第二章彼が秘匿する何か
「やっぱり」
フォリアはある部屋の扉を開け放ち、腰に手を当てて仁王立ちしていた。
その部屋の中にはあわあわとしている医官たち、そしてベッドから起き上がり今まさに仕事着に着替えようとしていたスレイの姿があった。
「陛下、おは――」
「おはようございます、じゃない! 貴方が怪我をしてから、どのくらい経ったと思ってるの!」
「……半日は、まだ経っていませんね」
「半日しか経ってないのよ!」
正確には、一晩経っただけである。
昨夜、ストロファード邸でのシャンデリアの落下事故があり、当然ながら会はお開きとなった。
ホール中央にいたのが幸か不幸かフォリアたちのみだったため、他の客への被害はない。しかしスレイは、浅くない傷を負ってしまっている。
その上、彼は怪我だらけにも関わらず、かすり傷ひとつないフォリアを城まで送るといって聞かなかったのだ。結局根負けしたフォリアは、代わりに城での療養を命じた。
スレイの傷は深かったが、応急処置をしたヴィレルによると、跡に残ることはないそうだ。それでも「一晩寝たから治る」といった類のものではもちろんない。
「一応聞くけれど、何をしているのかしら、スレイ」
「勿論、出仕の準備をしております、陛下」
しゃあしゃあと答えるスレイに、顔が引きつる。
「……そうよね。見ればわかるわね。――私は『しっかり療養なさい』と言ったはずなのだけれど。気のせいだったのかしら」
「いえ、仰っていましたね。なので、昨晩はゆっくりと休養を取らせていただきました」
「……そう。――貴方たち」
フォリアはにこやかな笑顔を浮かべ、周囲でじっと様子を窺っていた人々を見渡した。
「彼をベッドから出さないで。縛りつけてでもよ!!」
「は、はい!」
わたわたと動きはじめる彼らを見て、フォリアはうんうんと満足感いっぱいで頷く。
「あと、スレイ? 医者が良いというまでこの部屋を出ることを禁じますから」
命令です、と言い切るとさすがの彼も肩を落として着替えをやめた。
縛りつけてでも――、というのはさすがに冗談だが、そうでもしなければ無理をしてでも出てきそうな様子だった。
朝、ふとそんな予感がして、訪ねてきたのは正解だったようだ。
「――まったく」
患者脱走の危険がなくなったと判断したのか、部屋にいた医師たちは傷が開いていないかだけ確認すると早々に部屋を出ていった。消毒やら何やらは、フォリアが訪れる前に済んでいたらしい。
スレイは背中が痛むのか、俯せで寝転んでいる。起きていようとするのを、フォリアが無理やり寝かせたためだ。
彼の傍まで椅子を引っ張ってきて、それに座ると頬に風を感じた。
開けられた窓から新鮮な空気が入ってくる。血や消毒薬の臭いもなく、ともすれば彼が怪我人であるあるということも忘れてしまいそうだった。
「不自由はない?」
「ええ、何も。むしろあれやこれやと世話を焼かれるのは久し振りなので……、落ち着かないです」
スレイも家へと帰れば、大貴族の息子である。世話をする使用人に囲まれての生活は慣れているはずの身分だ。しかし城勤めをはじめて以降、大概のことは一人でするようになったといつかに言っていた。器用なものだと、フォリアには少し羨ましい。
「背中は痛む?」
「大丈夫――、と言いたいところですが、さすがに少し」
痛いと言いながら、彼は平素と変わらぬ顔で苦笑をもらす。フォリアが気に病まないように、とわざと軽い調子で答えているのだと分かるからこそ、胸が痛んだ。
「ねぇ、スレイ」
「はい、陛下」
「……本当に、もう、大丈夫なのよね」
アルシェンとラシエルとシャロンと、そしてスレイと。ずっと、幼馴染五人で支えあって生きていくのだと思っていた。王族と忠臣――それ以上に結ばれた絆は、もっと長く続くものだと漠然と思っていた。
だが、もう既に内二人が世を去った。
これ以上、貴方までいなくなったら――
「心配いりません」
膝の上で握りしめていた手を、スレイのあたたかな手が包む。
「私は傍にいます。貴女がそれを望む限り」
「――なら、いいわ」
フォリアは滲む涙が零れる前に、ぐしぐしと手で拭った。
その時、部屋の扉を叩く音がして、フォリア達は肩を跳ね上げた。
フォリアが返事をすると、外からシャロンの来訪が伝えられる。
「姉上?」
「あ、私が呼んだから……。まだ少し、早いけど」
約束の時間は午後のはずだが、先に弟の様子を見に来たのだろう。
扉が開かれ、シャロンが顔を出した。
「あら、フォリア様」
その手には小さなバスケットがあり、今日の茶菓子だろうかと内心期待しつつ、彼女に笑顔を向ける。
「いらっしゃい、シャロン。早かったのね」
「えぇ、……」
彼女は不思議そうな顔をした。フォリアがいること自体に対しての表情かと思ったが、そのわりには視線がえらく下の方にある。
「――どうして握手しているの?」
「え……。あ!」
フォリアとスレイはきょとんとして、視線を下げ、そこでようやく互いに手を握りっぱなしだったことに気付いた。
「これは、その、なんでもないわ」
熱くなる頬を無視して、フォリアはさりげなく手を離す。
「――それはそうと……! シャロンはどうしてここに?」
どうにか話題を変えようと問いかける――が、彼女がここにいる理由など一つだ。
シャロンは焦るフォリアに、苦笑を見せ肩を竦めた。
「弟が怪我をしたと聞いたのと、あと……、そこに重ねてフォリア様からの呼び出しもありましたからね。よほど酷いのか、と思いまして」
フォリアははっとする。
昨夜、スレイ負傷の件とともに、「明日、顔を見せるように」という通達をした。
この流れでは、スレイに何か起こったのかと心配させるのも無理はない。
「ごめんなさい、シャロン……。それは別件なの」
「みたいですね。元気そうですもの」
シャロンはスレイの上から下までに視線を走らせたあとそう言った。
「――陛下、別件とは?」
それまで黙っていたスレイが口を開く。
そうだったと、フォリアはシャロンに向きなおった。
「聞きたいことがあるの」
フォリアは昨夜の記憶を辿る。
ダンス、落下するシャンデリア、倒れたスレイ、そして――
「シャロン、貴女は昨夜どこにいたの?」
眩い金髪の後ろ姿。あれは、やはりシャロンだったように思えた。
見間違えならばいいが、もし本人だったならば、用事があると嘘をつく必要がどこにあったのだろう。
「昨夜、ストロファード邸で貴女を見たわ。……どういうこと?」
スレイが驚いたのか息を飲んだ。シャロンはそんな彼を一瞥し、首を横に振る。
「――フォリア様、場所を移しましょう」
「姉上、私に聞かれてはまずいことでも?」
身を翻そうとしていた彼女が足を止め、
眉をひそめた。
「いいえ。けれど、こんなところで話をすれば、あなたは気になって休めないでしょう?」
「あ、それはその通りね……!」
フォリアはぽんと手を打ち、サッと立ち上がる。
「あ、陛下……!」
スレイが声を上げるが、フォリアはそれを無視してシャロンの後を追いかけた。だが、 扉の近くまで来たところで思い直し、振り返ると、彼にびしっと指を突き付ける。
「この部屋から出ては駄目よ。覚えてるわね?」
起き上がろうとしていた所でぴたりと動きを止めたスレイを確認すると、フォリアは再度彼に背を向けて、部屋を出ていった。
場所をあらためる、ということで向かったのは庭園の一角だった。
季節の花が咲いていて、目にも美しい場所だが、辺りは開けており誰かが来ればすぐに分かる。内緒話にはうってつけの場所だ。
侍女にお茶の用意をしてもらい二人きりになると、シャロンは持っていた包みをテーブルの上に置いた。
「ではあらためて、お招きいただいてありがとうございます。ということで、今日はお茶請けにこちらを」
彼女が持っていたバスケットは案の定、だったようだ。中の包みを出し広げると、小さなビスケットがたくさん入っている。
「久し振りに焼いたので、ちょっと失敗してしまったのですけれど……」
「そうなの? おいしそうだけれど」
言われてみれば、多少いびつなような気もするが、大して気にはならない。焦げているわけでもなく、焼き目は丁度良い具合で、とても美味しそうだ。
「あ、これ何か挟んでる?」
「ええ。ベリーを使ったクリームを」
「へぇ……」
薄いビスケットに紫がかったクリームが挟まれている。それを一つつまみあげて鼻先に近付けると、あまずっぱいの香りがした。
シャロンが一つ口に含むのを見て、フォリアもそれにならう。
酸味と甘みが調和していて、とても食べやすい味だった。
それらは丸や四角、様々な形をし、それぞれに細かな模様が刻まれている。波型や格子模様など、形と模様の組み合わせは様々だ。中のクリームも、色々な種類のベリーが使われているのか、赤っぽいものや青っぽいものがあり、今フォリアが食べた丸く格子模様のついたビスケットには少し黒みがかったクリームが挟まれていた。
「そういえば、フォリア様はお怪我なさらなかったのですか?」
「私はスレイがかばってくれたから……」
自分のせいで彼が酷い怪我をしたのだと思うと、やはり気分が沈む。
「そうですか。貴女に怪我がなくて安心しました」
「でも、代わりにスレイが……」
「フォリア様。彼はあなたの
「……うん」
フォリアは王で、スレイは臣下。
彼女の言うことは正しいと思う。
だが、何故だかもやもやして、それ以上に言葉が出てこない。
暫く無言のままお茶会は進む。
フォリアは茶を一口飲み下し、未だに本題を訊ねていないことを今更思い出した。
「そうだ、シャロン。まだ答えを聞いていないわ」
シャロンが視線を上げる。
「――貴女は昨夜どこにいたの?」
スレイの部屋を出る前、言った問いを再度口にした。
彼女の目は静かで、フォリアには何も読みとることは出来ない。
シャロンが優雅に茶を口に含み、カップをテーブルに戻すのを見守る。
「絶対に、わたしだったのですか?」
「あ、と……、金髪と立ち姿が、そう見えて……」
あらためて訊ねられると、それまで抱いていた確信が揺らいだ。
金髪の人間など、この国にはいくらでもいる。見間違いだったのかもしれない。もしそうならば、それだけで彼女を疑うような問いを投げかけたのは――。
「私が見間違えただけなのよね? シャロンではなく……」
フォリアは慌てて問いなおす。すると彼女は、大きく頷いて笑顔を浮かべた。
「もちろんよ。用事があると、言ったでしょう?」
「そう、よね……」
ほっと安堵して気が抜ける。だが逆に彼女は難しい顔をした。
「シャロン……?」
「あ、いえ……。何でもないわ」
誤魔化すように首を振るのを遮って、フォリアはもう一度問う。
「シャロン、気になることがあるなら、話して?」
お願い、と畳みかけるように言うと、彼女は言いづらげな表情のまま言った。
「あなたがわたしに見紛うほど似た人が、ストロファード卿の側にいるなんて、と思って」
言葉の意図が読み取れず、フォリアは首を傾げる。
「どういうこと?」
「その……、あなたは彼を疑わしく思っているでしょう? その側にわたしがいたように見せかけて、わたしたちを分断させようとしているのではないかしら、って思ったんです」
フォリアは考えもしなかった可能性に目を丸くした。シャロンは言葉を迷いながらも続ける。
「それに、シャンデリアの落下も、陛下のことを調べているあなたたちへの警告なのかも、って……」
考えすぎですよね、と苦笑する彼女に、フォリアは何の言葉を返すことができなかった。
目の前にあった報告書にサインをしたフォリアは、溜息をついて手を止めた。
「何か問題がありましたか」
傍にいたスレイも、フォリアの大きな溜息に手を止める。
本当の所はシャロンの残した言葉が頭を離れなかった。
だが暗い話をしたい気分ではなかったフォリアはわざとらしく、じとりと彼を睨む。それからもう一度、今度はこれ見よがしに溜息をついた。
「いいえー? どこかの宰相様は、本当の本当に医者から許可をもらったのかしらね、と思って」
溜息をついた元々の理由とは全く異なる内容だが、それも気にかかっていないわけではない。たじろいだスレイに、フォリアは胡乱な目を向ける。
彼が仕事復帰したのは、事故から数日経ったつい今朝方のこと。どことなくげっそりした医官を伴って、フォリアの前に現れたのだ。
もちろん、医者も復帰して良いと言っていたため、完全に疑っているわけではないのだが、多少無理を言ったのではないかと推測している。連れてきた医官がげんなりした様子だったのもそのせいだろう。
こちらのちくりとした言い草に、スレイは何の言い訳も思いつかないらしい。珍しいこともあるものだと、フォリアは笑みをこぼす。
「まあいいわ。今回は大目に見ましょう。ただ……、無理をして傷が開いたりしたら、今度はきっちり――、最低十日間は休んでもらいますからね」
「……わかりました」
どこか不満げな顔をする彼に、まったくと肩を竦めた。
朝から今の昼過ぎまでという短い時間の中でも、何度か彼が微かに顔をしかめていることには気付いている。身体を動かした時に痛むのだろう。
復帰してくれるのは嬉しいが、無理をされるのは嬉しくない。
会話が途切れた時、コンコンと扉を叩く音が鳴った。
「誰ですか?」
フォリアが誰何すると、扉越しに侍女の声が聞こえる。
「王太子殿下がいらせられました」
「ルディス……?」
フォリアは思わぬ名前にスレイと顔を見合わせた。
今日の訪問の予定はない。とはいえ、彼を拒む理由もないので、フォリアは頷いて侍女に返答した。
「分かった。入ってもらって」
静かに開いた扉の先には、緊張した様子のルディスがいる。
「いらっしゃい、ルディス。どうしたの?」
手招きすると、おそるおそるという様子で彼は部屋に足を踏み入れた。
「あの……、お邪魔をして、申しわけございません」
何の用かは分からないが、彼が事前の予告なくこんな場所まで現れたのははじめてのことだった。それによる緊張だろうと、フォリアはその様子を微笑ましげに見守る。
「大丈夫。それより、何か私にご用?」
「えっと……」
ルディスはじっとフォリアの顔を見つめた後、ようやく要件を口にした。
「先日、母上が忘れ物をしたと、思うのです。それを取りに参りました」
「忘れ物……?」
シャロンが来たのは、数日前スレイの見舞いと鉢合わせたあの日が最後だ。
あの時彼女が持っていたものと言えば、ビスケットを入れた籠くらいだとフォリアは記憶している。しかし、置いて帰ったような覚えはない。
フォリアが首を捻っていると、スレイが口を挟んだ。
「――そういえば、姉上は次の日にも見舞いに来てくれたのですが。その後、床に女性物のチーフが落ちていました。それのことですか、殿下?」
ルディスはスレイの言葉にハッとしたように振り返る。
「そ、そうです!」
「ならば、殿下にも確認していただかなければなりませんので、共に取りに行きましょう」
「あ……、は、はい……」
背を向けるスレイにルディスは慌ててついて行こうとした。だが、その直前でフォリアに向きなおる。
「あの、陛下。……お変わりは、ありませんか」
「? ええ、何も」
どういう意味の質問だろうか、と首を傾げるが、ルディスは小さく首を横に振って、困ったような笑顔を見せた。
「いえ、それならいいんです」
失礼します、と頭を下げたルディスは、そのままスレイと共に部屋の外へと消える。
「……何だったのかしら?」
うーん、と首を捻ってみるが、当然その問いに答えてくれる人はいない。
ともかく、仕事を再開しようと思った時、フォリアはふいに数回けほけほと咳き込んだ。
「……風邪かしら」
ここ数日、咳が出ることが時折あった。
自分の胸元をさすってみるが、それ以外の異常は特にない。
「疲れてるのね……」
スレイの怪我があり、気付かぬうちに心労が溜まっていたのだろう。
フォリアは、今日はゆっくり寝ようと心に決めて、今度こそ仕事を再開した。
執務室からルディスを伴って退出したスレイは、無言のまま廊下を歩いていた。
後ろからは彼の小さな足音が聞こえる。
視線を感じた。探るような視線を。
だがスレイは、それに気付かぬふりをして、歩みを止めはしない。
城の裏手、掃除や見回りの人間も殆ど来ない場所まで辿り着くと、スレイはようやく足を止めた。巡回の兵もこの時間には通らないことを把握している。
ルディスもスレイから少し離れた位置で止まった。完全に二人きりになったのを確認して、スレイは口を開く。
「今日は、どういう目的で来たのですか」
静かに問うと、ルディスはビクッと肩を跳ねさせた。だが動揺は一瞬のことで、彼は毅然と顔を上げて、スレイを見つめ返す。
「――それは、こちらが聞きたいことです。叔父上」
スレイは彼をじっと見下ろす。
フォリアの前で見せている無邪気な顔はそこにはない。ラシエルと同じ色の、だが全く異なる性質を湛える青緑色の瞳が見つめ返してくる。
理性的で、年齢にそぐわぬ何かがあった。スレイはルディスとの血の繋がりを、はじめて強く感じていた。
「貴方の嘘をかばったことについて、ですか殿下」
ルディスはきゅっと唇を噛む。
シャロンがスレイの見舞いに来たのは、フォリアと会った時の一度きりだった。
当然「落としたチーフ」なるものも存在しない。
だが、彼はそれを肯定した。それは、「シャロンの忘れ物」が嘘だったという何よりの証拠だった。
「そうです、叔父上。何故、かばってくださったのですか」
存外、素直な返答にスレイは肩を竦める。その真っすぐさに、こちらも正直に答えることにした。
「貴方が嘘までついて、陛下に会いに来た理由を知りたかったから」
「それは……」
途端に彼の表情は曇る。
またこの顔だ。
スレイはルディスの表情、様子を観察する。
彼は、執務室に入ってきた時も、忘れ物という嘘をついた時も、同じ顔をしていた。
その浮かない顔を、フォリアは慣れない場所や状況ゆえと判断したようだったが、スレイの見方は違う。
あれは「怯え」だ。
だがその相手は、スレイでもフォリアでもなかった。あの場にいた誰に対してでもない。
なら「誰」に――?
スレイはそれを確かめるべく、ルディスを連れて部屋を出たのだ。
「――陛下は、」
小さな声に、スレイは彼を見る。
ルディスは俯けていた顔を上げ、意を決したように口を開いた。
「陛下は、お元気ですか」
その質問の意味がよく分からなかった。
言葉通りに受け取るならば、彼はつい今しがた自分の目で確かめたはず。
しかし、ルディスの目は真剣だった。
「僕は、それを確かめに来たんです」
「お帰りなさ……、えっと、何かあった?」
フォリアは神妙な顔で戻ってきたスレイに首を傾げる。
「――いえ、何も。忘れ物もありましたし、ちゃんと外まで送ってきましたよ」
「……そう?」
そのわりにはおかしな表情をしていたような、と思うが、スレイはそれ以上答えてはくれなかった。
フォリアはそのことについては追求するのを諦め、代わりに別のことを口にする。
「そういえば、ルディスの顔を見て思い出したけれど……」
先日交わしたシャロンとの会話を思い出す。
ストロファード邸での事故と彼女の言った「警告」という言葉。
あの場にいた人間の中で、怪我をしたりしかねなかったのは、スレイとフォリアだけ。
ラシエルのことを調べはじめた途端、危険に晒されたことになる。
シャロンの言う通り、それを偶然と片付けるのは出来過ぎなのではないかと思いはじめていた。
「貴方の怪我が良くなったら……、もう一度、ストロファード家を調べてみようと思うの」
スレイは不満なのか、眉根を寄せる。
「あんな事があったのに、ですか?」
「違うわ。あんな事があったから、よ。だって、シャロンが――」
彼女の名前を出した途端、彼は顔色を変えた。あまりに厳しい表情に、フォリアは思わず言葉を切る。
「……姉上が、なんです?」
スレイは続きを促してくるが、その声色は低く暗い。
急にどうしたのかと不安になりつつも、フォリアはおそるおそる続きを言う。
「あの日、シャロンを見たような気がしたのは、気のせいだったみたいなのだけれど……。彼女と話していて、やっぱりストロファード卿が怪しいんじゃないか、って……」
話すごとに、スレイの表情が影ってゆく。
この姉弟は、「仲良しこよし」という風な間柄でこそないが、仲が悪いということは決してない。連絡を頻繁に取ることがないのも、信頼の証だろうとフォリアは解釈していた。
だが今日のスレイは。シャロンの名を出すだけで、こんなにも表情を曇らせている。
それはフォリアが知る限りで、初めてのことだ。
「スレイ、本当にどうしたの? さっきから様子がおかしい――」
「貴女は、姉上を信頼しすぎなのではありませんか」
「え、し……信頼『しすぎ』って……」
それはまるで、信頼してはいけないような口振りだった。フォリアはただただ困惑する。
スレイは固い表情のまま、吐き捨てるように言った。
「言葉のままです。貴女は彼女の言葉を鵜呑みになさるのか」
「う、鵜呑みになんて……」
「彼女がいつも正しいことを言っているとは限らないでしょう」
「ッ――、シャロンが嘘をついている、とでも?」
スレイの言い様に、フォリアもつい語調がきつくなる。言ったあとに「しまった」と思っても、もう遅い。
フォリアはせめてこれ以上、喧嘩になってしまわないようにと口を噤んで俯いた。
今日のスレイは本当にどうしたのだろう。
普段、冷静さを保っている彼の姿はそこにはない。理論的にどうなのかよりも、「シャロンが」という点が気になるようだった。
彼は前宰相から、常に冷静に、公平に、と教えを受けて生きてきた。それは今の彼の性格にも大きな影響を与えている。
こうした場面で感情的になるのは、本当に珍しいことだった。
スレイもフォリアに倣うように黙ってしまい、何も喋らない。
だが長い付き合い故に、言葉がなくとも分かっていた。この沈黙の意味は「肯定」。
彼はシャロンが嘘をついていると思っているのだ。
だからこそ解せなかった。急に彼女を否定するようなことを言い出したのは何故なのか。
暫し睨み合いのような雰囲気のまま、静寂が落ちる。
先に沈黙に耐えかねたのはスレイだった。
「――ストロファードの件は、ひとまず保留にしましょう」
「……保留にして、どうするの?」
「ラシエル様に関する記録から、見直してみましょう。まだ、全てに目を通してはいないでしょう?」
彼の言い分は正しい。まだ彼が逝ってしまってから半年と経っておらず、当然フォリアは、彼の生前の記録も全てに目を通し切れていなかった。
諍いの種から目を逸らしただけなのではないか。そんな考えが一瞬心に浮かぶ。
だが、これ以上反論しても、話は進まないだろう。
フォリアは囁くような声で答えた。
「……わかったわ」