」がいた。
「レイティア!!」
ルシウスは想像した通りに謁見の間にいたレイティアの名を呼んだ。
ゆっくりと振り返った彼女は、何の感情もないような目でこちらを見ていた。夢の中とは違う黒い髪をした彼女。顔形は同じはずなのに、まったく違う誰かを見ているようだった。
「あら、生きていたのね」
淡々と彼女がそう言った。その声にも感情がこもっているようには感じなかった。ルシウスが腰に差した短剣の柄に手をかけながらも答えられないでいると、彼女は皮肉げに笑った。
「新たな勇者として、魔女を殺せとでも言われてきたのかしら」
ルシウスは緊張鎮めるように、ゴクリと生唾を飲み込んで短剣を鞘から抜いた。
「……それが答えというわけね」
ほんの少しその声が寂しげに聞こえた。そのせいか、それとも元々の力の差のせいか、反応が遅れた。気がつけばレイティアは、すぐ目の前にいてあっという間に足をひっかけられ押し倒される格好となった。
彼女自身はルシウスの利き手の手首を押さえているだけだ。しかし身動きが取れない。何らかの魔法を使われていることは明白だった。
「レイティア……」
「……前よりも強くなったのね。でも、私を殺すにはまだ足りないわ。だって、あの『勇者』ですら、私を殺せなかったんだもの」
ルシウスの脳裏に、夢の映像がひらめいた。
「……知ってるよ、『ティア』」
あえてルドが呼んでいた愛称で呼ぶと、彼女は目を見開いたあと憎々しげに表情を歪めた。
「あなたは全て知っているというわけね」
ルシウスは唯一自由になる首を縦に振った。
レイティアの顔が更に憎しみに歪む。
「――全て知っていて、あなたはそれでも私を殺すというの!?」
「……そうだね」
「――っ」
レイティアが息を呑む。ルシウスは彼女の感情のブレによって、魔法の効力が少し緩んでいるのに気付く。
その隙を見逃さず、ルシウスは一気に体勢を入れ替えて床に押し倒した彼女の喉元に短剣の切っ先を合わせた。
再会してわかったことだが、彼女はやはりまだ全盛期の力を取り戻せてはいないようだった。夢の中の彼女は「月の精霊」という存在にふさわしく、人を越えて力を扱うことができていた。しかし今の彼女は、純粋な力の差で言えばルシウスの方が上であった。
先ほど負けたのは、単純な経験値の差である。
そして今ルシウスが握っている短剣には、ルシウスの光の力が込められている。これで彼女の喉を一突きすれば、ただではすまないということは彼女自身も分かっているのだろう。悔しげな顔をしてはいたが、抜け出そうとする動きは見られなかった。
「……これを下ろせば、全てが終わる」
ルシウスは誰ともなくつぶやく。
そうすべては終わるのだ。まだ国に変化はない。彼女がいなくなれば危機は去るだろう。アロンも処刑の危機から助けられる。自分だってもう、「魔女」に惑わされることもなければ、このまま平穏に生きていくことができるはずだ。
分かっている、わかっているのに、短剣を握りしめる手は震えるばかりで、彼女の肌に触れることすらできない。
「さあ、どうしたの? 私を殺すのでしょう、ルー?」
そう彼女に問いかけられた時、ルシウスは自分でも予想していなかったような怒りがこみ上げた。
「――僕の名前は『ルシウス』だ!!」
突然そう叫んだルシウスに、レイティアもきょとんと目を瞬かせる。ルシウス自身も、自分が何に対してこんなに怒っているのか理解できなかった。
だから突き動かされるままに言葉を発した。
「僕の名前は『ルシウス』だ……。『ルー』でも『ルド』でもない……! 君を殺した男じゃない!!」
気が付くとルシウスは短剣を投げ捨てていた。そして呆けたままのレイティアを抱き起こして、その背中に腕を回す。
彼女を抱きしめれば、不思議と彼女はあたたかかった。精霊であり彼女は人ではない。それでも血の通った人間であるかのように鼓動さえ感じるような気がした。
「……わかってるんだ、レイティア。僕は君を殺さなければならない。君を殺せば、国も友も、全て助かると分かってる。けど――」
感極まったルシウスの目からほろりと涙がこぼれ落ちた。
「その後の世界で、僕はどうやって生きていけばいい……? 君を殺した後悔を抱えて、これから長い時を生きるだなんて、僕に耐えられない」
ルシウスはレイティアの身体をぎゅっと抱きしめる。
「そばにいてよ、レイティア。これまでもそうだったように。はるか昔に死んだ男への恨み何か忘れて、僕だけを見てよ……」
長く黙っていたレイティアは、ようやく口を開く。
「私は、あなたを騙していた。自分が助かるために、自分の復讐を遂げるために、あなたを利用したのよ」
「知ってる」
「今だって、ほんの少し後ろに国を滅ぼしてしまう魔法陣があるわ。あなたが私を殺せないと言うのならば、私はそれに簡単に手が伸ばせてしまうのよ」
「分かってる」
「……私は、誰よりも愛していた人に裏切られたわ」
「うん」
「あなたもそうじゃないって、どうやって証明するの」
「……証明することは、多分できない」
「ずいぶん勝手ね」
「それでも、君を諦めたくないんだ」
「どうして」
「愛してるから」
十六歳の誕生日の夜、初めて彼女と言葉を交わした。だがルシウスは、きっとそれよりも前から彼女に心を救われ、そして恋い慕うようになっていた。気づいたのはいつだったか。もうそんなことはわからないぐらい、彼女を愛していた。
ルシウスはそっときつく抱きしめていた彼女の身体からほんの少しだけ、身を離した。
彼女と視線が絡む。初めて目があった気がした。
「……あの人も、私を好きだと言ったわ」
「そうだね」
夢でルドが彼女に愛を告げるのをルシウスは何度も聞いている。そしてその時は、きっとそれが本心なのだろうとルシウスは思っていた。だが今となってはそれがどうだったのか分からない。途中で彼女への気持ちが変わってしまったのか。それとも最初から月の精霊の力を使うためだったのか――。
「――本当は、いつからか少しおかしいなって、気づいていたの。でも、あの人の言葉を、私は信じたかった……」
遠い過去へ思いを馳せるように瞑目する彼女に、ルシウスは何も言えなかった。
「人を信じた自分が愚かだと思った。だからもう二度と、人間を愛さないと、そう誓ったのに……」
ルドに裏切られたと知った時の彼女の悲痛な顔が思い浮かんだ。
「――私は、また愚かな真似をしようとしているのかしら」
レイティアがゆっくりと目を開いてルシウスを見た。その瞳の色にハッと息を飲む。暗く淀んだような色だったそれが、夢の中で見慣れた鮮やかな金色に戻っていたからだ。
ルシウスは彼女の手を取り、その指先に口付ける。
「もし僕が裏切ったら、その手で殺して」
「――……待っていて、くれる?」
「必ず」
ルシウスはレイティアの手から顔を離し彼女の顔を見つめた。いつのまにか漆黒の色をしていた髪も眩いばかりの金に戻っている。
レイティアがルシウスの頬に触れた。
「ならもう一度だけ、信じさせて。……ルシウス」
そう言った彼女はルシウスの顔に己のそれを近づけて、誓うように軽く唇に触れた。
それはほんの一瞬の出来事で、次の瞬間には彼女の姿は溶けるように金色の粒子に変わった。天に昇るように姿を消してゆく。
それが彼女からの「待っていて」という願いだということに気づくのは簡単だった。
「……たとえそれが、永遠でも」
これが
ルシウスは誰もいなくなったその場所で誓うようにぎゅっと拳を握りしめた。
2022/05/21
2022年短編2-19(終)
その日、この国から「災厄の魔女」は消えた。
泣きはらした目をしたルシウスが、意外にも清々しい顔で戻ってきてアロンにだけ事の顛末を語った。
魔女と呼ばれた精霊は、恨みを捨て、いつか戻ると言い残して天へと帰ったらしい。だがそれはアロンとルシウスの胸の中だけに刻まれ、対外的にはルシウス――今は「英雄」と呼ばれている男が、「災厄の魔女を滅した」という物語になっている。
その英雄となった男は、褒賞として国から旧都とその周辺地域を含む領地を王より頂いた。寂れた地域を褒美としてもらうなどと、その謙虚さを称えるものと馬鹿にするもの両者がいたが、アロンだけは、それが彼にとってその時「最も手に入れたいもの」だったのを知っていた。
『僕は、夢で見たレイティアの愛する庭を復活させて、そこで彼女を待つんだ』
そう言って笑った友の笑顔は、今も忘れられない。
それから十年の時が経った――。
現在は大司教の息子として王都で真面目に働いているアロンだが、その日はここ十年で初めて、ルシウスから「会って話がしたい」と手紙をもらった。手紙のやり取り自体はこの十年間行なっていたものの、「会いたい」と言われたのは初めてだった。
そんなわけでアロンは今、かつての旧都――、今は「英雄の町」と呼ばれている場所へ足を踏み入れていた。
英雄のお膝元となったことで、十年前とは比べ物にならないほどそこは栄えた町となっていた。そこの領主であるルシウスの尽力、人柄も垣間見えるようであった。
久方ぶりに神官服を脱ぎ、今はもう廃業してしまった冒険者の時のような軽装となったアロンは、ルシウスの住む城へと赴く前に街の様子を見るべく散策していた。
「領主様はどんなお人なんだ?」
昼食がてらに立ち寄った定食屋の女将に、何気なさを装ってそう尋ねた。
「そりゃあ『英雄』と言われるだけあって、立派なお人だよ」
彼女は心からそう思っているのだろう、満面の笑みでそういった。友を褒められて当然悪い気はしない。
「そうか、まあこの町の発展具合を見ればわかるってもんだな」
「そうなんだよ。ここいらも昔はずいぶん寂れた場所だったんだけどね」
女将は我が事のように嬉しそうに笑う。昔を知っているということは彼女は、十年前は寂れた小さな村でしかなかったどこかに住んでいたのかもしれない。
「安心したよ。実はここにはオレの旧友が住んでるんだ。昔は寂しい場所だと聞いていたからね。ちょっと心配してたんだ」
「そういうことかい。それならそんな心配はもう無用だね。これからどんどんこのあたりを発展していくと思うよ。領民唯一の心配事だった、跡継ぎの問題をどうにかなりそうだしね」
「……それ、どういうこと?」
「ああ、最近のことなんだけどね。御領主様が奥方様を迎えられたんだよ。城で働く知人が言うには、随分と仲が良さそうだからね。お子様のすぐに生まれるだろう、って――」
アロンはそれ以上聞いていられずに、立ち上がった。座っていた椅子が、ガタンと大きな音をたてたためか女将は言葉を切って目を丸くした。
「ど、どうしたんだい?」
「……悪い、行くところができた」
アロンは勘定だけ叩きつけるようにテーブルに置くと、足早にその定食屋を後にした。
「『奥方様』だって……!?」
ルシウスは今も「彼女」を待っているはずだ。
よもや裏切ったのか。
アロンはにわかには信じがたいその事実を確かめるべく、ルシウスの住む城へと足を進めた。
ルシウスの城へ訪問を告げれば、来ることは伝えられていたのだろう、あっさりとそこの客室に通された。
本来だったらば、あの時の荒れ果てた城との違いに感嘆していただろうが、今のアロンにそんな余裕はなかった
出された茶に気をつけることもなく、アロンはずっとルシウスの訪れを待っていた。
緊張感が最高潮に高まった頃、静かなノックの音とともに、ルシウスが入ってきた。
「やあ、よく来てくれたね、アロン!」
満面の笑みを浮かべる彼に対し、アロンは旧友との再会に素直に喜べずにいた。
「……ああ、本当に久しぶりだな」
こちらが緊張していることが相手にも伝わったのだろう。ルシウスは少し怪訝な顔をした。
「どうかした? ここは王都から結構遠いからね、長旅で大変だっただろう? 疲れさせてしまったかな?」
こちらをいたわるような彼の言葉に素直に耳を傾けることができず、アロンは耐え切れずにすぐさま本題に入ることにした。
「いや、疲れてるわけじゃないんだ。それより城下で妙な話を耳にして……」
「噂? どんな?」
きょとんとするルシウスに、アロンは次第に怒りがこみ上げてきた。
「しらばっくれるなよ! わかってるんだろ? やっと御領主様が奥方を迎えられたともっぱらの噂だったじゃないか! お前どういうことだ? 十年前、『彼女』を待つ、って言ったよな? まさか今更になって――」
アロンがまくしたてるようにそう言っていると、ふいにルシウスが笑いだした。
「な、なんで笑うんだよ」
アロンが当惑していると、ルシウスは必死に笑いを抑えようと深呼吸をする。
「いや、ごめん……。そうだよね、言ってなかったから、そう思うよね」
こらえきれないように笑いながらごめんごめんと言うと、ルシウスはようやくを洗い終えたのか笑い声を納め、そして立ち上がった。
「実は。そのことで来てもらったんだ。驚かせるつもりだったんだけどね」
そう言って客間の扉を開け、中へと誰かを手招きした。
「紹介するよ、アロン。」
ルシウスの案内に従うように客間に入ってきた人物を見て、アロンは目を丸くした。
「僕の妻――、レイティアだ」
名前を聞いて確信する。
アーロンは自分の思い違いに力が抜けてソファーにへたり込んだ。
「そういうことか……」
ルシウスは裏切ってなどいなかったのだ。十年もの間待ち続け、そしてついに手に入れたのだと知った。
そこにいるのは、かつて「災厄の魔女」と呼ばれた、ルシウスの最愛の女だ。
全てを悟ると、アロンは今度は別の意味の怒りが湧いてきた。
「ルシウス、お前なぁ……! 人が悪いぞ!」
「はは、ごめん。まさかそんな思い違いをされるとは思わなくて」
その後はただ昔を懐かしむような和やかな会話が続いた。
かつて精霊であったレイティアは、この十年をかけ人の肉体を手に入れて、ルシウスの元へ戻ってきたのだと言う。詳しい方法はついぞ教えてもらえなかったが、神の御業であるということだけは確からしい。
勇者の元で魔導師をしていた頃の見せかけの肉体ではなく、今はもう本当にただの人間だと言う。
ルシウスと生きるため、ルシウスと共に老いるために、その選択をしたらしい。
精霊に与えられた寿命のない生を捨てさせるなど、「お前は果報者だな」とルシウスにからかいまじりにそう言うと、彼は照れたように頷いてレイティアと目を合わせて微笑みあった。
「――そういや、なんで俺を呼んだんだ? 結婚報告だけか?」
「いや実は、まだ式を挙げていないんだ。だからそれの証人になってもらおうと思って」
ケロリとした様子でそういうルシウスに、アロンはため息を漏らした。
「そういうことは早く言え……」
「え? なんで?」
本気で何故だか分かっていない様子のルシウスに、アロンは再びため息を漏らした。
「まさかと思うが、二人だけで署名して終わり――、とか思ってたわけじゃないだろうな」
「え……、そのつもりだったんだけど、駄目なの?」
「アホかお前は! お前は国も認める『英雄様』なんだぞ? ある程度の規模の式はしなきゃ駄目に決まってるだろ!」
「あ……」
今気づいた、と言わんばかりの呆けた顔をしているルシウスに、アロンはわざとらしくため息をもう一度ついて、立ち上がった。
「え、アロンどこへ?」
「近くの教会! こうなったら、打ち合わせとかいろいろあるだろ! まったく……」
そうして部屋を出て行こうとすると、後ろからルシウスの笑い声が聞こえた。
「……なんだよ」
「いや、変わらないなと思って。そういう事なら、せっかくだしちゃんとやらないとね。色々と頼んだよ、未来の大司教様?」
今アロンが父親について後を継ぐための勉強していると、手紙には書いていなかったはずなのに、どこで知ったのだろう。
アロンは照れを隠すように、わざとしかめっ面を作る。
「式が終わるまでの滞在費、お前持ちだからな!」
照れ隠しがバレバレな捨て台詞を吐いて、アロンは部屋の扉を閉める。中から笑い声が響いているのに少し憮然としながらも、大切な友人が幸せになるのは本当に嬉しいと思ったのだった。
「慌ただしい人だったわね」
アロンが部屋を去った後、ルシウスはレイティアとともに庭を歩いていた。
「嫌だった?」
「まさか」
かつての旧都――夢で見た庭のように、そこは花で溢れかえっていた。十年かけて帰ってきた彼女は、とても穏やかに笑うようになった。今も庭に咲く花の一本に触れて、その匂いをかいで優しく微笑んでいる。
夢の中の彼女の笑ってはいたが、今のそれとは全く違った印象を受ける。しかし、それが本来の彼女なのだとルシウスは分かっていた。
月の精霊と呼ばれていた頃の彼女は、いつもこんな顔をしていた。
「ねぇ、レイティア」
名前を呼べば彼女は振り返ってくれる。たったそれだけのことがとても幸福だった。
「どんな式になるかな」
「どんなでも構わないわ。あなたが隣にいてくれるなら」
そう言って彼女は本当に嬉しそうに笑うのだ。
時折、あの男――ルドは、どうして彼女を待ってやらなかったのだろうと思う時がある。レイティアがそばにいる。これ以上の幸せがどこにあると言うのだろう。
あの男の視点で見る夢は、レイティアを裏切った日の記憶を境にぱったりと見ることはなくなった。だから彼がその後、本当はどうなったのか、歴史書に書かれている以上のことはルシウスも分からない。
だが、彼女を裏切ったことは、おそらく死ぬまで片時も忘れることはなかったのではないだろうか。
自分は同じ轍を踏む気はない。
「レイティア」
花のそばにしゃがみ込む彼女の隣にルシウスも膝をついた。
「僕が死ぬその時まで、ずっとそばにいてね」
そう囁くと、彼女は驚いたのか目を瞬かせた後、不敵に笑った。
「あなたは私を裏切らなければ、ね」
その声に十年前の悲愴さはない。もう終生ともにいるのだと彼女も信じてくれている。それがとても嬉しかった。
だからルシウスは彼女の手を取って、それを額を当てた。
「もちろんだよ。愛しき僕の月の女神――」
fin.
2022/05/22