海の畔に住む彼――ツェントは、ミアメールで生まれ育った画家だ。

 見る度にその顔を変える海の景色を愛し、ただその美しさを絵に描き起こしてきた。

 彼にとって大事なものといえば、海と――あとは、一つ下の妹。そのくらいだった。

「……おかしい」

 どうにも集中できず、キャンバスに絵筆をとるのを諦めたツェントは、スケッチブックを前に鉛筆を握りしめて、小さく呻いた。

 目の前の紙には、先程一度だけ見た見知らぬ青年の横顔が描かれている。

「おかしい」

 ツェントは頭を抱えて溜息をついた。

 ラフ画として描かれた名前も知らぬ青年は一人ではない。数ページに渡り、幾度も描かれていた。

 目が合った時の驚いた顔。目を伏せた時の眼差し。足早に去る横顔。歩き去る後ろ姿。果ては、遠くに小さく見える、ヤシの木に寄りかかって海を見つめる様子を描いていた。

「俺が、こんなに誰かを描くなんて……」

 これまで、ツェントの目を奪うのは海の景色ばかりだった。家族や友人を手慰みに描くことはあったが、こんなにも一心に――時が経つのを忘れるほど描いたのは初めてだった。

 彼がツェントの前を通ったのは昼過ぎだっただろうか。しかし時刻は既に夕方。赤い日が海の向こうに消えようとしている。

「少し寒くなってきたな……」

 ようやく多少は気が済んで余裕が出たのか、自身の身体を冷やす潮風に気付く。ふるりと身体を震わせて、部屋の中へ戻ろうかと思い――、ふと足を止めた。

「――彼はいつまであそこにいるんだ?」

 ヤシの木の根元には、いまだに件の青年がいる。

 あのままでは風邪を引いてしまう。

 ツェントは居ても立ってもいられなくなり、テラスから階段を下って浜辺へと降りる。

 そして、早足で青年の元へ急ぐのだった。

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