初稿置き場
2025年(4ページ目)
2025/08/22 00:00:08
#玉座の憧憬
#玉座の憧憬_本編 18
ミイスと碌な会話もないまま、日々が過ぎてゆく。
セレンの心に凝る苛立ちと焦燥は、時間を追うごとに募っていっていた。
「セレンティーネ」
耳元に落ちる男の声に、セレンは目蓋を押し上げる。
「あ……」
自分はいつの間に眠ってしまっていたのだろう。
セレンは知らぬ間に突っ伏していた机から身を起こすと、目の前に立つロウェルを見上げた。
「ごめん、返事がなかったから心配で入ってしまったんだ」
「…………そうか。……いや、構わない。お前なら」
思ったままの言葉がぽろりと落ちる。ロウェルは虚を突かれたように一瞬目を見開いたが、すぐに口元へ笑みを浮かべた。
「……光栄だよ」
どこか浮かない笑顔のまま、彼はセレンの方へ手を伸ばす。
「それより、こんな所で寝るなんて……。やっぱりまだ、よく眠れないのか?」
やわく頭を撫でられて、また目を閉じそうになるのをどうにか堪えた。ロウェルの問いに小さく頷いて、手からこぼれ落ちていたペンを拾い上げる。
だが、すかさずそれが上から抜き取られてしまった。
「こら。少しは休め。ほら、立って」
隣まで回り込んできたロウェルに、腕を取られて腰を上げる。
「だが……」
抵抗の言葉は弱く、そのまま部屋のソファまで移動させられてしまう。
ロウェルの傍にいると、どうしてこんなにも素直に従ってしまうのだろう。目まぐるしく回る思考が緩んでしまって、上手く考えが纏められなくなってしまう。
隣に腰を降ろしたロウェルに肩を引き寄せられて、彼にもたれかかる格好となる。抵抗しようと腕を上げることすら億劫で、セレンはそのまま身体の力を抜いた。
こんなことを、している場合では……ないのに。
「なあ、セレンティーネは何に思い悩んでいるんだ?」
「…………言っても詮の無いことだ」
ロウェルがセレンの髪を撫でる。
「教えてよ。俺は知りたい」
「――っ」
毒のように甘い囁きだと思った。
頭が痺れて、思考力を奪う。
この男に全て投げ出してしまえば、私は楽になれるのだろうか――。
セレンは小さく口を開いた。
「母の……。母上の、声が、聞こえるんだ」
「……どんな」
「私を責める、声……。私が、母の期待に応えられない、から」
セレンはきゅっと唇を噛んだ。
全て、全て――、私が悪い。
アレイストのように、一目で王の子と分かる男として生まれられなかった。
誰もが認めるような、国王の素質もない。
だというのに、母から受け継いだのは銀の髪ばかりで、王に目をかけてもらえるような愛嬌すら持ち合わせてはいなかった。
今こうなっているのは、全て私自身のせい。
「――だから、私はここで……、もっと、もっと……もっと、努力をしなければ」
「…………それは、いつまでだ?」
「え……?」
セレンはロウェルからの問いに、ゆっくりと目蓋を上げた。
「ここで努力して、成果を出して――、都に戻る?」
顔を上げて彼の顔を覗き込むと、ただじっとこちらを見つめる瞳と目が合った。セレンは戸惑いながらも頷く。
「都に戻って、また努力して……。『王になる』?」
セレンの目的をはっきりと口にされて、息を飲む。
でも、そうだ。その通りなのだ。私が「王になる」には、それしか。
だが、ロウェルは小さく首を横に振った。
「セレンティーネ。それは一体何日――、何年かかるんだ? それまで、こんな生活を続けるのか?」
「……それは」
何も答えられない。
分かってはいるのだ。こんな日々を長くは続けられないことくらい。
いずれ限界が来ることくらい。
でも、じゃあどうすればいい?
どうすれば、母の願いを叶えられる?
どうすれば――。
「――『奪ってしまえ』」
ポツリと落ちたロウェルの呟きに、セレンはハッと顔を上げた。
「本当は分かっているんだろう? こんな場所でいくら努力したところで、どうにもならない、って」
セレンは息を飲んだ。
ずっと見ない振りをしてきた現実を直視させられて、酷く胸が軋む。
「だ、だが……」
「怖い?」
端的な問いに、ぐっと言葉が詰まった。
怖い。たしかに、自分は恐怖を感じている。
だが、それは一体「何」に対してだろう。
王位を簒奪すること自体なのか。
それを仄めかすロウェルへなのか。
もしくは、その選択も消去できないでいる自分自身へなのか。
だがそれらは、「このまま何も出来ずに死んでいく」こと以上に怖ろしいことなのだろうか。
「……私に、出来ると思うか」
セレンの呟きにロウェルは目を細めた。
「他に誰が出来る?」
背後にまた、母の気配を感じた気がした。
「…………私は、王にならねばならない。ロウェル、付いて来てくれるか?」
彼はセレンの手を取ると、指先に口付けを落とした。
「ああ。全てが終わるその瞬間まで、俺はセレンティーネのそばにいる」
#玉座の憧憬_本編 18
ミイスと碌な会話もないまま、日々が過ぎてゆく。
セレンの心に凝る苛立ちと焦燥は、時間を追うごとに募っていっていた。
「セレンティーネ」
耳元に落ちる男の声に、セレンは目蓋を押し上げる。
「あ……」
自分はいつの間に眠ってしまっていたのだろう。
セレンは知らぬ間に突っ伏していた机から身を起こすと、目の前に立つロウェルを見上げた。
「ごめん、返事がなかったから心配で入ってしまったんだ」
「…………そうか。……いや、構わない。お前なら」
思ったままの言葉がぽろりと落ちる。ロウェルは虚を突かれたように一瞬目を見開いたが、すぐに口元へ笑みを浮かべた。
「……光栄だよ」
どこか浮かない笑顔のまま、彼はセレンの方へ手を伸ばす。
「それより、こんな所で寝るなんて……。やっぱりまだ、よく眠れないのか?」
やわく頭を撫でられて、また目を閉じそうになるのをどうにか堪えた。ロウェルの問いに小さく頷いて、手からこぼれ落ちていたペンを拾い上げる。
だが、すかさずそれが上から抜き取られてしまった。
「こら。少しは休め。ほら、立って」
隣まで回り込んできたロウェルに、腕を取られて腰を上げる。
「だが……」
抵抗の言葉は弱く、そのまま部屋のソファまで移動させられてしまう。
ロウェルの傍にいると、どうしてこんなにも素直に従ってしまうのだろう。目まぐるしく回る思考が緩んでしまって、上手く考えが纏められなくなってしまう。
隣に腰を降ろしたロウェルに肩を引き寄せられて、彼にもたれかかる格好となる。抵抗しようと腕を上げることすら億劫で、セレンはそのまま身体の力を抜いた。
こんなことを、している場合では……ないのに。
「なあ、セレンティーネは何に思い悩んでいるんだ?」
「…………言っても詮の無いことだ」
ロウェルがセレンの髪を撫でる。
「教えてよ。俺は知りたい」
「――っ」
毒のように甘い囁きだと思った。
頭が痺れて、思考力を奪う。
この男に全て投げ出してしまえば、私は楽になれるのだろうか――。
セレンは小さく口を開いた。
「母の……。母上の、声が、聞こえるんだ」
「……どんな」
「私を責める、声……。私が、母の期待に応えられない、から」
セレンはきゅっと唇を噛んだ。
全て、全て――、私が悪い。
アレイストのように、一目で王の子と分かる男として生まれられなかった。
誰もが認めるような、国王の素質もない。
だというのに、母から受け継いだのは銀の髪ばかりで、王に目をかけてもらえるような愛嬌すら持ち合わせてはいなかった。
今こうなっているのは、全て私自身のせい。
「――だから、私はここで……、もっと、もっと……もっと、努力をしなければ」
「…………それは、いつまでだ?」
「え……?」
セレンはロウェルからの問いに、ゆっくりと目蓋を上げた。
「ここで努力して、成果を出して――、都に戻る?」
顔を上げて彼の顔を覗き込むと、ただじっとこちらを見つめる瞳と目が合った。セレンは戸惑いながらも頷く。
「都に戻って、また努力して……。『王になる』?」
セレンの目的をはっきりと口にされて、息を飲む。
でも、そうだ。その通りなのだ。私が「王になる」には、それしか。
だが、ロウェルは小さく首を横に振った。
「セレンティーネ。それは一体何日――、何年かかるんだ? それまで、こんな生活を続けるのか?」
「……それは」
何も答えられない。
分かってはいるのだ。こんな日々を長くは続けられないことくらい。
いずれ限界が来ることくらい。
でも、じゃあどうすればいい?
どうすれば、母の願いを叶えられる?
どうすれば――。
「――『奪ってしまえ』」
ポツリと落ちたロウェルの呟きに、セレンはハッと顔を上げた。
「本当は分かっているんだろう? こんな場所でいくら努力したところで、どうにもならない、って」
セレンは息を飲んだ。
ずっと見ない振りをしてきた現実を直視させられて、酷く胸が軋む。
「だ、だが……」
「怖い?」
端的な問いに、ぐっと言葉が詰まった。
怖い。たしかに、自分は恐怖を感じている。
だが、それは一体「何」に対してだろう。
王位を簒奪すること自体なのか。
それを仄めかすロウェルへなのか。
もしくは、その選択も消去できないでいる自分自身へなのか。
だがそれらは、「このまま何も出来ずに死んでいく」こと以上に怖ろしいことなのだろうか。
「……私に、出来ると思うか」
セレンの呟きにロウェルは目を細めた。
「他に誰が出来る?」
背後にまた、母の気配を感じた気がした。
「…………私は、王にならねばならない。ロウェル、付いて来てくれるか?」
彼はセレンの手を取ると、指先に口付けを落とした。
「ああ。全てが終わるその瞬間まで、俺はセレンティーネのそばにいる」
2025/08/22 00:00:07
#玉座の憧憬
#玉座の憧憬_本編 17
「姫様……、少しお休みになってください」
傍らにそっと置かれたティーカップに、セレンは顔を上げた。
そこにはミイスの心配げな表情がある。だが、その物言いたげな目に苛立ちを覚えて、セレンは手元の書類に視線を戻した。
「問題ない」
「ですが、お顔の色が悪いです。夜もあまり眠れてらっしゃらないのでしょう?」
「……問題ない」
彼女の言う通り、ここ何日もセレンは碌に眠れていない。
毎晩のように――、母の囁き声が聞こえるからだ。
いや、最近では日中の今もすぐ傍らに立っているような気さえする。
夢も見ずに深く眠れるのは、ロウェルが傍にいる少しの間だけ。ほんのひととき眠りに落ちて――、人々が寝静まる夜は、母の声と共に夜を明かしていた。
だが、それで問題があるわけではない。
身体は動くし、休息を取っていないわけでもなかった。
セレンにはどうしてこう、彼女が口を出してくるのか分からなかった。
分からない。分からなくて、腹が立つ。
私は平気なのに。
仕事に意識を戻すセレンの前で、ミイスはくっと息を飲んだ。
いつもなら、「冷めないうちに飲んでくださいね」と茶を残して去っていくのに、今日の彼女は中々動こうとしない。
何か言いたげな空気を肌で感じ、セレンは握っていたペンにきゅっと力を込めた。
それと同時にミイスがついに口を開く。
「姫様、いい加減になさってください! ご自身の今のお顔を、きちんと鏡でご覧になったことがありますか!? そんなにご無理をなさるほど、アキュイラの地は逼迫してはおりません! わかってらっしゃるでしょう!?」
いつの間にか止まっていたペンから、ぽたりと真っ黒なインクが落ちた。
それはまるで、セレンの心を蝕むように広がっていく。
「――ッ、うるさいっ!!」
バンッ、とペンを机に叩きつける。
ミイスの肩がびくりと跳ねたが、今のセレンにはそのことに構っていられるほどの余裕が消え失せていた。
怒りのままに捲し立てる。
「お前に何が分かる!? 父上に見限られ、『こんな辺境』に棄てられた私の何が……!!」
ミイスが息を飲んで呆然と言った。
「『こんな辺境』……? それ、本気で仰っているんですか?」
その問いに言葉が詰まる。
違う……。ちがう。わたしは、そんなこと――。
でも。
セレンは込み上げる激情のままに、机の上にあったものを床に叩きつけるように手で払い落とした。
仄かな湯気をたてていた茶器が、派手な音と共に砕け散った。
「出ていけ!!」
「姫さ……」
「ひとりに、してくれ……」
ミイスは黙って深く一礼すると、部屋を出ていった。
扉が閉まり、しんと沈黙が降りると、途端に身体の力が抜けてしまった。
どさりと椅子に身を沈めて、顔を両手で覆った。
きっと今のでミイスにも見限られてしまっただろう。
世界に独りきりにされてしまったような虚無感が襲う。
だが――。
『そんなもの、王たるお前には関係がないわ。そうでしょう?』
「――はい、母上……」
こんな時でも、母の声が消えることはない。
#玉座の憧憬_本編 17
「姫様……、少しお休みになってください」
傍らにそっと置かれたティーカップに、セレンは顔を上げた。
そこにはミイスの心配げな表情がある。だが、その物言いたげな目に苛立ちを覚えて、セレンは手元の書類に視線を戻した。
「問題ない」
「ですが、お顔の色が悪いです。夜もあまり眠れてらっしゃらないのでしょう?」
「……問題ない」
彼女の言う通り、ここ何日もセレンは碌に眠れていない。
毎晩のように――、母の囁き声が聞こえるからだ。
いや、最近では日中の今もすぐ傍らに立っているような気さえする。
夢も見ずに深く眠れるのは、ロウェルが傍にいる少しの間だけ。ほんのひととき眠りに落ちて――、人々が寝静まる夜は、母の声と共に夜を明かしていた。
だが、それで問題があるわけではない。
身体は動くし、休息を取っていないわけでもなかった。
セレンにはどうしてこう、彼女が口を出してくるのか分からなかった。
分からない。分からなくて、腹が立つ。
私は平気なのに。
仕事に意識を戻すセレンの前で、ミイスはくっと息を飲んだ。
いつもなら、「冷めないうちに飲んでくださいね」と茶を残して去っていくのに、今日の彼女は中々動こうとしない。
何か言いたげな空気を肌で感じ、セレンは握っていたペンにきゅっと力を込めた。
それと同時にミイスがついに口を開く。
「姫様、いい加減になさってください! ご自身の今のお顔を、きちんと鏡でご覧になったことがありますか!? そんなにご無理をなさるほど、アキュイラの地は逼迫してはおりません! わかってらっしゃるでしょう!?」
いつの間にか止まっていたペンから、ぽたりと真っ黒なインクが落ちた。
それはまるで、セレンの心を蝕むように広がっていく。
「――ッ、うるさいっ!!」
バンッ、とペンを机に叩きつける。
ミイスの肩がびくりと跳ねたが、今のセレンにはそのことに構っていられるほどの余裕が消え失せていた。
怒りのままに捲し立てる。
「お前に何が分かる!? 父上に見限られ、『こんな辺境』に棄てられた私の何が……!!」
ミイスが息を飲んで呆然と言った。
「『こんな辺境』……? それ、本気で仰っているんですか?」
その問いに言葉が詰まる。
違う……。ちがう。わたしは、そんなこと――。
でも。
セレンは込み上げる激情のままに、机の上にあったものを床に叩きつけるように手で払い落とした。
仄かな湯気をたてていた茶器が、派手な音と共に砕け散った。
「出ていけ!!」
「姫さ……」
「ひとりに、してくれ……」
ミイスは黙って深く一礼すると、部屋を出ていった。
扉が閉まり、しんと沈黙が降りると、途端に身体の力が抜けてしまった。
どさりと椅子に身を沈めて、顔を両手で覆った。
きっと今のでミイスにも見限られてしまっただろう。
世界に独りきりにされてしまったような虚無感が襲う。
だが――。
『そんなもの、王たるお前には関係がないわ。そうでしょう?』
「――はい、母上……」
こんな時でも、母の声が消えることはない。
2025/08/22 00:00:06
#玉座の憧憬
#玉座の憧憬_本編 16
仕事に集中していれば、雑念は消えてくれた。
だが、ふとその集中が途切れてしまえば、また耳元に母の囁きが落ちる。
――僻地で何をしているの。
――お前は王の子。
――こんな場所で埋もれるべき人間ではない。
そのどれもが、セレンの中に強い苦しみを生んでゆく。
アキュイラは「僻地」でも「こんな場所」でもない。
けれど、母上の言葉には従わなければ……。
ただ立ち止まった中に、葛藤だけが起こっていた。
口を引き結んだセレンは、目の前にある書類へ視線を落とし、内容を確認してペンを走らせる。
そしてまた、次の紙を取ろうとしたほんの一瞬に、母の声が木霊した。
だが、今回はその思考に飲まれ切る前に、机の上に影が落ちる。
ハッとして頭を上げると、そこには神妙な顔をしたロウェルが立っていた。
彼はセレンと目が合うと小さく溜息をついて、握られたままのペンをサッと引き抜いた。
「お、おい、何を……」
眉をひそめたロウェルが、セレンの口元へ人差し指を添える。反論を封じられてしまい、不満げに彼を見上げると、首を横に振られた。
「朝から休んでない、って聞いた。今何時なのか分かってるか?」
「それは……」
答えられずに窓の方へ首を傾けると、空は茜色をしている。もう夜に近いと言って、差し支えない時間だった。
「セレンティーネ」
机の向こう側にいたロウェルが、こちらへ回り込んで傍らに膝をつく。
「どうした? 何かあったか?」
自身よりも幾分背の高い彼から見上げられるのが、少し不思議な感覚がする。
「……何も」
小さく首を横に振って答えた。
そう、何もありはしない。あれは、ただの夢なのだから。
「嘘つけ。目元が赤いぞ」
伸びてきた指が眦を擽る。セレンはその感触に自然と目を閉じていた。
「隈もできてるな……。おいで、少し休もう」
ロウェルに手を引かれると、セレンはそのまま立ち上がってしまう。
どうしてこんなにも素直に応じてしまうのか、自分でも不思議だった。
執務室を出たロウェルは、手を引いたままセレンの自室へ向かう。まるで当然のように中まで入ると、二人掛けのソファの前まで歩き、セレンをそこに座らせるように肩を押した。
「ちょっ……」
「いいから」
隣に腰掛けたロウェルはセレンの頭を引き寄せて、そっと撫でる。
その手が心地よくて、身体の力が抜けてしまう。
けれど、わたしは…こんなことをしている場合では……。
そう思うのに、目蓋まで重くなってきてしまった。
指の一本を動かすことすら億劫になって、大人しくロウェルの肩に身を預ける。彼は心底愛おしむかような手つきでセレンの髪を指で梳いて、頭頂に口付けた。
「なにがあった?」
そっと落とされるやわらかな問いに、セレンは気が付けばぽつと口を開いていた。
「…………夢を、見た…だけだ。わるい……ゆめを」
髪を梳くロウェルの手が一瞬止まって、また動き出す。
「どんな?」
セレンは眠気に抗えなくなり、目を閉じる。
どんな? あれは、どんな夢だっただろう……。ただ一つ、たしかなのは――
「私は、王にならねば……」
「――――、」
ロウェルは何も応えない。
どんな表情をして、彼はセレンの言葉を聞いたのか。
気にはなったが、どうしても目蓋が開かなかった。
セレンの意識が眠りの中へ転がり落ちてゆく。
「……なら、」
耳元を吐息が擽った。
「なら、奪ってしまえ――」
それは、現実のロウェルが発した言葉だったのか、それとも夢現の見せる幻のようなものだったのか。
その答えは分からぬまま、セレンは意識を手放した。
#玉座の憧憬_本編 16
仕事に集中していれば、雑念は消えてくれた。
だが、ふとその集中が途切れてしまえば、また耳元に母の囁きが落ちる。
――僻地で何をしているの。
――お前は王の子。
――こんな場所で埋もれるべき人間ではない。
そのどれもが、セレンの中に強い苦しみを生んでゆく。
アキュイラは「僻地」でも「こんな場所」でもない。
けれど、母上の言葉には従わなければ……。
ただ立ち止まった中に、葛藤だけが起こっていた。
口を引き結んだセレンは、目の前にある書類へ視線を落とし、内容を確認してペンを走らせる。
そしてまた、次の紙を取ろうとしたほんの一瞬に、母の声が木霊した。
だが、今回はその思考に飲まれ切る前に、机の上に影が落ちる。
ハッとして頭を上げると、そこには神妙な顔をしたロウェルが立っていた。
彼はセレンと目が合うと小さく溜息をついて、握られたままのペンをサッと引き抜いた。
「お、おい、何を……」
眉をひそめたロウェルが、セレンの口元へ人差し指を添える。反論を封じられてしまい、不満げに彼を見上げると、首を横に振られた。
「朝から休んでない、って聞いた。今何時なのか分かってるか?」
「それは……」
答えられずに窓の方へ首を傾けると、空は茜色をしている。もう夜に近いと言って、差し支えない時間だった。
「セレンティーネ」
机の向こう側にいたロウェルが、こちらへ回り込んで傍らに膝をつく。
「どうした? 何かあったか?」
自身よりも幾分背の高い彼から見上げられるのが、少し不思議な感覚がする。
「……何も」
小さく首を横に振って答えた。
そう、何もありはしない。あれは、ただの夢なのだから。
「嘘つけ。目元が赤いぞ」
伸びてきた指が眦を擽る。セレンはその感触に自然と目を閉じていた。
「隈もできてるな……。おいで、少し休もう」
ロウェルに手を引かれると、セレンはそのまま立ち上がってしまう。
どうしてこんなにも素直に応じてしまうのか、自分でも不思議だった。
執務室を出たロウェルは、手を引いたままセレンの自室へ向かう。まるで当然のように中まで入ると、二人掛けのソファの前まで歩き、セレンをそこに座らせるように肩を押した。
「ちょっ……」
「いいから」
隣に腰掛けたロウェルはセレンの頭を引き寄せて、そっと撫でる。
その手が心地よくて、身体の力が抜けてしまう。
けれど、わたしは…こんなことをしている場合では……。
そう思うのに、目蓋まで重くなってきてしまった。
指の一本を動かすことすら億劫になって、大人しくロウェルの肩に身を預ける。彼は心底愛おしむかような手つきでセレンの髪を指で梳いて、頭頂に口付けた。
「なにがあった?」
そっと落とされるやわらかな問いに、セレンは気が付けばぽつと口を開いていた。
「…………夢を、見た…だけだ。わるい……ゆめを」
髪を梳くロウェルの手が一瞬止まって、また動き出す。
「どんな?」
セレンは眠気に抗えなくなり、目を閉じる。
どんな? あれは、どんな夢だっただろう……。ただ一つ、たしかなのは――
「私は、王にならねば……」
「――――、」
ロウェルは何も応えない。
どんな表情をして、彼はセレンの言葉を聞いたのか。
気にはなったが、どうしても目蓋が開かなかった。
セレンの意識が眠りの中へ転がり落ちてゆく。
「……なら、」
耳元を吐息が擽った。
「なら、奪ってしまえ――」
それは、現実のロウェルが発した言葉だったのか、それとも夢現の見せる幻のようなものだったのか。
その答えは分からぬまま、セレンは意識を手放した。
2025/08/22 00:00:05
#玉座の憧憬
#玉座の憧憬_本編 15
「っ――!」
セレンは目を開くと同時に、ガバッと身を起こした。
「……ぁ、ゆ…め…………」
両の手を握って、開く。
そして、あの夢の中での違和感にようやく気付いた。闇の中で蹲っていたのは、母がいなくなった頃のセレンだ。……いや、もっと幼かったかもしれない。
「…………っ」
膝を抱えて小さくなる。
まだ心臓が早鐘を打っていて、とても眠れそうにない。
だが視界を閉ざせば、母の声が迫る。彼女はそう、国王の寵を一身に受けていたにもかかわらず、常に「卑怯な女狐」――アレイストの母に敵愾心を燻らせていた。
いずれ彼女が戻ってきて、己の全てを奪ってしまう――。
そのことを恐れていた。幼いセレンにも分かるほど、強く。
「……わたしは、おうに……ならなきゃ、ならない」
蹲ったまま呟く。
このまま――ちいさくちいさくなって、闇に溶けて消えてしまえればいいのに。
そう叶いもしない願いを募らせながら、セレンは己の身体をきつく抱き締めた。
#玉座の憧憬_本編 15
「っ――!」
セレンは目を開くと同時に、ガバッと身を起こした。
「……ぁ、ゆ…め…………」
両の手を握って、開く。
そして、あの夢の中での違和感にようやく気付いた。闇の中で蹲っていたのは、母がいなくなった頃のセレンだ。……いや、もっと幼かったかもしれない。
「…………っ」
膝を抱えて小さくなる。
まだ心臓が早鐘を打っていて、とても眠れそうにない。
だが視界を閉ざせば、母の声が迫る。彼女はそう、国王の寵を一身に受けていたにもかかわらず、常に「卑怯な女狐」――アレイストの母に敵愾心を燻らせていた。
いずれ彼女が戻ってきて、己の全てを奪ってしまう――。
そのことを恐れていた。幼いセレンにも分かるほど、強く。
「……わたしは、おうに……ならなきゃ、ならない」
蹲ったまま呟く。
このまま――ちいさくちいさくなって、闇に溶けて消えてしまえればいいのに。
そう叶いもしない願いを募らせながら、セレンは己の身体をきつく抱き締めた。
2025/08/22 00:00:04
#玉座の憧憬
#玉座の憧憬_本編 14
セレンはふっと目を開いた。
だが周囲は真っ暗で、星の瞬きも蝋燭の仄かな明かりも何も見えない。
どこまでも闇が続いていて、そんな黒一色の世界にセレンは座り込んでいた。
ここは、どこ……?
きょろきょろと首を巡らせて、ふとこんな闇の中にもかかわらず、自分の姿だけははっきりと見えることに気付いた。
自分の手を握って、開く。
何か、違和感を覚える。
だがそれの正体は判然としないまま、セレンはその動作を繰り返していた。
『――セレンティーネ』
不意に響いた女の声に、顔を跳ね上げる。
「あ……」
そこには、自身とよく似た銀髪をたなびかせる女が立っていた。
彼女はこんな顔をしていただろうか。
もう記憶も朧げで、よく思い出すことができない。
それでも、セレンにはこの女が誰か分かっていた。
「……母様」
呟いた声に反応してか、女――母の目がギョロリとこちらを睨む。
セレンは床に座り込んだまま、恐ろしい形相の女を見上げる。
『お前は何をしているの』
「え……」
暗く沈んだ声に、身を竦ませる。
『こんな僻地で何をしているのかと、聞いているのよ!』
怒声に身体が震えた。
ああ、そうだ。母は時折こうして金切り声を上げることがあった。
それが幼いセレンには、とてもとても恐ろしくて――。
『お前は王の子なの! いずれ、王になるの! 全ての頂点に!! お前はこんな場所で埋もれるべき人間では――』
「でも、母様……」
『母上とお呼びなさい!!』
厳しい一喝に、セレンは俯いてぎゅっと目を瞑った。
小さな手を地面の上で握り締めて、じっと耐える。
『お前はやれば出来るのよ。あの卑怯な女狐の息子になど、負けはしないわ……』
「……はい、母上」
もう、顔を上げて母の顔を見つめ返すことすら、出来そうもなかった。
#玉座の憧憬_本編 14
セレンはふっと目を開いた。
だが周囲は真っ暗で、星の瞬きも蝋燭の仄かな明かりも何も見えない。
どこまでも闇が続いていて、そんな黒一色の世界にセレンは座り込んでいた。
ここは、どこ……?
きょろきょろと首を巡らせて、ふとこんな闇の中にもかかわらず、自分の姿だけははっきりと見えることに気付いた。
自分の手を握って、開く。
何か、違和感を覚える。
だがそれの正体は判然としないまま、セレンはその動作を繰り返していた。
『――セレンティーネ』
不意に響いた女の声に、顔を跳ね上げる。
「あ……」
そこには、自身とよく似た銀髪をたなびかせる女が立っていた。
彼女はこんな顔をしていただろうか。
もう記憶も朧げで、よく思い出すことができない。
それでも、セレンにはこの女が誰か分かっていた。
「……母様」
呟いた声に反応してか、女――母の目がギョロリとこちらを睨む。
セレンは床に座り込んだまま、恐ろしい形相の女を見上げる。
『お前は何をしているの』
「え……」
暗く沈んだ声に、身を竦ませる。
『こんな僻地で何をしているのかと、聞いているのよ!』
怒声に身体が震えた。
ああ、そうだ。母は時折こうして金切り声を上げることがあった。
それが幼いセレンには、とてもとても恐ろしくて――。
『お前は王の子なの! いずれ、王になるの! 全ての頂点に!! お前はこんな場所で埋もれるべき人間では――』
「でも、母様……」
『母上とお呼びなさい!!』
厳しい一喝に、セレンは俯いてぎゅっと目を瞑った。
小さな手を地面の上で握り締めて、じっと耐える。
『お前はやれば出来るのよ。あの卑怯な女狐の息子になど、負けはしないわ……』
「……はい、母上」
もう、顔を上げて母の顔を見つめ返すことすら、出来そうもなかった。
2025/08/22 00:00:03
#玉座の憧憬
#玉座の憧憬_本編 13
結局、ロウェルは何をしに来たのだろう。
彼が持参した書状には、セレンのアキュイラ領主就任を言祝ぐ内容しか書かれていなかったし、それを届けに来ただけにしては、長期滞在する理由がない。
だがその理由を訊ねてみても、「セレンティーネの傍にいたいから」という、本気なのか冗談なのか分からない言葉ではぐらかされていた。
そう、はぐらかされた、と思っていたのだけれど――。
セレンはミイスの淹れた甘い茶の香りに、ふと目を眇めた。
「今日はいつもと匂いが違うんだな」
「ふふ。ご明察です、姫様。ロウェルさんに頂いたんですよ。姫様のお疲れが取れるように、って」
「そ、そうか……」
にまにまとするミイスから視線を逸らす。
ロウェルがここに滞在しはじめてからしばしが経ったが、彼は二日と空けずこうして方々から贈り物をしてきていた。
そんな姿を見ていれば、憎からず思われているのだろうと、どうしても考えてしまう。
あの戯言のような言葉が、本気だったのではないか、と。
だが、そんなことがあり得るのだろうか……。
セレンは湯気の燻る明るいオレンジ色をした茶を、ほんの少し口に含んだ。
少し甘すぎる気はしたが、鼻を抜ける柑橘のような香りは清涼感があり、気分を落ち着けてくれる。
小さく息をつき、ふとミイスが茶器を二人分用意していることに気付く。
それは誰の、とセレンが問うより早く、部屋の扉が叩かれる音がした。
返事をして入ってきたのは、噂をすればというやつなのか、ロウェルだ。
ハッとしてミイスの方を見ると、まるで「ごゆっくり」とでも言うように、一つウインクを飛ばして部屋を出ていった。
「ちょ、ミイス……」
呼び止める間もなく彼女が去っていくと、苦笑するロウェルがセレンの手を取った。
「俺と二人きりは嫌?」
「そ……そういうわけじゃ」
ごにょごにょと歯切れ悪く呟きながら、セレンは仕方なくソファを勧めた。彼は当然のように隣へ腰を下ろす。
それに慣れつつある自分に、落ち着かないものを感じて、セレンは照れ隠しのように茶を飲み下した。
「セレンティーネ」
目を眇めてその様子を見守っていたロウェルが、甘い声でセレンの名を呟く。
「これ、今日のプレゼント」
そう言って差し出されたのは、白い花をリボンで纏めただけのブーケだ。
「あ、ありがとう。その、茶も……。ミイスから聞いた」
「……ああ」
ロウェルは何故か困ったように淡く微笑む。
その静かな、どこか悲しげな表情を、時折彼は滲ませる。
セレンにはその理由が分からないまま、いつか知る時がくるのだろうか、と夢想する。
この男が傍にいること。
それが当たり前になればよいのに、とセレンは思いはじめていた。
受け取った花束に顔を寄せる。
冷たいと形容されがちなセレンとは、似ても似つかない可憐な花だ。
「よく似合うよ」
そんなことを嘯きながら、こめかみに口付けるロウェルに、セレンは曖昧に頷いた。
#玉座の憧憬_本編 13
結局、ロウェルは何をしに来たのだろう。
彼が持参した書状には、セレンのアキュイラ領主就任を言祝ぐ内容しか書かれていなかったし、それを届けに来ただけにしては、長期滞在する理由がない。
だがその理由を訊ねてみても、「セレンティーネの傍にいたいから」という、本気なのか冗談なのか分からない言葉ではぐらかされていた。
そう、はぐらかされた、と思っていたのだけれど――。
セレンはミイスの淹れた甘い茶の香りに、ふと目を眇めた。
「今日はいつもと匂いが違うんだな」
「ふふ。ご明察です、姫様。ロウェルさんに頂いたんですよ。姫様のお疲れが取れるように、って」
「そ、そうか……」
にまにまとするミイスから視線を逸らす。
ロウェルがここに滞在しはじめてからしばしが経ったが、彼は二日と空けずこうして方々から贈り物をしてきていた。
そんな姿を見ていれば、憎からず思われているのだろうと、どうしても考えてしまう。
あの戯言のような言葉が、本気だったのではないか、と。
だが、そんなことがあり得るのだろうか……。
セレンは湯気の燻る明るいオレンジ色をした茶を、ほんの少し口に含んだ。
少し甘すぎる気はしたが、鼻を抜ける柑橘のような香りは清涼感があり、気分を落ち着けてくれる。
小さく息をつき、ふとミイスが茶器を二人分用意していることに気付く。
それは誰の、とセレンが問うより早く、部屋の扉が叩かれる音がした。
返事をして入ってきたのは、噂をすればというやつなのか、ロウェルだ。
ハッとしてミイスの方を見ると、まるで「ごゆっくり」とでも言うように、一つウインクを飛ばして部屋を出ていった。
「ちょ、ミイス……」
呼び止める間もなく彼女が去っていくと、苦笑するロウェルがセレンの手を取った。
「俺と二人きりは嫌?」
「そ……そういうわけじゃ」
ごにょごにょと歯切れ悪く呟きながら、セレンは仕方なくソファを勧めた。彼は当然のように隣へ腰を下ろす。
それに慣れつつある自分に、落ち着かないものを感じて、セレンは照れ隠しのように茶を飲み下した。
「セレンティーネ」
目を眇めてその様子を見守っていたロウェルが、甘い声でセレンの名を呟く。
「これ、今日のプレゼント」
そう言って差し出されたのは、白い花をリボンで纏めただけのブーケだ。
「あ、ありがとう。その、茶も……。ミイスから聞いた」
「……ああ」
ロウェルは何故か困ったように淡く微笑む。
その静かな、どこか悲しげな表情を、時折彼は滲ませる。
セレンにはその理由が分からないまま、いつか知る時がくるのだろうか、と夢想する。
この男が傍にいること。
それが当たり前になればよいのに、とセレンは思いはじめていた。
受け取った花束に顔を寄せる。
冷たいと形容されがちなセレンとは、似ても似つかない可憐な花だ。
「よく似合うよ」
そんなことを嘯きながら、こめかみに口付けるロウェルに、セレンは曖昧に頷いた。
2025/08/22 00:00:02
#玉座の憧憬
#玉座の憧憬_本編 12
急な来客ということで、身繕いはそこそこにしてセレンは客人の元へと向かう。
もっと着飾らせたかったらしいミイスの不満げな視線を背中に感じながらも、それに気付かぬ振りで歩を進めた。
「ここだな?」
頷くミイスの姿を確認して、セレンは扉を叩いてからゆっくりと開ける。
「お待たせして申し訳な――…………」
だが、口にした謝罪を最後まで言い切る前に、セレンはそこにいた人物に、ぽかんと口を開けたまま呆けてしまう。
固まったままのセレンに、彼はスッと立ち上がると、信じられないほど様になった礼をとった。
「お会い頂けまして大変光栄にございます、殿下」
「なっ……、な――」
セレンの手を取り、その指先に口付ける男の仕草は板についていて、一朝一夕で身につけたものではないとわかる。だからこそよけいに混乱しながらも、セレンはどうにか声を絞り出した。
「どうして、お前がここにいるんだ!!」
そう叫ぶと彼――ロウェルは、イタズラが成功したように、ニヤリと笑う。
「どうして、って。お仕事だよ。お仕事」
ロウェルの「お仕事」という言葉で、使者の護衛でもしているのかと思い辺りを見渡すが、どこを見ても彼以外に誰もいない。
その仕草でセレンが何を考えているのか察しがついたらしく、彼はくすくすと笑った。
「そんな必死で探しても、俺以外いないぞ? ロムーリャからの使者は俺だからな」
断言されてしまい、セレンはますます混乱する。
「だ、だが、傭兵だって言ってたじゃないか!」
「傭兵、み、た、い、な、って言っただろ?」
セレンはロウェルの半笑いをしたままの反論に、ぐぬと言葉を詰まらせた。
たしかに、そう言われた気がする。
しかし、なんとも納得できずに顔をしかめていると、ロウェルがぽんとセレンの肩に手を置いた。
「揶揄って悪かったよ。さ、座ろう」
促されてソファに腰を下ろすと、彼もその隣に座る。
膝の上に置いた手は握られ、太腿は触れあいそうなほど近い。
明らかに領主と使者の距離感ではなかったが、セレンがそれに気付くほど平静を取り戻した頃には随分時間が経っていて、今更指摘できそうもなかった。
どことなく気まずさを感じながら、セレンは俯き加減で口を開く。
「お前、いつから私が『セレンティーネ』だと?」
「……まあ、暫く一緒にいたんだ。やんごとなき身分の方だってことくらい、すぐわかるさ」
「そういうものか……」
「セレンティーネ」
耳元で囁かれる名前に肩が跳ねた。
「拗ねてないで、そろそろこっち向いてよ」
「なっ、拗ねてなんか……」
顔を上げると、ロウェルと目が間近で合って口を噤んでしまう。
ロウェルは微笑を浮かべると、セレンの耳元に顔を寄せる。
「さみしかった?」
「だ、誰が……っ」
「そう? 俺はさみしかったけど……」
耳朶に触れる吐息に、セレンはぎゅっと目を瞑る。
身体と心に未知の感覚が湧き起こる。
それに怖気づきながらも、何故か逃げようとは思えなかった。
「ね。俺もっとセレンティーネの傍にいたいんだけど……、だめか?」
「っ、好きに……したらいい」
セレンが小さく頷くと、ロウェルは小さく嘆息した。
「……ありがとう、セレンティーネ」
背中に回った彼の腕に緊張しながら、セレンは安堵の混じるロウェルの声音に不思議なものを感じていた。
#玉座の憧憬_本編 12
急な来客ということで、身繕いはそこそこにしてセレンは客人の元へと向かう。
もっと着飾らせたかったらしいミイスの不満げな視線を背中に感じながらも、それに気付かぬ振りで歩を進めた。
「ここだな?」
頷くミイスの姿を確認して、セレンは扉を叩いてからゆっくりと開ける。
「お待たせして申し訳な――…………」
だが、口にした謝罪を最後まで言い切る前に、セレンはそこにいた人物に、ぽかんと口を開けたまま呆けてしまう。
固まったままのセレンに、彼はスッと立ち上がると、信じられないほど様になった礼をとった。
「お会い頂けまして大変光栄にございます、殿下」
「なっ……、な――」
セレンの手を取り、その指先に口付ける男の仕草は板についていて、一朝一夕で身につけたものではないとわかる。だからこそよけいに混乱しながらも、セレンはどうにか声を絞り出した。
「どうして、お前がここにいるんだ!!」
そう叫ぶと彼――ロウェルは、イタズラが成功したように、ニヤリと笑う。
「どうして、って。お仕事だよ。お仕事」
ロウェルの「お仕事」という言葉で、使者の護衛でもしているのかと思い辺りを見渡すが、どこを見ても彼以外に誰もいない。
その仕草でセレンが何を考えているのか察しがついたらしく、彼はくすくすと笑った。
「そんな必死で探しても、俺以外いないぞ? ロムーリャからの使者は俺だからな」
断言されてしまい、セレンはますます混乱する。
「だ、だが、傭兵だって言ってたじゃないか!」
「傭兵、み、た、い、な、って言っただろ?」
セレンはロウェルの半笑いをしたままの反論に、ぐぬと言葉を詰まらせた。
たしかに、そう言われた気がする。
しかし、なんとも納得できずに顔をしかめていると、ロウェルがぽんとセレンの肩に手を置いた。
「揶揄って悪かったよ。さ、座ろう」
促されてソファに腰を下ろすと、彼もその隣に座る。
膝の上に置いた手は握られ、太腿は触れあいそうなほど近い。
明らかに領主と使者の距離感ではなかったが、セレンがそれに気付くほど平静を取り戻した頃には随分時間が経っていて、今更指摘できそうもなかった。
どことなく気まずさを感じながら、セレンは俯き加減で口を開く。
「お前、いつから私が『セレンティーネ』だと?」
「……まあ、暫く一緒にいたんだ。やんごとなき身分の方だってことくらい、すぐわかるさ」
「そういうものか……」
「セレンティーネ」
耳元で囁かれる名前に肩が跳ねた。
「拗ねてないで、そろそろこっち向いてよ」
「なっ、拗ねてなんか……」
顔を上げると、ロウェルと目が間近で合って口を噤んでしまう。
ロウェルは微笑を浮かべると、セレンの耳元に顔を寄せる。
「さみしかった?」
「だ、誰が……っ」
「そう? 俺はさみしかったけど……」
耳朶に触れる吐息に、セレンはぎゅっと目を瞑る。
身体と心に未知の感覚が湧き起こる。
それに怖気づきながらも、何故か逃げようとは思えなかった。
「ね。俺もっとセレンティーネの傍にいたいんだけど……、だめか?」
「っ、好きに……したらいい」
セレンが小さく頷くと、ロウェルは小さく嘆息した。
「……ありがとう、セレンティーネ」
背中に回った彼の腕に緊張しながら、セレンは安堵の混じるロウェルの声音に不思議なものを感じていた。
2025/08/22 00:00:01
#玉座の憧憬
#玉座の憧憬_本編 11
「…………はぁ」
物思いに沈んでいたセレンは、無意識に頬を指で辿る。
アキュイラの城へと到着してから――、ロウェルとの別れから、数日。
王都から突然やってきた余所者の王女を、この地の人々はあたたかく迎えてくれた。
なんでも、頻繁に変わってしまう代官ではなく、「領主」が、それも王女がやってきた、というのが嬉しいらしい。
以前は他領と変わらず貴族家の一つが治めていたアキュイラだが、彼らは横領やらなんやらと悪事を働いて罷免され、それ以降なかなか後任が見つからず、現在に至る。
代官の任期は基本的に一、二年。当座を乗り切るには十分だが、先を見据え、長期目線での領地運営は難しい。
そういう事情を聞けば、領主邸で働く人々が喜ぶのも理解できた。
また、セレンの赴任までこの地を守っていた代官も、引き継ぎのために当面残ることになっているのだが、彼が王女を歓迎する雰囲気を作ってくれていたのも大きいだろう。
現在セレンは、その代官に執務の内容を教わりながら、アキュイラの地について学びを進めている。
冷たい王宮とは違う、あたたかな空気。
王女ではなく、「セレン」に向けられる笑顔。
まだここに到着してから、片手で数えられる程度の日数しか経っていないにもかかわらず、安心と充足を――感じたことのない居心地の良さを覚えていた。
「……私は」
このまま、ここで生きていってはいけないだろうか。
母の願いも何もかも忘れて。
すり、と頬を指で辿る。
あんな風に触れられたのは、はじめてだった。
人の手というものは、あんなにも……やわらかにふれるものなの――?
「わたしは……」
その時、控えめなノックの音が聞こえて、セレンは顔を跳ね上げた。
「っ、誰だ?」
「ミイスです」
入室を許可すると、どこか怪訝な顔をしたミイスが入ってくる。
「どうした?」
「その、姫様にお客様だそうで……」
「……客?」
自分をこんな辺境まで訪ねてくる「客」に、まったく心当たりがない。
「どなただ?」
「ロムーリャ公国からの使者様だそうです」
セレンはますます首を捻る。
ロムーリャ公国――。ここ、ウィレミニア王国の属国であり、アレイストの母がいる国だ。
ミイスによると、セレンのアキュイラ領主就任を祝いにきた、ということだが……。
「何故……?」
「さあ…………」
弟ならばともかく、セレンに公国との直接的な繋がりはない。アキュイラが国境を接しているわけでもなく、理由がよく分からなかった。
だが、相手は公国の印璽が押された書状を持っているとかで、無下にすることもできなかったそうだ。
「どうされます?」
「……会う」
訝しむ気持ちが無いではなかったが、正式な使者として訪ねてきたのならば、自分が対応する他ない。
セレンは仕方なく立ち上がると、客人を待たせているという応接室へ向かった。
#玉座の憧憬_本編 11
「…………はぁ」
物思いに沈んでいたセレンは、無意識に頬を指で辿る。
アキュイラの城へと到着してから――、ロウェルとの別れから、数日。
王都から突然やってきた余所者の王女を、この地の人々はあたたかく迎えてくれた。
なんでも、頻繁に変わってしまう代官ではなく、「領主」が、それも王女がやってきた、というのが嬉しいらしい。
以前は他領と変わらず貴族家の一つが治めていたアキュイラだが、彼らは横領やらなんやらと悪事を働いて罷免され、それ以降なかなか後任が見つからず、現在に至る。
代官の任期は基本的に一、二年。当座を乗り切るには十分だが、先を見据え、長期目線での領地運営は難しい。
そういう事情を聞けば、領主邸で働く人々が喜ぶのも理解できた。
また、セレンの赴任までこの地を守っていた代官も、引き継ぎのために当面残ることになっているのだが、彼が王女を歓迎する雰囲気を作ってくれていたのも大きいだろう。
現在セレンは、その代官に執務の内容を教わりながら、アキュイラの地について学びを進めている。
冷たい王宮とは違う、あたたかな空気。
王女ではなく、「セレン」に向けられる笑顔。
まだここに到着してから、片手で数えられる程度の日数しか経っていないにもかかわらず、安心と充足を――感じたことのない居心地の良さを覚えていた。
「……私は」
このまま、ここで生きていってはいけないだろうか。
母の願いも何もかも忘れて。
すり、と頬を指で辿る。
あんな風に触れられたのは、はじめてだった。
人の手というものは、あんなにも……やわらかにふれるものなの――?
「わたしは……」
その時、控えめなノックの音が聞こえて、セレンは顔を跳ね上げた。
「っ、誰だ?」
「ミイスです」
入室を許可すると、どこか怪訝な顔をしたミイスが入ってくる。
「どうした?」
「その、姫様にお客様だそうで……」
「……客?」
自分をこんな辺境まで訪ねてくる「客」に、まったく心当たりがない。
「どなただ?」
「ロムーリャ公国からの使者様だそうです」
セレンはますます首を捻る。
ロムーリャ公国――。ここ、ウィレミニア王国の属国であり、アレイストの母がいる国だ。
ミイスによると、セレンのアキュイラ領主就任を祝いにきた、ということだが……。
「何故……?」
「さあ…………」
弟ならばともかく、セレンに公国との直接的な繋がりはない。アキュイラが国境を接しているわけでもなく、理由がよく分からなかった。
だが、相手は公国の印璽が押された書状を持っているとかで、無下にすることもできなかったそうだ。
「どうされます?」
「……会う」
訝しむ気持ちが無いではなかったが、正式な使者として訪ねてきたのならば、自分が対応する他ない。
セレンは仕方なく立ち上がると、客人を待たせているという応接室へ向かった。
2025/08/22 00:00:00
#玉座の憧憬
#玉座の憧憬_本編 10
セレンの心配をよそに、一行は何の問題も起こらないまま、アキュイラの地を踏んだ。
国境地帯ではあるものの、もう何十年と戦の起こっていない街は美しく整備され、馬車から見るその光景は両国の平和を象徴しているように思えた。
これから、自分はこの場所で生きて、そして死んでいくのだろうか。
ほんの少し、胸の中に寂寥が浮かぶ。だがそれと同じくらい、この美しい街を守っていくという役目は、そう悪いものではないのかもしれないとも思う。
「――少し、街を歩いてみたいんだが」
ぽつりと零れた言葉にミイスがにっこりと微笑み、程なくして馬車は街の広場に停車したのだった。
ロウェルの手を借りて地面へと降りたセレンは、王都とはまた違うアキュイラの街並みに、きょろきょろと視線を巡らせる。
そんなセレンにくすとロウェルが笑みを漏らす。
「楽しそうだな」
「なっ……そ、そんなんじゃないっ。私は周囲を警戒して――」
「はいはい、そういうことにしといてやるよ」
苦笑しながら髪をかき混ぜる手に、セレンはますます目を吊り上げる。
「だから、髪を乱すのはやめろと――」
セレンが拳を握ると、彼は手を離して肩を竦めた。
「まあ、なんにせよ無事に着いてよかったじゃないか」
「……ああ」
「んじゃ、俺もお役御免だな」
そう言って、ニッと笑うロウェルに、セレンは虚を突かれる。
「は――?」
「おいおい。元々アキュイラまでの護衛、っていう契約だったろ? 忘れちまったか?」
「そういうわけじゃ……」
たしかに、目的の場所まで到着はした。だが、てっきり城まで――、これからセレンが住むことになる場所までは着いて来るのかと思っていたのだ。
まだ別れまで暫しの猶予があると思っていた――。
だが、ロウェルは「お役御免」という言葉を取り消す気配もなく、セレンは呆然としたまま、どうにか謝礼金の手配だけは指示をする。
ロウェルは受け取った袋を開けて、ザッと中身を確認するとすぐに懐にしまった。
「はいよ、たしかに」
セレンは何と言ってよいか分からずに、ただロウェルの姿を無言で見つめる。
「それじゃあな」
「…………ああ」
ここで彼を引き留める理由など存在しない。
セレンは俯きながら、こくりと頷いた。
だが、彼はすぐには去ろうとせず、小さく嘆息する。そして、セレンの俯いた視界に彼の手が伸びてくる。
「な、に……」
頬をすべる指に、上を向かされる。
感情の読めない彼の目と視線が絡んで、セレンはぴくりと肩を跳ねさせた。
「そんな顔しなくても、すぐに会える。またな、セレンティーネ」
「え……」
ロウェルの唇が頬をかすめてゆく。
セレンは彼の体温が移ったかのように熱い頬を押さえながら、今度こそ去っていくロウェルの背中をただ見送った。
#玉座の憧憬_本編 10
セレンの心配をよそに、一行は何の問題も起こらないまま、アキュイラの地を踏んだ。
国境地帯ではあるものの、もう何十年と戦の起こっていない街は美しく整備され、馬車から見るその光景は両国の平和を象徴しているように思えた。
これから、自分はこの場所で生きて、そして死んでいくのだろうか。
ほんの少し、胸の中に寂寥が浮かぶ。だがそれと同じくらい、この美しい街を守っていくという役目は、そう悪いものではないのかもしれないとも思う。
「――少し、街を歩いてみたいんだが」
ぽつりと零れた言葉にミイスがにっこりと微笑み、程なくして馬車は街の広場に停車したのだった。
ロウェルの手を借りて地面へと降りたセレンは、王都とはまた違うアキュイラの街並みに、きょろきょろと視線を巡らせる。
そんなセレンにくすとロウェルが笑みを漏らす。
「楽しそうだな」
「なっ……そ、そんなんじゃないっ。私は周囲を警戒して――」
「はいはい、そういうことにしといてやるよ」
苦笑しながら髪をかき混ぜる手に、セレンはますます目を吊り上げる。
「だから、髪を乱すのはやめろと――」
セレンが拳を握ると、彼は手を離して肩を竦めた。
「まあ、なんにせよ無事に着いてよかったじゃないか」
「……ああ」
「んじゃ、俺もお役御免だな」
そう言って、ニッと笑うロウェルに、セレンは虚を突かれる。
「は――?」
「おいおい。元々アキュイラまでの護衛、っていう契約だったろ? 忘れちまったか?」
「そういうわけじゃ……」
たしかに、目的の場所まで到着はした。だが、てっきり城まで――、これからセレンが住むことになる場所までは着いて来るのかと思っていたのだ。
まだ別れまで暫しの猶予があると思っていた――。
だが、ロウェルは「お役御免」という言葉を取り消す気配もなく、セレンは呆然としたまま、どうにか謝礼金の手配だけは指示をする。
ロウェルは受け取った袋を開けて、ザッと中身を確認するとすぐに懐にしまった。
「はいよ、たしかに」
セレンは何と言ってよいか分からずに、ただロウェルの姿を無言で見つめる。
「それじゃあな」
「…………ああ」
ここで彼を引き留める理由など存在しない。
セレンは俯きながら、こくりと頷いた。
だが、彼はすぐには去ろうとせず、小さく嘆息する。そして、セレンの俯いた視界に彼の手が伸びてくる。
「な、に……」
頬をすべる指に、上を向かされる。
感情の読めない彼の目と視線が絡んで、セレンはぴくりと肩を跳ねさせた。
「そんな顔しなくても、すぐに会える。またな、セレンティーネ」
「え……」
ロウェルの唇が頬をかすめてゆく。
セレンは彼の体温が移ったかのように熱い頬を押さえながら、今度こそ去っていくロウェルの背中をただ見送った。
2025/08/20 00:00:00
作品一覧
改稿版更新中
初稿更新終了
初稿更新中
改稿版完結
#玉座の憧憬_本編 19
セレンはその夜、アキュイラを出奔した。
誰にも、何も告げず。ロウェルだけを連れて、まるで――逃げるかのように。
ほんの数ヶ月前に馬車に乗ってゆったりと進んだ道を、馬で駆ける。
人目を避けるように山道を辿り、夜になればそのまま山中でロウェルに寄り掛かるようにして眠った。
そうしなければ、眠れなかったのだ。
「セレンティーネ、もう王都はすぐだ。今日は街に泊まろう」
そんな暇は、と言いかけたセレンだが、このままの薄汚れた着衣のままで向かうこともできないと気付いて、言葉を引っ込める。
「そう……だな。わかった」
セレンは進んでいた道を逸れて、ロウェルの言う街の方へと方向を変えた。
街まで到着した後は、慣れた様子のロウェルに先導されて、中流階級――主に金持ちの平民向けの宿へと向かった。手続きも何もかもロウェルに任せきりで、彼の背後で所在なく佇むしかできない。店主と朗らかに会話をするロウェルの背中を見つめながら、セレンは小さく溜息をついた。
平民の中では目立ってしまうという銀髪を隠すフード付きの外套を、ぎゅっと握りしめる。
ここまで辿り着くことすら、ロウェルに頼りきりだ。自分の無力さを一層痛感して胸が苦しい。
「――セレンティーネ?」
その時、ロウェルが顔を覗き込んで、小声で名前を呼ばれる。驚いて顔を上げると、気遣わしげな表情をする彼と目が合った。
「な、なんだ?」
「いや。ぼーっとしてるから心配になっただけで。平気か?」
こくりとセレンが頷くと、ロウェルはセレンの手に鍵を握らせてきた。
「これ部屋の鍵な。俺はちょっと出てくるから……、一人で部屋まで行けるか?」
「ばっ、馬鹿にするな。それくらいできる」
苦笑するロウェルに背を向けて、階段を登った。鍵についた番号通りの部屋へ辿り着くと、扉を開けて中へと入る。既に荷物は運び込まれており、更に中にある三つの扉は、一つが浴室、後の二つがそれぞれ一人用の寝室となっているようだった。
一通り内部を確認したセレンは、共用部分に設えられたソファへと腰を降ろした。
しんと沈黙が身を包んで、急に手が震えた。
本当にこの選択は正しかったのだろうか。
こんな所まで来てしまって、何か自分が酷く愚かなことをしているのではないかと思えてしまう。
後悔、という言葉が浮かびそうになって、セレンは慌てて首を振った。
務めを放棄してアキュイラを出てしまったのだ。
もう、後戻りなんてできない。
手の震えを止めようと、両手を強く握りしめる。
こんなところで、怖気づいている場合ではないのだから。
――けど。
「ロウェル……」
彼は何故、自分と共に来てくれたのだろう。
何の関係もなかったはずなのに。
ただ、セレンが「付いて来て」と言ってしまったばかりに――。
それでも、彼には最期まで傍にいてほしいと願っていた。
この旅の終着点に辿り着くまでは。
セレンは立ち上がって、窓から外を眺めた。
思えば、アキュイラを出て以降、ロウェルがこんなにも傍を離れるのは初めてな気がする。
たったそれだけで、こんなに心細く感じるのかと自嘲した。
その時ふと、窓から見える路地にロウェルの姿が見えた。
そのそばには、フードを目深にかぶった人影がある。
彼らはしばし言葉を交わすと、それぞれ別方向に歩きはじめる。程なくして、ロウェルはセレンのいる部屋まで戻ってきた。
扉を開ける音に振り返って、室内に入ってきたロウェルを見る。
「今……、誰と話していたんだ?」
ロウェルは一瞬驚いた顔をした後、笑みを浮かべて事も無げに言った。
「……別に、道を聞かれただけだよ」
本当に?
セレンはそう思ったが、「もう話は終わった」とばかりに彼は背を向けてしまう。
その背中にもう一度声をかけることは、何故か出来なかった。