終章彼らだけの誓い
幽閉塔の最上階へと続く螺旋階段を、フォリアはゆっくりと登る。
靴音が一際高く反響し、階段を登りきると、その先に重い鉄の扉と、それ越しに見知った顔が見えた。
「久しぶり、……シャロン」
声は震えていないだろうか。
彼女の嘲るような笑みにフォリアは両の手を握りしめる。
「何のようかしら」
「……やっと、色々なことが落ち着いたから」
聞いたこともない冷たい声音にフォリアは怯みそうになった。
「ご苦労なことね、フォリア。――ああ。もう罪人のわたしが『フォリア』などと呼んでは失礼かしら、女王陛下」
フォリアは唇を噛む。その「女王陛下」という呼称に、含みがあるのは嫌でも分かった。
「――そうね、貴女は罪人だわ、シャロン」
彼女の真の罪が公に明かされることは、おそらくないだろう。ラシエルと密通したことも、彼を殺したことも。
本来ならば彼女の罪、その全てを
だが、それは出来なかった。ルディスの生母を
「でも、貴女は反省も、後悔もしていないのよね」
「よくわかっているじゃないの」
シャロンは、はと鼻で嗤い、続けた。
「後悔などするわけがないわ。わたしはわたしの――信念のもとに行動したのだもの」
「ルディスを傷付けても?」
「それは本意でなかったわ」
「……そうね」
フォリアはあの日のことを思い出す。ルディスがあの場に居合わせてしまったのは、本当に不幸な偶然だった。シャロンも、あの事実に気付いていたスレイも、きっとルディスにその事実を告げるつもりはなかっただろう。
「じゃあ、ラシエル様の事は……?」
「――……」
シャロンの言葉がはじめて途切れた。だがそれはほんの数拍で、言葉は続く。
「利用、しただけよ。本当に馬鹿な人だわ。婚約者がいるのに騙されたりして」
フォリアは俯いて黙った。
その通りだ。彼女の言う通り、彼は「馬鹿な人」だと思う。
たとえ、その心の内はどうであれ、フォリアとラシエルは夫婦だった。
決して越えてはならない一線を彼は越えたし、フォリアの信頼を裏切ったのは紛れもない事実だ。
しかし、それはもういい。
フォリアが彼を「馬鹿だ」と言いたい理由は、そこではなかった。
「彼は……、ラシエル様は、全て知っていたわ」
その時、はじめてシャロンの表情が動いた。
嘲るような表情が消え失せる。
「何を……」
「知っていたのよ。貴女が、自分を……、殺そうとしていること」
「――ッ、そんなはずないわ……! だって、それなら……」
「『彼が死ぬはずがない』?」
「……そうよ」
たしかにそうだ。自分が殺されようとしているなかで、それを漫然と受け入れ続けるなど、本来ならあり得ない。
でも彼は、そうした――。
フォリアも信じたくはなかった。
だが、シャロンがラシエルに毒を盛り続けていたと知り、気付いてしまった。
いつからか、彼に後継者に相応しい知識を与えられていたこと。
フォリアの即位が決まるまでのやり取りはあまりにも速やかで――。
そして、何よりも。
ごめん、フォリア――
今際の際に発せられた彼の謝罪の言葉と穏やかな顔は、今思うと、全てを知ってる人間のそれだった。
もっと早く気付いていれば、彼を救えただろうか。
フォリアは小さく首を振った。
本当に、馬鹿な人だ……。
「ラシエル様は、『愛する人』の願いを叶えたのよ」
だから、普通ならば考えられないような愚かなことを、彼はしたのだ。
シャロンが息をのむ。そして、崩れ落ちるように床に座り込んだ。
重い扉に阻まれ、彼女の姿は見えなくなる。
「…………」
フォリアにはもう、かける言葉はなかった。
ラシエルは、これを知られることを望んではいなかっただろう。
だが、この程度の意趣返しは許してほしかった。
フォリアにとってラシエルは、愛する人ではなくとも、「大切な人」だったのだ。
フォリアはくるりと彼女に背を向けた。
下り階段に足を踏み出すと、また靴音が響く。その反響の中にかき消えそうなほど小さく、すすり泣くような声が聞こえた。
「フォリア様」
階段を抜け外に出ると、スレイが待っていた。
「スレイは良かったの? シャロンと会っておかなくて」
「……会わない方が、互いのためでしょう。これ以上ルディスに心労をかけるのは、姉上も望まないでしょうから」
「……そっか」
シャロンがフォリアを毒殺しようとしたのは、ルディスを早く即位させるため――。
彼女は「アルシェンの子」を即位させるべく動いていたが、多くの人間は権力欲しさだったと解している。そんな彼女が、弟とはいえ宰相位にある男と接触していては、良からぬ噂となってしまうのは明白だった。ひいては、彼女の息子であるルディスにも、影響があるかもしれない。
「スレイ……」
「はい」
「この選択は正しかったのかしら……」
フォリアは遠い空を見上げた。黒いベール越しの空は、どこか精彩に欠ける。
シャロンを生かす決断を下したのは、何も情だけの話ではない。
いずれ国王となるルディスに、母親が死罪を
だが、その判断こそ情の成せるものなのではなかっただろうか。
「ずっと考えてるの。シャロンから――シャロン姉様から、命を奪うことの、責任を逃れたかっただけなのではないかしら、って」
考えれば考えるほど分からなくなった。
女王陛下――。
シャロンが皮肉で出したその言葉は、本来なら正しくフォリアを表さなければならないものである。
ラシエルの死の真相を知るべく手に入れた地位。
ただそれだけのものだったこの肩書きが、人の命をこんなにも左右してしまう、とても重いものだと、今更になって気付いたのだ。愚かなことに。
「――陛下」
いつの間にか俯いていた顔を上げると、スレイと目があった。
「貴女の決断は、間違ってはいません。貴女が考え、悩み、出した答えです。だから……、間違ってはいません」
スレイがただ、フォリアの決定を認めているのではないと気付いた。
その時、遠くに小さな人影が現れる。
「あ、陛下!」
大きく手を振り、走り寄ってくるのはルディスだ。
フォリアにそのまま抱きついてきた彼の頭を撫でる。
「『陛下』なんて堅苦しいわ。――家族になるのだから」
ルディスはきょとんとフォリアを見上げ、照れ笑いを浮かべる。
「その、まだ慣れなくて……」
シャロンの幽閉が決まり、ルディスの処遇が問題となった。
その結果、彼は現国王であるフォリアの養子となることとなったのだ。
「まあ……、無理に変える必要はないのだけれど」
フォリアも苦笑を返し、シャロンとよく似た金髪を撫でる。
ぎゅうっとフォリアを抱き締めるルディスは、聞こえないほど小さな声で、そっと尋ねてきた。
「――母上、は……、お元気でしたか」
フォリアは彼の頭を見下ろして、これが本題だったのだと悟る。
安心させるように再び髪を撫でた。
「えぇ。少し話も出来たし……」
「そうですか」
ルディスはほっとした笑顔を見せる。スレイも、話を引き取るように続けた。
「ルディス。お前の母上には、外に出られない以外の無体は強いていない。だから、安心しなさい」
「――はい、叔父上」
ルディスはフォリアからそっと離れて、母がいる幽閉塔を見上げる。
「……しばらく、ここにいてもいいですか?」
フォリアはルディスの頭を撫でた。
「暗くなる前には戻ってくるのよ」
「あ……。はい、フォリアさま」
はにかむような笑顔を見せて、ルディスは背を向けた。
フォリアもスレイを伴って、その場を離れる。早く一人に、いや、「母と二人に」させてあげたかった。
ルディスから大分離れた時、ふとスレイが口を開く。
「――『正しかったこと』に、していけば良いのではないですか」
「え?」
「先程の話です。貴女の選択は正しかったのか、という問いについて」
「あ……」
――この選択は正しかったのかしら……。
――シャロン姉様から、命を奪うことの、責任を逃れたかっただけなのではないかしら。
そんな問いかけをしたことを思い出す。
「正しかったことにしていく……?」
「そうです」
スレイは大きく頷いた。
「貴女の判断は甘かったかもしれない。今後、別の火種を生むかもしれない。それは事実です。ですが……」
スレイはふと振り返る。その先の空には、幽閉塔が見える。
「同時に、ルディスから『母』を奪わずに済んだ、とも言えるでしょう」
「そう思って、いいのかしら……」
物事の良い一面しか見ていないのではないか。そんな考えが、フォリアを迷わせていた。
スレイはフォリアに向き直り、笑う。
「良いのですよ。未来はまだ分かりません。言ったでしょう? 正しかったことにしていけば良い、と」
この先、今回の決断を悔やむ日が来てしまうかもしれない。
だがスレイはこう言っている。
そんな日が来ないように、今ならできると。
「私に、できるかしら」
「できます。そのために私がいる」
「――すごい自信」
フォリアは苦笑をし、次第に堪えきれずに笑いをもらした。
その時、遠くで鐘の
「あ……」
二人同時に空を見上げる。
「――喪が明けましたね」
ラシエルが死んだ日から丁度一年を知らせる鐘だった。
フォリアは顔を半ばほど隠していた黒いベールを取り払った。
視界が明るくなった。
「ねぇ、スレイ。貴方は、どこへも行かないでいてくれるかしら」
丁度一年前、暗い雨の日にした問いを口にする。
彼もそれに気付いたようで、軽く苦笑してその場に跪いた。
「えぇ、この命が尽きるまで。我が愛しき女王陛下――」
広い青空の下、男は女の指先に口付けを落とす。
その和やかな――しかし、決して違えることのない誓いは、ただ二人、互いだけが知っている。
― 終 ―