Side.A 〜アリス〜
王都を出てひたすら東へ。海を越えると、また陸地が見える。
気候も風土も文化も、何もかも違うその場所を、まだ出港していない船から思いを馳せる。
自分で考えて決めた事だから、後悔は無い。だが、不安は数えきれないほどあった。
潮風に舞い上がる髪を抑える。
私は蛮国と言われる東国へ。王の花嫁となるために―――
「………私、何しに来たんだっけ。」
私は、この国に来てからすっかりお気に入りとなった、少し甘めのお茶をすすって、一人呟いた。故郷の、この国から海を越えて西にあるその国を離れ、この場所にたどり着いてから、早一ヶ月。私、アリス・トレティアは、夫となったはずのこの国の王と、ベールのような垂幕の向こうの夫と一度会ったきり、それから一度も、顔を見た事すらなかった。勿論、メイド達はよくしてくれているけれど、そういう問題ではない。
そう、私は、この国の王と結婚した。それでいうと、もう「アリス・トレティア」ではないかもしれないけれど、結婚出来ているのかも怪しい現状では、どちらでもいいことだった。
話を戻して。私の夫となったのは、リン シュンレイ。故郷に溢れていた名前とは随分様子が違って、上が姓、下が名だそうだ。
彼はここ一月というものの、忙しいのか、それとも私に会いたくないのか、そのあたりは判然としないものの、会いに来る事も無く、また、私が会おうとしても会えず、たまに見かけても、そそくさと何処かへと立ち去って行く、といったありさまだった。
私が何をしたっていうのかしら…。
私は、気分を落ち着けるように、もう一口お茶を啜って、部屋の端にある一輪挿しを見た。
「嫌われてるわけでは、ないのかも、だけど…。」
この国に入り部屋をあてがわれて一月、あの花瓶から花が消えた事は無い。萎れてくるタイミングで、毎回違う花が陛下から贈られてきていた。忘れられているわけでは、ないようだった。
ただ、何もしないままこうやっているのは、何とも居心地が悪い。ただ飯食らいの気分だった。
とくに母国の王族は、一夫多妻が基本だったが、この国は、基本的に一夫一妻。さらに陛下は、愛妾を持っていないらしく、名実ともに妻は私だけ、ということで、そろそろ私達がベッドを共にしていない事に、臣下達もピリピリし始めている。
とは言っても、こちらから行くなどという、はしたないまねをするわけにもいかない。
「でも、とりあえず会わない事には、ね……。」
私は持っていたカップを置いて立ち上がった。膨らんだスカートと違って、随分立ちやすいし、動きやすい。はじめはゆったりとした服が慣れなかったけれど、今となっては楽でとても気に入っていた。
しかし立ったはいいのだけれど、当てがあるわけでもない。私はとりあえず、庭の方へと出ることにした。
故国の庭と違い、草木が自然に生やされていて、花壇と路にわかれておらず、若干の歩きにくさはあったが、実家となったあの家の、締め付けるような庭と違って、すぐ好きになった。
小さな池まで歩いて行って、池のほとりをゆっくりと辿る。
何か陛下と会うための手立てを考えようと思っていたのだけれど。元住んでいた家の庭の事を思い出すと、少しだけ寂しさがよぎった。
あの家に未練はほとんどないけれど、一つだけ、気になっていることがあった。
「リリィは、どうしているかしら……。」
リリィ・トレティア。五つ年下の、私の腹違いの妹だった。
池から目を離して、ちらりと横にある植え込みを見た。
今から十年程前のことだったか。丁度このくらいの、腰に足らないぐらいの植え込みの傍で、泣いていた女の子がいた。
あの日は丁度、いつもはみっちりと入っている勉強の時間が空いていて、部屋でのんびりとしていた時だったと思う。
他の人間がいる場所から、少し離れた場所に部屋があったので、いつもは静かな部屋だったのだけれど、どこからか微かに、泣き声のようなものが聞こえてきた。
「?」
その声は庭の方から聞こえてきて、外を見渡しても何も見えなかったので、部屋に戻ろうかと思ったのだけれど、なぜか気になって、外へとその声を辿って行った。
その声のする方へ行くと、案の定というか、もちろん人がいた。その人物は、あまり会った覚えは無かったけれど、おそらくは五歳を迎えたばかりの義妹のリリィだと思われた。この邸内で、この年頃の子はリリィ以外いないはずだ。
「どうしたの?」
見かねて声をかけると、涙でぐちゃぐちゃの顔のリリィは、今はじめて他人の存在に気が付いたのか、ばっと顔を上げた。
「あ、あ…。『アリス』…?」
リリィは目の前にいるのが誰か悟ると、怯えきったような表情になって、じりっと後ずさった。
「そうよ。」
私はそんなリリィの様子を気にしない事にして、彼女に笑いかかけた。リリィに罪は無い。近付かないようにして、彼女の様子を見ると、転んだのか、ドレスがところどころ土で汚れていた。
「転んだの? 怪我は無い?」
リリィはじぃっと私の方を見ていたけれど、またぶわっと涙を溢れさせると、スカートをぎゅっと握って俯いた。けれど、首をぶんぶんと振ると、またわんわんと泣き始めた。
こちらの言うことには答えてくれてはいるけれど、近付いてほしくなさそうだし、喋ってもくれない。
どうしよう…。
しかし、どうしようもなくて、よくよくリリィの様子を観察していると、スカートの裾に目がいった。裾の一部が裂けていた。
「スカートが破れちゃったから泣いてるの?」
私がそろっと話しかけると、リリィは小さく頷いた。
なるほど、それならどうにかしようがある。
「少し、待っててね。」
そう言って私は部屋へ戻って、あるものを持ってリリィの元へ帰った。
あとは近付かせてくれるかだ。
私が戻ると、私に怯えていた割には、戻ってきたことにほっとしたような表情を、リリィは浮かべた。これなら何とかなるかもしれない。
「近くに行ってもいい? そのスカート、直してあげるから。」
リリィはびっくりしたような表情で、私を見ていたけれど、スカートを直すという言葉に惹かれたのか、おっかなびっくりといった様子ではあったけれど、小さく頷いた。
私はそれを確認すると、植え込みをよけて、リリィの隣に座った。すると、リリィはおずおずとスカートの破れた部分を差し出してきた。
「動かないで待っててね。」
私はそう言って、部屋から持ってきたソーイングセットを出した。針を出した時、リリィがびくっとしていたけれど、我慢してもらうしかない。
私が布に針を通すと、何をしているのか分からない様子のリリィは、至極心配げな表情で、私の様子を見守っていた。しかし、どんどんスカートの破れが修復されていくのを見るうちに、興味津々といった様子で、食い入るように私の手元を見つめていた。
「はい、終わり。もう動いていいわよ。」
私がそう言って、スカートから手を離すと、リリィはその繋ぎ目をパッと手に取ると、じぃっと真近くで見ていた。
私が針や糸をしまって、リリィの方を見ると、ぱぁっと顔を輝かせたリリィが、私の手を取った。
「アリスの手って、魔法の手なんだね! リリィにも出来るかなぁ?」
最初の怯えようはどこへやら、リリィは満面の笑みを私へ向けてきた。思えば、この家へ来てから初めて向けられた、笑顔だったかもしれない。私は自然とリリィの頭に手を伸ばして、優しく撫でた。
「きっと出来るわ。…教えてあげましょうか?」
リリィは嬉しげに顔を輝かせると、こくこくと頷いていた。
リリィが私を「姉様」と呼んで、慕ってくれるようになったのは、間もなくのことだった。
私は、いつの間にか閉じていた目を、ゆっくりと開いた。リリィはあの日以来、ちょくちょく私の部屋を訪れては、私に裁縫を習って、お喋りをしていくようになった。
今も、もしあの日のリリィのように、陛下に会うことが出来れば、いいのだけれど。
だが、そうそううまくいくはずもない。
「………。」
しかし、そうでもないのかもしれない。
茂みの近くに立つ植木の端から、黒い髪の毛が、ちょろっと飛び出しているのを、私は発見した。私は小さく溜息を吐いた。
この邸内に出入りする人間も数多くいるけれど、こうやって、身を隠すようにしている必要がある人物は、そうそういない。使用人は隠れる必要は無いし、来客ならなおさらだし、私にも連絡が来るはず。あとは、不法進入者の可能性だけれど、同じく見え隠れする衣服を見るに、ある程度の身分の人間であることを考えると、その可能性も低い。
となると、残る可能性としては、あの人物しかいない。
「あの。陛下…?」
話しかけられるとは思っていなかったのか、陛下のいた植木がガサッと動いて、陛下が…、どうも尻餅をついたらしい。
「あの……。」
私は、植木の向こうでしゃがんだまま起きてこない陛下に、そろりと近づこうとして、一歩踏み出し、カサリと草を踏みしめる音がした。
「うぎゃあ!」
「え…!?」
私が踏んだ草がならした、カサリという小さな音に驚いたような様子で、陛下は手で頭を覆って、微かにぷるぷる震えている。
リリィのときより、怯えかたがひどい…。
ともかく私は、近付くのを諦めて、暫く様子を窺うことにした。何もしないと分かれば、話しかけてくるなり、逃げ去るなりするだろう。
そして、黙ったまま待つこと、十数分。陛下は相変わらず、手を顔で覆い、私に背を向けたままではあったけれど、震えは止まって、彼はそろそろと口を開いた。
「あ、あの……。ごめん。僕、人前に出るのが、苦手で………。」
だから、ずっと逃げたりしててごめん、といった内容を、続けてごにょごにょといった。
初めて会った時は、堂々としていた気がしたのだけれど。顔を晒してなかったからだろうか。
「そう、でしたの…。」
まさか、ここ一月、会うことすら叶わなかった理由が、極度の人見知りとは。私は呆れと、嫌われているわけではなさそうだという安堵で、口がきけそうになかったところ、なんとかそれだけ返した。
しかし、これは困った。これでは、リリィのとき以上に、近付く事すら出来そうもない。
さて、どうしたものか、と思案していると、陛下が何事かを、ごにょごにょと喋り始めた。
「ええと。それで、君は……。」
そこで陛下の言葉が途切れた。
いや、何事かを言おうとはしている。しかし、どれも言葉にならない。
もしかして、名前を忘れられてるのかしら…。私が誰なのか、実は分かってない、とか…。
一月で一度、しかも遠目でしか会っていない女の名など、忘れられていても仕方がないかもしれない。私は肩を竦めて、陛下のいる植え込みを見た。
「アリスですわ、陛下。」
私がそう言うと、陛下は、はっとしたように首をぷるぷると振った。
「そ、そうじゃないんだ。名前を忘れていたわけじゃなくて、…その、何と呼んだらいいのか、と。」
「え…?」
私は植え込みの向こうで縮こまっている陛下を、驚いて見なおした。まるで初めて女性の相手をする、若い少年みたいだ。私は笑いを噛み殺すのに、大変な苦労を強いられた。
「…どうぞ、アリス、とお呼び下さい、陛下。」
「分かった、……アリス。」
きまり悪げな陛下に、私は微笑ましいものを感じた。私の記憶が正しければ、陛下は私よりも二つほど年上だったはずなのだけれど、まるで年下のような気がする。
しかし、このままではいつまで経っても近付けそうもない。ともかく、もう一度会う機会を設けねば。この機会を逃せば、次いつ会えるか、分かったものではない。
私は意を決して、陛下に話しかけた。
「ですが、陛下。無理にとは申しませんが、いつまでもこのままでは、皆も心配しますわ。…幸いにも、今宵は新月。明かりを消せば、きっと顔など見えはしません。―――夜に部屋でお待ちしております。……では、私はこれで。」
平静を保てていただろうか。
想定していたよりも、ずっと大胆なことを言ってしまった。私は、内心の動揺を悟られぬように、平然と、ただし早足で、その場を後にした。
急いで部屋へと戻った私は、何度か気分を落ち着かせるために、深呼吸をした後、私の世話をしてくれている、メイド長のメイリンを呼んだ。
私は、メイリンが来るまでの間に、部屋の端の棚に入れてある、愛用のソーイングセットを取り出してた。
「お呼びでしょうか、アリス様。」
「ええ、聞きたいことがあって。」
程無くして現れたメイリンを、私は部屋へと招き入れた。そして、ソーイングセットを開けて、その中に必要なものが入っているか確かめながら、私はメイリンに問いかける。
「陛下は、どんなお酒がお好みなのかしら?」
「お酒、ですか。」
私は、そう、と頷いた。そして、ソーイングセットの中に、黒糸があるのを確かめると、メイリンの方を向いた。
「実は、さっき陛下にお会いして。それで、その……、色々あって…。今夜、お部屋でお待ちしてます、って言っちゃったのよ。」
女の私から誘うだなんて、なんてはしたないまねをしてしまったのかしら、と今でも思うけれど、そうでもしないと、向こう一月、また会えないかもしれない。
「はぁ、それで…お酒ですか。」
どこか呆れたような口調のメイリンに、私は開きなおたような気分になって頷いた。
「そう。正直言うと、私が落ち着きたいの。…でも、どうせなら、陛下がお好きなものの方が良いでしょう?」
お酒の力で、陛下をどうこうしようとは思っていなかった。でも、こちらの気持ちは別だし、なにより、自分から誘った決まり悪さを、消すことは出来ないにせよ、せめて忘れたかった。
「分かりました、用意しておきます。」
「よろしくね。…あ、あともう一つ。薄手の黒い布を、用意してほしいわ。」
「?」
突然何を、といった表情のメイリンに、事情を説明すると、彼女は微笑んで頷き、すぐに布を取りに部屋を出て行った。
夜。陽が落ちて暫く経った頃、私は少し前にメイリンが持ってきてくれた、お酒の瓶を前に、同じく持ってきてもらった黒い布に、針を通していた。もう目的の物は、粗方出来上がっているので、あとはボタンを付けて、糸の始末をするだけだ。
「よーし、出来上がり。」
なかなか会心の出来だ。私は、綺麗に仕上がったそれを、満足げに前にかざして、前にある机の端に、綺麗に畳んで置いた。
そして、ソーイングセットを片付けていると、ふいに部屋の扉の外から、声がかかった。
「アリス?」
声からしても、陛下だと容易に分かった。私は、慌てて片づけを終えて、さっきまで縫っていたそれを掴むと、扉に近寄った。
「陛下ですね? …えっと、今から扉を開けますので、後ろを向いて、しゃがんで下さいますか?」
「え……? えっと…、分かった。」
当然ながら意味が分からないようで、扉の向こうからは、戸惑ったような声が聞こえる。私はそれに、少しだけ笑うと、十分に時間を取ってから、そっと扉を開けた。
そして、言った通りにしゃがんでいる陛下を見た。そして、手に持っていたそれを、陛下の頭にかぶせた。
「わっ…。」
陛下が驚いたように、声を漏らす。そして、何をされたのか確かめるように、頭に手をやる陛下に、私は少し笑って彼を見た。
「どうですか?」
「え、これ…。」
私が彼の頭にかぶせたのは布製の帽子で、そして、帽子の縁に薄く透けた黒い布を取り付けたものだった。昼間に会った時に、顔を合わせるのが苦手なような様子だったので、私なりに出来ることを考えてみた結果だった。明かりを消せばいいのだけれど、それだと昼間はどうするのかという問題になるし、夜は夜で、明かりを消せば周りが見えず、私も危ない。
「その、お恥ずかしながら、手作りなのですが。いかがですか?」
「これ、僕の為に?」
ようやく状況が呑み込めてきたらしい陛下は、そろそろと立ち上がって、私の顔を見た。私の方からは、はっきりと陛下の顔は見えず、目論見は成功しているようで、ほっとはしたけれど、陛下が気に入らねば、意味が無い。
「ええ、急いで作りましたので、至らぬところも、あるかとは思いますが…。」
「いや、すごいよ! ありがとう、アリス。」
表情を見ることは出来ないけれど、とても喜んでくれているのは、口調で分かった。これほどまでに、喜んでくれるとは思わなかった。
「いえ。…いつも綺麗なお花を頂いてますし、そのお返しの一つになれば、幸いですわ。」
私は陛下に微笑みかけると、彼を部屋へと促した。そして彼をイスに座らせて、私も隣に座ると、机の上のお酒を二人分注いだ。
「それから、これも。…メイリンに頼んで、陛下のお好きなものを、持ってきてもらいました。」
「そうなんだ。ありがとう、アリス。」
陛下は布が濡れないように、少しだけ持ち上げて、酒を啜った。それに倣うように、私も一口含む。
「裁縫、好きなの?」
「ええ、好きです。でも、こちらとはまた違いますので、こちらの物も勉強したいですね。」
私は、陛下の問いかけにそう言った。こちらの国と故国とでは、服も装飾も違う。きっと、また違う縫い方や道具もあるかもしれないと思っていた。
「それなら…、
「そうなんですか。今度、頼んでみます。」
メイリンならば頼みやすい。私は陛下の提案を、ありがたく受け取ることにした。
しかし、それで一旦会話が途切れると、一気に緊張が高まった気がした。少しは気を紛らわしてくれるかと思っていたお酒も、一向に効いていない。私は微かに震える手で、なんとかお酒を机に置いた。
その時、ふっと陛下が私の手に触れて、優しく握った。びっくりして彼の方を見ると、陛下は私に向かって、優しく微笑む気配がした。
陛下はもう片方の手で、私の頬をなぞって、顎を持ち上げた。
そして、陛下は私の頬に触れて、軽く唇に触れた。
「陛下……。」
陛下は私の手を握ったまま、立ち上がって私も立たせた。
「怖がらないで。」
そして、私を抱き上げると、部屋の明かりを消した。布の落ちる音がする。音の軽さ的に帽子を取ったのだろう。
「陛―――」
陛下は私の口を塞ぐようにキスを落とすと、私の耳元でぽそりと呟いた。
「……名前で呼んで、アリス。」
そう言ってくる陛下に驚いたけれど、私は彼の首に抱きついて、彼がしたように彼の耳元に口を寄せた。
「シュンレイ様…。」
シュンレイ様が微笑む気配がすると、私はベッドへと寝かされた。彼の顔は見えなかったけれど、優しさだけは十二分に感じることが出来た。
その日からあっという間に時が経った。この国に足を踏み入れたのは暖かくなってきた春の終わりだったのに、最近は少しずつ気温も下がりはじめ、秋が近付きはじめていた。
シュンレイ様とは、あの夜以来、昼も夜も時間の許す限り二人で過ごしていた。しかし、あの日送った帽子はかぶったまま、未だにはっきりと、彼の顔を見たことは無かった。
私は、さすがにここまでくると、まだダメなのかと、寂しさを感じないではなかったけれど、きっとタイミングを逃しているだけだ、と自分に言い聞かせていた。
「そういえば、アリスの故郷の話、あまり聞いてないね。家族のことも。妹君がいるのは聞いたけど。」
今日は、気候が良かったので、二人で庭へと出ていた。私が座って刺繍をしていると、シュンレイ様が寝転がって、結果私が膝枕をする形で落ち着いていた。
「そうですね……。」
今まで聞かれたことが無かったので、あえて自分から言わなかったのだけれど、いい機会かもしれない。リリィ以外の事で、あまり楽しいことは無いため、言い出しづらかったのもあるけれど、いずれは分かることだ。
私は、持っていた布を脇に置いた。
「あまり、楽しい話じゃないと思いますけど。それでも良いのでしたら。」
「……君が嫌でないなら。」
いつもシュンレイ様は、私を慮ってくれる。私は、起き上がって私の隣に座り込んだシュンレイ様に微笑むと、口を開いた。
「なら、私がトレティア家に来たところから、話しましょうか。」
私には、妹と兄、そして、父と母がいる。
私がトレティア家に来たのは、物心がつくかつかないかの頃、聞いた話では三歳になるくらいのことだったらしいけれど、トレティア家に連れて来られて、数日間のことはよく覚えている。おそらく、トレティア家に私を連れていった女性が、産みの母親だったのだろうけれど、そのあたりのことはよく覚えていなかった。
ただあの日、突然見た事が無いほど大きな屋敷へと連れていかれて、今日からこの家で暮らすのよ、そう言われた。
トレティア家には、私の「家族」がいて、その頃はまだ、リリィが生まれる前だったので、実の父親らしいトレティア家の当主、そして義母となる彼の妻、そして兄となる、私より五歳年上の二人の息子、ヴァルティスがいた。
後から聞いたところ、あの日、邸内は随分と荒れたらしい。父にしてみれば、誰かも覚えていないような女が突然現れ、子供を置いて行った日だったし、義母にすれば、父の浮気が発覚した日だった。
あの日から数日間、誰も来ないような屋敷の隅の部屋に閉じ込められ、おそらくは私が死ぬのを待っていたのだろう。けれど私は、部屋から何とか抜け出して、残飯を漁り、命を繋いでいた。
そのゴミ漁りのさなか、トレティア家のメイド長に発見され、人が食べる料理にありつけるようになったのは、一月ほど経った後だったらしい。
それを見たヴァルティス様の蔑むような目は、今でも忘れられない。
彼のことを兄と呼んだ時、「僕はお前の兄になった覚えはない。」と言われたのは、この時から、少し経った日のことだったように思う。
それから、私を餓死させるのを諦めた二人は、私が十歳ごろになるまで、完全に無視を決め込み、養育は使用人たちに任せ、私のことは視界に映らないようにしていた。当然、そんな両親を見ていた兄のヴァルティス様も、私に対して、彼の両親と同じ様な態度をとっていた。私が五歳の時に生まれた妹リリィも二人から、私には近寄らないようにと、厳しく言い聞かされていたらしい。十歳になった彼女と出会った時の怯えようは、このせいだった。
私が十歳になると、トレティアの名をかたる娘として、このままではまずいと考え直したのか、種々の家庭教師に、礼儀作法をはじめとした数々の勉強を教わることとなった。
何人もの教師たちがいたけれど、やはりというべきか、私への当たりは強かった。特にヴァルティス様についていた教師たちを、まわされるかっこうだったので、随分彼と比べられた。
「ヴァルティス坊ちゃまが、あなた位の歳の時は、もっと出来ていましたよ。」
彼らの口癖はこうだった。
後になって考えれば、幼い頃から英才教育を受けていた彼と、十歳まで使用人に育てられた庶民の私とを、比べるのが甚だ可笑しな話なのだけれど。
あの時は、その言葉を真に受けて、何事も頑張って、自分のものにしようとしていた。これが出来れば、彼らと家族になれるかもしれない、だなんて甘い事を、まだ考えていた時期だった。
しかし私が十五歳を少し超えた頃、突然、勉強漬けの日々から解放された。
ヴァルティス様が二十歳となって、彼が家の帳簿を見直した時に、彼の両親によって築かれた、多額の借金が発覚した。
その結果、教師を雇い続けることが出来なくなり、リリィの担当をしていた最低限の人員以外、皆解雇されて、私は結果として解放されることとなった。また、時を同じくして、使用人の殆どが暇を出されて、人の数がぐっと減って、内装や装身具の数も質も、私にはあまり関係が無かったけれど、かなり落ちた。
借金が見つかって以来、家の経理はヴァルティス様が取り仕切りはじめたらしい。しかし、この何年もの間で借金を作った二人の浪費癖は、なかなか収まらず、いつだったか、ヴァルティス様と大喧嘩しているのを聞いたことがあった。
彼と二人は仲が良いイメージがあったので、ヴァルティス様の剣幕に驚いたものだった。
それから五年をかけて、なんとか新たな借金を作らせなくすることには成功したようだけれど、以前のような生活に戻るのは時間がかかりそうだった。
「私がこちらに来て以来、家とは連絡を取っておりませんので。今はどうなっているか……、分かりませんけれど……。」
どう話を締めくくったら良いのか分からなくて、私はそのまま黙った。
シュンレイ様は、この話をどう思っただろう。
私は名家トレティア家の人間には相違なかったけれど、半分は「何処の馬の骨とも知れぬ女」の血が流れている。あちらにいた時も、心無い人間に揶揄されたことは、それこそ数えきれぬほどあった。
この結婚は、この東国と故郷の西国を結ぶためのもので、私がこうしてこの国に来たように、あちらにもこの国の姫が嫁いでいっているはずだ。本来なら、ここに来るべき姫は、由緒正しい姫であるべきだった。
私は隣に座るシュンレイ様を見た。表情は、やはり分からないけれど、彼も悩んでいるような気配を感じた。
私がどうしたものか、と思いつつも黙っていると、不意に、シュンレイ様は私の肩を抱き寄せて、私は彼にもたれる格好となった。
「こういう時、なんて言ったら良いんだろうね。……でも、アリス。僕は君がここに来てくれて、良かったと、そう思ってるよ。」
「……!」
私は胸がつまるような気がした。そんな風に言ってもらえるとは、全く思っていなかった。
嬉しかった。
とても嬉しかった。けれど、心には依然として、冷たいものが残っていた。いや、その存在を思い出した、というのが正しいかもしれない。
でも、あのことを知っても、同じように、いてくれるだろうか。
私はきゅっと目を閉じて、私の背を撫でる、シュンレイ様の手に身をまかせた。
「アリス様。お手紙が届きましたよ。」
シュンレイ様と、あの会話をしてから数日後のこと、手紙を持ってメイリンが部屋へと入ってきた。
封筒のつくりが西国のものだったので、誰か友人の一人から、手紙でも来たのかと、私はその封書を受け取った。
「リリィ……?」
しかし、裏返して差出人の名を見ると、それは妹リリィの名だった。
苗字が書いていなかったけれど、字は彼女のものだ。しかし、ここに来てからもう、半年弱の時間が経っているけれど、リリィも含め、親族からの手紙が来るのは初めてだった。
「何かあったのかしら。」
封を切り中身を見ると、その中には実に喜ばしいことが書いてあった。
親愛なるアリス姉様へ
最後に会った日から、もう随分の時間が経ってしまいました。そちらはいかがお過ごしでしょうか。私は元気にしています。
この度、手紙を送りましたのは、姉様に、嬉しい知らせをお届けしたかったからです。
私、結婚が決まりましたの。
お相手は、第一王子のエディルシード殿下です。 驚きました?
姉様が国を離れてしまってから、殿下とお会いする機会がございまして、その時に、ええっと、色々ありましたの。そのあたりの話もしたいです。
というわけで、つきましては姉様に、私達の結婚式にご出席していただきたく思います。式は初春を予定しております。冬場は、こちらとそちらの国の間にある海が、荒れると聞きましたので、秋の間にこちらまでおいでになってください。
お会いできる日を楽しみにしています。
リリィ
「メイリン! リリィが結婚するんですって。」
私は嬉しくなって、まだ部屋にいたメイリンに、満面の笑みでそう伝えた。リリィの幸せそうな雰囲気は、文字からも現れていて、私もとても幸せな気持ちになった。
「それは良うございましたね。おめでとうございます。」
メイリンも微笑ましげに、そう言ってくれた。
「ええ、ありがとう。 ……?」
しかし、私は手紙がもう一通ある事に気が付いた。私はその手紙を取り上げて、よく読んだ。「P.S.(追伸)」で始まるその文面を。
その手紙が手から零れ落ちた。
私は口を抑えて、二、三歩後ずさった。そして、耐えきれなくなったり、床に崩れ落ちるようにへたり込んだ。涙が溢れてぽたぽたと落ち、床を濡らしていった。
「…アリス様?!」
メイリンがそう、心配そうにかける声も、私は聞こえなかった。手の震えが止まらない。
私…、私は……。
終わりが来る。とても、とても怖かった。彼は、私に何と言うだろう。
しかし、全ては私が招いたことだった。
その夜、はじめての夜に用意していたお酒を用意して、シュンレイ様を待っていた。
「アリス?」
「……今日はお早いですね。」
いつもより早い時間に現れたシュンレイ様を、私はイスへと促した。そして、あの日のように、私がお酒を注いで、彼が帽子の裾を少し持ち上げて、それを一口飲んだ。私の手も、あの日と同じように震えていた。
空を見上げれば、付きもどこかへ行き、まるで、あの日に戻った様だった。
違うのは、私の、この心だけ……。
私は、ゆっくりと立ち上がって、シュンレイ様に抱きついた。
「アリス…? どうしたの?」
私は小さく首を振った。いつもは私から抱きつく事なんて、ほとんどなかったから、シュンレイ様が驚くのも無理はない。
でも今日は…。
シュンレイ様は、ゆっくりと私の頭を撫でる。
「―――て。」
「アリス?」
シュンレイ様は、私の声が聞き取れなかったのか、不思議そうな顔をして、私の顔を見た。私は、目をギュッと閉じた。
今日が、最後なのよ…。
私は目を開いて、シュンレイ様の帽子の裾を少しだけ持ち上げた。
「抱いてください…。」
私は、シュンレイ様の帽子の端から見え隠れする、彼の唇に、自分のそれを重ねた。
「アリ……。」
私は優しいその感触を、刻み込むように、彼に身体を寄せた。
「私を、強く……。」
頬に涙が伝った気がした。
昨夜は酷く泣いてしまった。
悲しくて泣いて。それを慰めようとするシュンレイ様の優しさが、痛くて、また涙が溢れた。
「起きた? ……昨日は随分泣いてたね。眼…赤くなってる。」
ベッドの縁に座っていたシュンレイ様が、私を抱き寄せた。彼はいつ起きたのか、既にしっかりと衣類を身に着けていた。
私は何も言えなくて、ただただ首を振ることしかできなかった。シュンレイ様の言う通り、赤くなっているのだろう。とても目が重くて、ヒリヒリとした。
「氷か何か、冷やせるものをもらってくるよ。」
何も言わない私を見かねたのか、シュンレイ様はそう言って、立ち上がろうとした。しかし、私は行こうとする彼の服の裾を、咄嗟に掴んで、彼を引き留めた。
「まって。……待って下さい。」
「……どうしたの。」
彼は立ち止まってゆっくり振り返ると、立膝をついて、両手で私の顔を包んだ。
私はこんなにも優しくしてもらう、権利があるのだろうか。私は、ただただ悲しかった。
でも、言わないと。
「……聞いて、ほしいことがあります。」
そう私が言うと、シュンレイ様は頷いて、床に落ちていた私の服を取り上げて、私の肩に掛けてから、ベッドの縁に座りなおした。
私は彼が掛けてくれた服を、ぎゅっと握りしめて、ベッドの近くにある棚から、昨日、リリィから届いた手紙を取り出した。そして、一枚目の、本文が書かれている便箋を取り出して、彼に渡した。
「リリィの結婚が決まったんです。」
彼はゆっくりとその手紙を読んで、丁寧にそれを畳むと、優しく私の手に返した。
「おめでとう。……でもこれは、アリスを悲しませている原因では、ないよね。」
私は彼の目を見ることが出来なかった。だから、俯いて黙ったまま、もう一枚の、「P.S.(追伸)」ではじまる、あの手紙を渡した。
はじめは変わらず穏やかな表情で読んでいたシュンレイ様も、次第に表情を変えていく。
私は、ぎゅっと目を閉じた。その手紙には、私の浅ましい心が綴られている。
P.S.
大事なことを言うのを忘れておりました。
今回、帰っていただくのは、一時的な事ではありません。もう私は、姉様が何と引き換えに、嫁いでいったのかを知っています。
帰って来てください、姉様。お金のことは私の結婚で、何とかなりますし、国家間のやり取りの方も、殿下が何とかして下さると、お約束いただきました。
もう、姉様が犠牲になる必要はありません。
帰って来てください。
トレティアの家に帰りたくないのならば、城に住むことも、殿下にお許しいただきました。
帰って来て、姉様。
リリィはいつまでも待っています。
彼は、少し困惑したような表情をしていた。
「これは、何を意味するの……?」
私は持っていた手紙を封筒にしまい込むと、棚にそれを置いた。
「この結婚。…私、言ってないことがあるんです。」
「……結婚?」
私は、小さく頷いた。
「私は、あちらのエディルシード殿下と、取引をして、こちらに来たのです……。」
あれはまだ、私が彼に嫁ぐ前、冬の間のことだった。友人のアリアナの家に、お喋りをしに訪ねて行った日のことだった。
「そうだ、アリス。この前、東国の王が友好の証として、我が国に来てたでしょ。」
アリアナは、ふと思い出したように、そう言った。
「秋頃にはもう帰ったわよね?」
あまり社交界にも出ることが無い私は、世の中のことを知る機会が無い。そんな私にアリアナは、いざというときに、今の話題に付いて行けるように、よく今のトレンドの話をしてくれていた。きっとこれもそうだろうと思って、私は彼女に頷いた。
「ええ、そうよ。でもね…その時にね、友好の為に、って言って、お互いの国の女性を相手の国に、伴侶として差し出すことになったんだって。」
「はぁ…、それで?」
その時に、ということは、これは秋の頃の話だということだ。ならば今、私に何の関係があるのだろう。私はつい、興味無さげな態度丸出しで、アリアナを見た。
アリアナには感謝しているけれど、そもそも私は噂話は好きではなかった。もっぱら噂される側の身としては、好きになれるはずもないのだけれど。
アリアナは私の考えていることなど、よく分かっているのだろう。彼女は仕方がない、というように溜息を吐いた。
「本題はここからよ。…その結婚で、こちらから送ることになっていた人が、行きたくないー、ってダダこねちゃったの。それで、そのストレスでしょうね…、その人とその母親が倒れちゃったんだって。今は皆、そんな話で持ちきりだから。教えてあげようと思ったのよ。」
「そうなの。……それで、どうなったの?」
ここまで聞いたなら、事の顛末も聞いておかねばと、私は出されていたクッキーを齧りながら、アリアナに聞いた。
「あー、それで、後が決まらないから、って。…結構揉めてるみたい。陛下も頭を悩ませてらっしゃるわ。」
アリアナは、その時の陛下の様子を思い出したのか、深い溜息を吐いた。
アリアナは、王家の人間とも面識があるような家の娘だった。そのため、後釜の娘が決まっていない、という話はおそらく真実だろう。
その時、ふと思った。
もし、この嫁ぐ娘として立候補すれば、こちらの希望を聞いてもらえるかもしれない。
「ねぇ、それ、私にチャンスあるかしら。」
私がなんの気もないように、紅茶をすすりながら言うと、アリアナはしばらく意味が分からない、と言ったようにポカンとしていた。
「………はぁ? ア、アリス、あなた…何、言ってるのか、分かってるの?」
「分かってるけど?」
アリアナは、私が冗談で言っているのではない、というのを悟ると、何とか思い留まらせようと、説得をはじめた。
しかし、私の決意は変わらなかった。
トレティア家は、アリアナの家ほどではないにせよ、それなりの名家だった。家柄としては、おそらく問題はない。また、秋に決まった話なのに、冬の今で決まっていないところを見ると、立候補しようという人間など、他にいるとは思えなかった。ならば、自分から言い出せば、こちらのペースに持っていけるかもしれない。
「アリス、何が目的なの…?」
「………お金。」
私は溜息を吐くように、アリアナに答えた。アリアナは、はっとしたような顔をした。私の考えていることが、ようやく分かったのだろう。
そう、私はお金が欲しかった。トレティア家が抱えている莫大な借金を返すだけの、お金が。リリィには、社交界で苦労して欲しくなかった。兄のヴァルティス様は、元からそれなりに衣装があったけれど、まだ社交界デビューもしていないリリィは、パーティに出られるようなドレスは、それほど無い。これからお金は、あればあるほど良い。もちろん、ムリな金額を提示する気はなかったけれど、借金だけでも何とかできるなら、これほど良いことはなかった。
「……なるほどね。理由は分かったわ。……………取り次いであげる。」
「……本当?」
突然、取り次ぐ、と言ったアリアナを、驚いて私は見た。なぜ突然そんなことを言い出したのだろう。私としてはありがたかったけれど。
「本当。それで、断られたら、きっぱりやめるでしょ?」
アリアナは顔をしかめてそう言った。
なるほど。私は肩をすくめて、平然と紅茶をすすった。
「断られる前提?」
「当たり前よ! でないと、取り次ぎなんてするもんですか。」
その後は、そんな会話を忘れたように話し込んで、アリアナと別れた。
そして、アリアナが約束通り、王家の人間、第一王子のエディルシード殿下に会う段取りを取ったという報告が来たのは、その数日後のこと。
そして、実際に殿下と会い、取引を成立させたのは、そのさらに数日後のことだった。
シュンレイ様は、私の話をじっと黙ったまま聞いていた。私は俯いていたので、彼の顔は見えなかった。いや、顔を上げていたとしても、彼がいつもの帽子をかぶっていなくても、私は視界が涙で霞み、彼の表情を確認することは出来なかっただろう。
彼は、私が口を閉じても何も言わなかった。彼は、私の言葉を待っている気がした。
さあ、言わないと……。
「……私、を、……離縁、して…くださいませ。私は貴方に相応しくありません。」
好きでこの国に、彼に嫁いだわけではなかった。それなのに、こんなにも、こんなにも「離縁」の二文字を言うのが、辛いだなんて。
目には溢れかえりそうな涙が溜まっていたけれど、それがこぼれないように、私はぎゅっと拳を握りしめた。こんな浅ましい考えを持った人間は、彼には相応しくない。真っ直ぐなこの人には、もっと由緒正しい、可愛らしい姫が似合う。だから、ここで身を引くのが一番良い。まだ子供もいないから、面倒な事にはならないはずだ。
沈黙が降りた。微かな身じろぎか、息遣いが、とても大きく聞こえた。鼓動の音まで、彼に伝わるような気さえする。
どの位の時間が経っただろうか。私には、まるで永遠にも思える時間が過ぎた時、彼がポツリと呟くように言った。
「それが、アリスの願い…?」
願い、私の願いは…。
私は唇を、血が滲むほど噛み締めて、なんとか言葉を返した。
「…はい、陛下。今まで、大変お世話になりました。」
毅然と言おうと、死ぬような思いをした。でも、顔を上げることだけは、出来なかった。
彼が息を飲むような気配を感じた。しかし彼は、さっと立ち上がった。
「分かった、帰りの船は用意しておこう。…今まで面倒をかけたな、我が妃よ。そなたのこれからが、幸多き人生となることを祈っておく。」
「―――!」
そう言って、彼は静かに去って行った。私が顔を上げたとに見えたのは、彼の後ろ姿だけだった。
私が彼を「陛下」と呼んだから、彼も「王」として私に別れを告げてくれた。
なぜ、最後まで、こんなに優しいのだろう。
目から、溜まっていた涙がこぼれ落ちた。それは、後から後から、追うように流れていった。
私は優しい貴方に、何もあげられなかった。
「シュンレイ、さ…ま、…シュンレイさまぁ……!!」
私は声が枯れるまで泣き続けた。
シュンレイ様と別れたあの日以来、目の腫れぼったさがひいたことはない。昼間は何も考えないようにできても、夜に一人になると、彼が恋しくて、涙が自然と零れた。
もう、こちらに戻って一月が経とうとしていた。まだ夏の終わりだったというのに、あっという間に秋めいてきて、空気に冷たさが混じりはじめていた。
私は城に部屋をもらい、トレティア家には帰っていなかった。そしてこの一月、ずっと部屋に籠ってすごし、たまにリリィとお喋りをして、日々を送っていた。誰かが訪ねて来る事も無く、そもそも私が帰ってきたことが知られているのかさえ、分からなかった。
何もする気が起こらなくて、ただただ命を繋ぐためだけに、食べて、眠ってを繰り返している毎日だった。
そのとき、扉がノックされる音が聞こえた。
私は、突っ伏していた机から、何とか起き上がって、返事をすると、扉の向こうのメイドから、思わぬ名前が告げられた。
「ヴァルティス様がおいでです。ご案内しても、かまいませんか。」
私もさすがに驚いて、扉を自ら開けに行った。扉を開けると、メイドがいて、その後ろには、メイドの宣言通り、ヴァルティス様がいた。
「久しぶりだな。」
私は平然としている彼の顔を見上げた。
何をしに来たのだろう。
しかし、私は追い返す気にもなれずに、黙って彼を招き入れた。そして、そこにいたメイドにお茶の用意を頼んで、扉を閉めた。
ヴァルティス様を座らせて暫くすると、メイドがお茶を運んできたので、それを受け取ってメイドを外へ出すと、私は二人分のお茶を淹れた。そうしている間、お互いに口を開かずに黙っていた。
私から彼に何かを言う気は無かった。こちらはとくに会う理由も無いのだし、私はお茶をちびちび啜りながら、ただ相手が喋り出すのを待っていた。
「随分とやつれているな…。」
「……そうですね。」
私は溜息交じりに答えながらも、私は少し意外に思った。もっと厳しい叱責から始まるかと思っていた。こちらの一方的な理由で、嫁ぎ先から戻ってきたのだから、トレティア家に泥を塗ったと言われても、仕方がないと思っていた。
気のない私の返事に気分を害したのか、ヴァルティス様は小さく溜息を吐いた。しかし昔と違って、それを気にするほどの心の余裕は、今の私には無かった。
「今日はどんな御用ですか。」
ずっと黙っているなら、直ぐに帰ってもらって、今すぐ一人にしてほしかった。そんな気持ちが刺となって、言葉の端に現れていたかもしれない。
「……理由なく、妹の顔を見に来ては悪いか?」
ヴァルティス様は、今何と言っただろう、妹、妹といっただろうか。
私は耐えかねた様に、吹き出して気が狂ったように笑い出した。
「………妹? 一体、誰のことを言ってらっしゃるの? ……私はリリィのことは愛していますけれど。私は、トレティア家の人間になった気は、ありませんわ。今も、昔も…。あの二人の娘にもなってません。勿論、貴方の妹にも……。貴方だって、本当はそう思っていらっしゃるでしょう。」
「アリス……。」
彼はショックを受けるでもなく、ただ、私を憐れむような視線を送った。
もう、どうでも良かった。私にはもう誰もいない。
私はお腹に手を当てて、目を閉じた。そして、立ち上がって、部屋の扉を開けに行った。そして扉の脇に、守るようにお腹に手を当てながら立った。
「もう、帰ってください。……リリィの結婚式が終われば、私はここを出るつもりです。もう、会う事もありませんでしょう。」
ヴァルティス様は悲しげな顔をすると、静かに立ち上がって、立ち去ろうとした。しかし、私の目の前で立ち止まると、彼が着けていた幅の広いマフラーを、私の肩に掛けた。
「これから寒くなる。身体に気を付けるんだ。…また会おう。」
それだけ言うと、ヴァルティス様は、私の部屋を後にした。彼が私に掛けていったマフラーを握る手に、ぱたりと涙が落ちた。
どうして急に、優しい言葉をかけてくれたのだろう。同情しているのだろうか。分からない。
私は流れてくる涙を拭う事もせずに、ただ立ちつくしていた。私は周りの人々の優しさに、本当に何も返せていない。一人になってようやく、ヴァルティス様になんてひどいことを言ったのだろう、と思った。初めて、私のことを「妹」と言ってくれたのに。
本当は、妹と言ってもらえて、とても、とても嬉しかったのに。
その数日後のこと、今度はアリアナが私を訪ねてきた。
私の憔悴しきった様子に、驚きを隠せない様子だったけれど、アリアナは目を伏せるだけで、何も聞いてはこなかった。
そして、嫁ぐ前、何も無かったころのように、楽しく喋った。最近の出来事、彼女の家族のことや、王家やリリィのこと。そして、アリアナがふっと思い出したように言った。
「そういえば…。トレティア卿…ヴァルティス様が、東国へ行かれたわよ。」
こちらの反応を窺うように、ゆっくりと告げられたその内容。私は驚きで、目を見開いた。
どうして、ヴァルティス様が……。
「―――な、何で…?」
ヴァルティス様がこの国を発ったのは、つい数日前のことだったらしい。そう、私が彼をこの部屋から追い出した日だった。
私は、部屋の隅に置かれた、彼のマフラーをチラリと見た。
何をしに行ったのだろう。きっと、私は無関係ではない。
アリアナは溜息を吐いて、首を振った。
「さぁ。そこまでは分からないわ。」
きっとヴァルティス様は、シュンレイ様に会いに行った。それしか、考えられない。シュンレイ様は、ヴァルティス様に、どんな反応をするのだろう。酷い対応はしないと思う。でも、それはヴァルティス様が、何をしに行ったのか、それによってはまた違うだろう。
俯いてじっと考え込む私の頭を、アリアナは軽く小突いた。顔を上げた私と、心配げな表情のアリアナの視線がぶつかった。
「何があったの。……話せるところだけで良いから。話せる?」
私は俯いて、自分のお腹を見た。そこに両手を当てて、目を閉じた。涙が込み上げてくるのを感じた。
辛くてたまらなかった。
私は小さく頷いて、もう一度、顔を上げた。
「全部、私が悪かったの。……私、自分がお金の為に、彼に、嫁いだのが…許せなくなったの。」
私は両手をお腹に添えたまま、目尻に溜まった涙を拭う事もせず、話した。
悲しそうな顔をしているアリアナは、私を刺激しないようにか、落ち着いた声をしていた。
「政略結婚なら多かれ少なかれ、利害関係はあるわ、アリス。」
「―――っ、分かってる…!」
私はぎゅっと目を瞑った。目に溜まっていた涙が、零れ落ちた。
分かっていた。きっと、シュンレイ様は、私が素直に言って謝れば、許してくれる。いや、そもそも気に留めていなかったのかもしれない。
これが許せないのは、私。私が、一番許せなかった。
「……好きなの? 彼のこと。」
アリアナは静かに私に問いかけた。
好き? シュンレイ様を……?
私はぼとぼとと涙を零して、首を振った。
「「好き」なんて、言葉じゃ、言い表せない位……、あの方は、私の中で大きな存在よ! 私、私は……、あの人がいなければ、生きている意味が無いとさえ、思うほど……!!」
私はぎゅっと目を瞑った。どんなに時が経っても、シュンレイ様の腕が、唇が、匂いが、声が、消えてくれなかった。
会いたい。抱きしめてほしい。あの人の声で、アリス、と名前呼んでほしい。どれほど、どれほど、今すぐに彼の元に帰り許しを請うて、隣にいたいと懇願したいか。
でも、それをするのはどうしても、私が、私を許せなかった。
「私、リリィが幸せになるのを見たら、もう…消えてしまおうかと、思ってた。………でも、この子が、いるから、私はまだ、生きようと、思えるの。あの方との、愛しいあの人との最後の繋がりだから……。」
アリアナが、はっと息をのんだ。
「あなた、子供が……?」
私は小さく頷いて、自分のお腹を、新しい命の宿るこのお腹をそっと撫でた。気が付いたのは、ここに来て少し経った頃。それ以来、この子は私の生きる希望となった。
私はまだ涙の止まらぬ目を細めて、アリアナに微笑んだ。私はまだ、恵まれている。そう、自分に言い聞かせながら。
アリアナが訪ねてきた日から何日も経った日のこと、私は空が高くなってきた外の景色を見て溜息を吐いた。
ここ暫く、急に冷え込んできた。本格的な冬になる前に、城を離れることが出来ればいいのだけれど。
アリアナが来た日より前から、冬は城を離れて、一人で過ごそうと思っていた。もちろん、リリィの結婚式は春なので、姿を消すのはその後のつもりだったけれど、居続ければ、いずれお腹の子のことをが表沙汰になってしまう。そうすれば、シュンレイ様とまた、会わなければならない。下手をすれば、この子が私の手から離れるかもしれない。そう思うと怖くて、とくに王族の近しい関係者に言うのは、気が引けた。
冬に城を離れ、西の離宮で住まわしてほしいという意向を、リリィに伝えてもらったのは、つい数日前のこと。今日はその意向を受けて、詳しい話を、と話し合いの場を設けることになっていた。
もう行かないと…。
そろそろ約束の時間が迫ってる。私はゆっくりと立ち上がって、部屋を出た。
リリィによると、西の離宮に住む、というのは何の問題も無いけれど、いつ行くのか、といった細かい事柄を決めたいらしい。
私は、指示された通りに、エディルシード殿下の部屋へと訪れた。
「失礼します。」
殿下の返事を待って、私は彼の部屋の扉を開けた。
その先にいたのは、エディルシード殿下、リリィ、そして、もう一人。黒目黒髪の、殿下より少し年上に見える男性が経っていた。彼も私を見て、驚いたような顔をしていた。
「殿下。その方、は……」
誰、と言おうとした言葉が、途切れた。
違う。
私は、知ってる。
微かな仕草、息遣い、そしてその黒髪。全て、私は知ってる。
私は足を止めた。息も、心臓も止まった気がした。
「―――アリス。」
「―――っ!」
私は気がつくと、部屋を飛び出していた。
なんで、なんで、ここにいるの…シュンレイ様……。
あんなに会いたかったのに。あんなに名前を呼んでほしかったのに。
彼を前にすると、怖くなった。会いたい、会いたくない。もう、自分が何を考えているのかさえ、分からないまま、夢中で廊下を駆け抜けた。
彼が私の名を呼ぶ声がした気がしたけれど、私は振り返らなかった。振り返れなかった。
そして、部屋まで辿り着くと、私はそこに逃げ込んで、扉を閉めると鍵を掛けた。
はぁと息を吐いて、私は扉の前でへたり込んだ。そして、胸を抑えるようにして、固まっていると、扉の外から、そっと声をかけられた。
「アリス……。」
私はビクッと身体を震わせて、扉を見上げたけれど、何も出来なかった。
どうして、ここにいるのだろう。ヴァルティス様が東国に行ったのと、何か関係があるのだろうか。
私は、自分を守るように、自分を抱きしめていた。扉を開けて、なりふり構わず彼に抱きつきたかった。
でも、私は扉を凝視するだけで、立ち上がることすら出来なかった。
「アリス。突然来て、驚かせたよね。ごめんね。」
私は、彼に見えないのを承知で、無言のまま首を振った。そんなことを言って欲しいんじゃない。謝らなければいけないのは、私の方なのに、どうして貴方が謝るの。私はまた悲しくなって、涙を零した。
私は返事をしなかったけれど、彼は、私が聞いているのを確信しているように、話し続けた。
「ここに来るまで、来るって決めてからも、君が望んでないんしゃないかって、ずっと不安だった。」
そんなわけない。
私は、扉の前に取り付いて、扉に額を当てた。今すぐにも、違うと、私はずっと会いたかった、と言いたかったけれど、まだ顔をあわせる勇気がなかった。
「…それに、僕は君の前で、まだ顔を見せてなかったから、誰なのか分からないかもしれない、とも思ってた。………でも、君は、一目見た時から、僕を見つけてくれた。僕だって、分かってくれたよね。ありがとう。」
ありがとう、なんて言わないで。
自分勝手な理由で、彼の元から逃げたのは私だ。ありがとうを言うのは、私の方なのに。
私は、扉にくっ付いたまま、黙って彼の言葉を聞いていた。涙は止まりそうもない。
何かを迷うように、彼の声が途切れた。私は不安になって、じっと息を殺して、彼の言葉を待った。
そして暫くして聞こえたのは、自信なさげな、細い声だった。
「今日、来たのは…。君を連れ戻したいわけでも、何でもなくて……。ただ、ただ…アリス、君に一目会いたかった……。」
私は、彼のその消え入りそうな声を聞いて、ばっと顔を上げた。
もう、扉を挟んでいる理由も、会う勇気が無いという考えさえも、その言葉で吹き飛んでしまった。私は、鍵をあけ、扉を開け放った。
「シュンレイ、様……。」
私は、そのまま、優しく微笑む彼に抱きついた。シュンレイ様も、私を強く抱きしめ返してくれる。
ああ、この腕がどれほど恋しかったか。
私達はひとしきり抱き合った後、私の部屋へと入って扉を閉めた。
それでもまだ泣き続けている私の目元に、シュンレイ様は優しく触れて、涙を拭った。そんな些細な行為さえも、私は嬉しくて、その手を握って頬を寄せた。
「アリス、会いたかった…。」
私も彼の言葉に、コクリと頷いて、彼の胸に身体を預けた。
「私も…会いたかったです。シュンレイ様……。」
彼と離れて暮らしていけるなんて、どうして思うことが出来たのだろう。こうやってシュンレイ様を見ることが、感じることが出来るだけで、こんなにも幸せになれるのに。
もう、シュンレイ様無しでは、私は息をすることさえも、忘れてしまうんじゃないか、そう思うほどだった。ただ、一緒にいたい。
「ごめんなさい、シュンレイ様……。私、自分に都合の良いことばかり言って、ずっと、逃げてました。私はあの時、離縁が望みだ、と言いました。……でも、そんなの嘘。貴方無しでは幸せになれない。これからの人生、貴方の傍で、生きていきたいのです。」
シュンレイ様の手が、私の肩に回った。でも、何とも言ってくれないので、私はおそるおそる、彼の顔を見上げた。
彼は、少し頬を赤くして、どこか困った様な顔をしていた。私の胸に不安がよぎった。シュンレイ様にとって、この気持ちは迷惑なのかもしれないと。
しかし、私の視線に気が付いたシュンレイ様は、私の表情から不安を読み取ったのか、大慌てで口を開いた。
「えっと、嬉しい、とても。…ただ、僕からちゃんと…、政略結婚じゃなくて、アリスに結婚してほしい、一緒にいてほしいって、言おうと思ってたから。…その、アリスから言わせるなんて。僕、格好悪いなぁ…って。」
まさか、そんなこと言われるとは思っていなかった私は、照れたように笑うシュンレイ様を、しばらくぽかんと見上げていた。
でも次第に、互いの気持ちが同じだったことが、とても嬉しい気持ちになって、自然と笑顔が浮かんだ。もう、涙は乾いていた。
「嬉しい……。そうだ、嬉しいついでに、もう一つ大事なことがあるんです。」
不思議そうに、私を見たシュンレイ様に、私はにっこり微笑むと、私は彼の腕をすり抜けて、一歩下がった。そして、シュンレイ様の手を取って、そっと、私のお腹の上に添えた。
あの事を告げたときのシュンレイ様の顔は、それ以上ないほど、嬉しそうだった。
そして春。リリィとエディルシード殿下の婚礼を祝った後、暫くして、私達は東国へ、私たちのいるべき場所へと帰った。
しかし、喜んでばかりもいられない。私としては、頭の痛い問題が、もう一つ残っていたことに、今更気付かされた。
私は、城までの道すがら、シュンレイ様に聞き返した。
「……え? まだ、いらしたんですか?」
「うーん、どうやら、そうみたいなんだよね。」
いた、とは勿論、ヴァルティス様のことだ。秋の終わりごろに、東国へ向かったとアリアナに聞いてから、もう幾月も経っている。だというのに、まだ東国に居続けているとは、ついぞ思った事も無かった。
いや、思い返せば、リリィの結婚式の時に、見ないなとは思っていたのだけれど、城内も広いので、すれ違っているだけだと、思い込んでいた。
「でも、腹を割って話すには、いい機会なんじゃない、アリス? もしかしたら、ルティ義兄上も、そのつもりかもしれないし。」
その通りなのかもしれない。そうは思いつつ、あともう一つ気になることがあった。シュンレイ様の「ルティ義兄上」という呼び方だった。
いつの間にこんなに仲良くなったわけなの……?
仲が悪いよりは良いこととは、思っていたので、特に聞いていなかったのだけれど、気にならないと言えば、嘘になった。
しかし、それより前に、私と彼の問題を片付けた方が良いのかもしれない。
「…そうですね。一度、話してみます。」
シュンレイ様は、私の言葉に嬉しそうに頷いたけれど、あまり興奮するな、と釘をさすのは忘れなかった。
「お腹の子に障るからね。」
そんなに心配しなくても、と思うときはあったけれど、私は素直に頷いた。確かに、今は一人の身体ではないのだから。
城に到着すると、嬉しそうな表情をしたメイリンが迎えてくれた。私達が仲直りして、戻ってきてくれて良かったと言われ、彼女をはじめ、多くの人々に迷惑をかけた事を、今更ながらに反省した。
メイリンに彼の居場所を聞くと、メイリンはふふと笑って、中庭に案内してくれた。メイリンが開けてくれた扉に入ると、その先で彼は、中庭を前に、イスに座っていた。
扉が閉まると、静かになって、私の足音だけが、異様に大きく聞こえた。彼は、もちろん私の存在に気が付いているはずなのに、後ろを振り返るでもなく、ただじっと座っていた。
私は持ってきたあるものを後ろ手に持って、彼の真後ろまで来て、そっと声をかけた。
「ただいま、帰りました。」
「ああ…、おかえり。シュンレイ殿とは…?」
「仲直り、出来ました。ごめんなさいも。」
私は後ろ手に持っていたそれを、さっと開いた。
それを持っていた手が震えているのが、自分でも分かった。
また、拒絶されたら、どうしよう。でも、彼はこんなにも自分に歩み寄ってくれた。西国で私に会いに来てくれた。東国まで行って、何をしたのかは分からないけれど、シュンレイ様によると、彼の背中を押してくれたらしい。
それはきっと、私の為だ。
今度は、きっと私が歩み寄る番。
私は、持っていたものを、いつかに彼が掛けてくれたマフラーを、そっと彼の肩に掛けて、そのまま、後ろから首に抱きついた。
「ありがとう、貴方の、おかげです。……兄様。」
さすがに驚いたのか、びくっと身体を震わせたけれど、兄様は、私を嫌がるでもなく、彼にまわした手を優しく握った。
「それは、こっちのセリフだ……。」
そして、泣きはじめた私の隣に、いつまでもいてくれた。
「二人が仲良くなれたみたいで良かったよ。」
「そうですね…。私もそう思います。」
ルティ兄様と、話した日から数日、あの日以来私たちの関係は、大分改善して、ぽつぽつと優しい話が出来るようになっていた。わだかまりが、完全になくなったとはまだ言えないけれど、それもきっと、過去のものとなっていくはずだ。
兄様は、まだ暫くこちらに滞在するそうなので、その間に、少しでも間が縮められればと、思っていた。
「私としては、シュンレイ様。貴方のお顔が、きちんと見られるようになったのも、嬉しい一歩ですよ?」
私は、少し大きくなったお腹を撫でながら、果物のジュースを飲んで、シュンレイ様の顔を見た。
すると、いきなりそうくるとは思わなかったのか、彼はまごまごと、どうにか言い訳を探しはじめた。
「え、ええっと。あれは、その…。いつ外せば良いのか分からなかったのと、それから……。」
「それから……?」
てっきり、タイミングを逸していただけだと思っていた私は、言葉が続いたことに驚いて、聞きなおした。
「それから……。アリスの心遣いが、嬉しかったんだ。だから、外すのが勿体なくて。」
予想外の答えに、私は嬉しくなって笑った。そんな理由だったなんて、思いもしなかった。
私は立ち上がって、彼の首に抱きついた。
「なら、今度はまた別のものを。ずっと着けていられそうなものを、作りますね。」
シュンレイ様は、抱きついてきた私を抱きとめて、膝に座らせた。そして、私の頬に、軽くキスをした。
「うん。……あ、なら、お揃いが良いな。」
「良いですね。…そうだわ、なら、私とシュンレイ様、そして、この子の三人で。」
私の言葉を気に入ったようで、シュンレイ様も嬉しそうに笑った。そして、私の頭に手を添えて、下げさせると、そのまま唇を重ねた。
「愛してる、アリス。」
ぽそりと呟かれたその囁きに、私は胸がいっぱいになって、シュンレイ様に微笑んだ。
「私も、愛しています。シュンレイ様―――」