二章
チュンチュンと小鳥達が鳴き、朝の光が部屋のカーテンを通り抜ける。
冬夜はぼんやりと目を開けると、眠気を覚ますように、目を擦ってカーテンを開けた。まだいつもより早い時間のため、目覚まし時計は鳴っていないが、空は綺麗な青色をしている。
いつもと変わらない朝。
しばらくぼんやりとしていた冬夜は、視界に映った自分の手を見て、はっと息を飲んだ。
「俺の手……! やっぱり夢だったんだ!」
そこには、あの黒くて小さな手ではなく、いつもの、人間の手があった。
冬夜は、ほっと息を吐いて、自分の身体を確かめるように、ペタペタと自分の顔やら身体やらを触った。いつも通りで、何も変わらない。
冬夜は深く息を吐くと、パッと立ち上がって伸びをした。
やたら長く、リアル過ぎる夢からようやく帰ってきた。
夢として思い出せば、まあまあスリルもあって、可愛い女子の胸に抱えられるという経験もして、なかなか面白い夢だった。
「さて、学校行かねぇとな。」
冬夜はすこぶる上機嫌なまま、用意をはじめた。
さても、不思議な事が続くものだ。
冬夜は胡散臭げな顔で、朝礼の席で黒板の前に立つ見慣れぬ男を見やった。
担任である教師に紹介をされ、黒板にでかでかと名前を書かれている彼は、六月というこの微妙な時期にやってきた、転校生だった。
が、冬夜は別に外国から来たからどうこう、という理由で怪しみの目を向けていたわけではない。
あいつ、本当に十七なのか……?
穏やかな顔で自己紹介をしている葦流は、十七歳という歳の割には、あまりに大人の顔に見えた。いや、それだけなら単なる老け顔、ということも考えられる。しかし、もう一つ気になるのが、彼の髪や目だった。
名前を聞く限りでは、日本人と思われる彼の髪は、焦げ茶というには明るすぎる茶色で、目は藍色と紫の間のような色で、暗い色ではあったが、黒とは明らかに違う色をしている。が、それにしても、親達に外国人の血が流れているのかもしれない。
冬夜はちらと周りの同級生達の様子を伺った。
皆、転校生に興味津々といった様子は見て取れたが、誰も、冬夜のように訝しげな表情をしている者はいない。
冬夜は葦流に視線を戻す。
いや、あの長い髪になんで、誰も何も言わねんだよ?!
そう、葦流の髪は、日本人では、女性でもあまりいないのでは、と思うほど髪が長かった。彼の茶色の髪は腰まで届いている。
「じゃ、葦流。お前の席は、真森の隣だ。」
冬夜は自分の名前に、ビクッとして顔を上げた。どうやら、葦流の自己紹介は終わってしまっていたらしい。冬夜はちらっと隣を見ると、確かに新しい席があった。そういえば、昨日までは、机も何も無い空間だった。
葦流は好奇心で一杯のクラスメイト達の視線を笑顔でかわすと、冬夜の前まで来た。
「君が真森くん?」
優しげな笑顔と整った顔に、早くもクラスの女子達は熱を上げているらしく、そこかしこからきゃっきゃっという囁き声が聞こえる。
「ああ。…俺は真森冬夜。冬夜でいいよ。」
「よろしく、冬夜。アシル、って呼んで。」
微笑むアシルが差し出す手を、冬夜は握った。優しく微笑むその顔は、夢の中で出会ったサリスを思い出されたが、アシルからは、何とも言えぬ違和感を、冬夜は感じていた。
しかし、それを表には出さず、冬夜も笑顔を返した。
「よろしく、アシル。」
その日の昼の事。授業の合間合間に喋って、すっかりアシルと仲良くなった冬夜は、中庭の人気の無い場所で、彼と二人昼食をとっていた。
転校生が珍しいらしく、人に囲まれ質問攻めにあっていたアシルも、最初は気にした様子もなかったのだが、四六時中となると、さすがに疲れを見せ始めていた為、冬夜が昼休みが始まるが早いか、そっと教室を抜けさせたのだった。
「転校生も楽じゃないな。」
冬夜は弁当を口に運びながらそう言った。ただでさえ、見知らぬ人の中に放り込まれるというのに、怒涛のような質問の嵐で、気が休まる暇もなかったのではないだろうか。唯一、質問から解放される授業中も、教科書もまだ届いていないらしく、必要な時は冬夜がアシルに見せてやっていた上、授業自体も、学校によっては、微妙に進度が違うと聞くので、きちんと付いてこれているのかも分からなかった。
「そうだね。どこに何があるのかも分からないし。今君が、先に教室に帰ったら……、僕、教室すら帰れないよ。」
アシルはえへ、と照れたように笑った。そして、そうだ、と言って手を叩くと、満面の笑みを冬夜に向けた。
「学校、案内してよ。まだ、行ったことない所も多くてさ。」
「良いけど……。」
ぐいぐい寄ってくるアシルに、少し引き気味になりながら、冬夜は苦笑いを返した。
学校の案内に異論は無かったが、異様な懐かれっぷりに、少し気圧された感のある冬夜だった。
放課後。部活が終わり、もう暗くなり始めた帰り道。着替えもそこそこに済ませ、冬夜は重い鞄を担いで校門を出た。
「冬夜!」
いつも一人で早々に帰ってしまう冬夜に、こんな時間に話しかける人間は珍しい。一体誰かと視線を巡らせると、校門の壁に寄りかかっていた人物が、身を起こした。
「あ、アシル?」
やあ、というように、手を振るアシルは、そそっと冬夜の元に近付いて、にこにことしている。
「一緒に帰らない?」
「良いけど……?」
何故まだ学校にいるのか、という視線を冬夜が投げかけると、アシルはけろっと笑って、たまたま、と言った。なんでも、部活見学をしてまわり、気が付くと、もう部活動も終わりの時間となっていたので、冬夜を待っていた、とのことらしい。
「あ゛〜〜。帰ったー!」
冬夜は持ち帰った鞄を床に放り投げて、リビングのソファに倒れこんだ。冬夜の入る部活動は、それほど厳しいクラブでこそなかったが、一時間、二時間、と動き続けていると、やはり疲れは溜まる。
しかし、そうもしていられない。冬夜は重い身体をなんとか起こして、ソファから出ると、鞄を開けて、部活で汗だくになったシャツを出して、洗濯カゴに放り込んだ。そして、そこらにあったシャツとズボンに履き替えて、制服をハンガーに吊るし、さっさとキッチンまで戻ってきた。
冷蔵庫を開けて中を物色し、今日の夕飯のおかずを考える。
「……肉でも焼くか。」
両親共働きで、一人っ子の冬夜は小さな頃から鍵っ子で、基本的な家事全般は彼が受け持っていた。ご飯と味噌汁は、朝に作ったものがあるので、あとはおかずを作るだけだ。
慣れた手つきで薄切り肉を焼き、塩胡椒を振る。その間に、冷めてしまっている味噌汁を温めて、程よい頃に、それらとご飯を器によそった。
そして、テレビを点けて、それを横目に夕飯をかき込んだ。
休みの日はともかくとして、平日はいつも一人きりの夕食となることが殆どだった。もう慣れてしまってはいたが、やはり一抹の寂しさは隠しきれない。
冬夜はふと箸を止めて、小さく息を吐いた。
昨夜の夢が思い出された。
あの人影が消えた後、セーシェの手当てを済ませると、もう何事もなかったかのように、皆、日常へと帰っていった。サリスは暫く神殿に留まっていたらしいが、ミエルと冬夜は早々にそこを後にすると、後は二人で喋りながら城内を歩いてまわった。
それも楽しかったのだが、今、冬夜が思い出していたのは、その後の夕食の事で、その席にはミエル、サリス、その父親たる王と、セーシェもおり、冬夜もその席に呼ばれ、他の人々と何ら変わらぬ食事を与えられた。あんな大人数での食事は、あまり経験した事もなく、はじめはおっかなびっくり、といった心持ちだった冬夜だった。
しかし彼らは、冬夜が居心地の悪い思いをせぬように、事あるごとに会話に引き入れてくれ、冬夜は自身でも驚くほど、楽しい食事をした。
冬夜はふとあたりを見渡す。
そこには人の声と言えばテレビの中、彼の話を聞いてくれる者は一人としていなかった。
独りきりの食事に、これほどの寂寥感を感じたのは、はじめてのことだった。
冬夜はその虚しさをかき消すように、目をぎゅっと瞑って首を振った。
「早く、風呂入って寝よ。」
両親は遅くまで働いて頑張っている。両親は、自分の為に頑張っている、愛されている、と知っている冬夜は、「さみしい」など、例え誰も聞いていなくとも、口にすらすることはできなかった。
風呂に入って、自分のベッドの上で目を閉じると、あっという間に冬夜は眠りに落ちた。
しかし程なくすると、明るい陽光と小鳥の囀りが聞こえてきた。
もう朝……?
早すぎないか? と冬夜が思いつつ身を起こすと、聞き覚えのある声が聞こえた。
「あら、冬夜。おはよう、よく眠れた?」
暫くは目が開かず、うとうととしていた冬夜だったが、先程の声の主は、と考えた時点で、ガバッと顔を上げた。
「へ……?」
そこには、見覚えのある金の髪、そして鮮やかな赤紫の瞳。
「おはよう、冬夜。」
ミエルはそう屈託無く笑うと、冬夜の頭を撫でた。
手は、真っ黒の毛で覆われている。